2006年9月6に日 北海道で国際顕微鏡学会参加中の天皇陛下の言葉
世界各国の報道
2006年9月10日 両陛下お見舞い 皇后陛下のベビーシューズ
2006年9月12日 命名の儀を前に愛育病院へ
命名の儀 お名前は「悠仁(ひさひと)」
お印は「高野槇」
2006年9月15日 退院
ギニアビサウ共和国発行の「悠仁殿下誕生記念切手」
女性セブン2006年9月21日号
「祝第三子ご誕生 秋篠宮紀子さまご出産までの7ヶ月ダイアリー」
週刊新潮2006年9月28日号
「やはり皇太子に皇統を継がせたい」と漏らされた美智子皇后の心痛
このときの紀子妃のお喜びの顔が、脳裏に焼き付いて離れません。それまでの十数年にわたる産児制限中、無理して笑顔を作られているんだなと感じる写真も多数ありました。ご夫婦のいさかいもあったと週刊誌で報じられました。ご自分の年齢からして、一刻も早く産児制限を解いていただきたい妃殿下と、父母の制限を守ろうとする殿下との気持ちのすれ違いもあったことでしょう。産児制限をかけるほうもひどいですが、それを頑迷に守り通そうとする殿下の心情も理解が難しいです。
お許しをいただいたという殿下の発言に加え、岩井氏が後でテレビで産児制限をかけたのは天皇皇后と言明していました。皇太子家に御遠慮する必要なぞ全くなかったのにと私は歯がみしたい思いです。
佳子様と近い年齢で男子がお二人でもいれば、お二人とも既に成人しており、眞子様のことでこんなに宮家がバッシングされることもなかったと思います。なぜ我々がこんなに破談を心から望むかと言えば、眞子様の子孫が将来の天皇になるという、とんでもないけど全否定できない可能性があるからです。
、公務をカバーなさってきた秋篠宮両殿下。
この方々がいらっしゃらなければ、当時国民の心は、皇室から離れ、廃止論が噴出していたと思います。
そして、たった一人の子供をたくさんの職員で育てるより、公務に忙しい毎日でありながなら、二人の子を少ない職員で育て、40に差し掛かる中、皇室のために、三人目を妊娠出産、それからの子育てと公務、体調を崩したと発表しないだけで、体調悪いこともあったでしょうに、
休むことなく、働かれる紀子さまがどれだけ大変であったかと思います。
それでも、子供の誕生でさえ、雅子さまお可哀想との世間のバッシングがあったのは、雅子さま知らないわけない。
せめて雅子さまが、秋篠宮家に親王が授かり嬉しいありがとう、今まで公務をできない自分を支えてくれてありがとうと、世間に向けて紀子さまを庇えば、雅子さまの人間的な評価も違ったし、紀子さまも気持ちが楽だったのにと思います。
30年笑顔を絶やさない紀子さまの今の心境を思うと、倒れられないか、心配で仕方ないです。
ここからは私の想像ですが、ご家庭内でも「秋篠宮妃はよくやった」とおほめになったり、ひどくうれしそうになさったりが、美智子妃にはおもしろくなかったのでは? それで、それまで紀子さまとのほうが仲が良かったのに、一転、マサコヒびいきになられたのではないかと思います。そう考えると、その後の秋篠宮家への美智子妃の仕打ちも納得できのですが。
ありがとうございます。
たまたまニュースで見ていて、明仁天皇が、
「秋篠宮妃が~母子ともに元気で~ありがとう」
とおっしゃっているあいだ美智子皇后はずうっとうつむいていました。帽子がいやに大きくて表情は窺えませんでしたが、体全体から不機嫌オーラを発散。
この人は一体なにを考えているのかと、不思議でした。
まだ愛子内親王誕生前に側近がお世継ぎを心配すると、
「眞子がいるではないか」
と明仁天皇が答えたという噂にもびっくりしたものですが、悠仁親王殿下ご生誕以後の美智子皇后の一連の言行には不信感いっぱいになりました。
秋篠宮両殿下がお労しいです。
それにしても悠仁さまを抱いて退院なさるときの両殿下の写真、何度拝見しても感動ものです。
日本にとって、皇統が繋がったという晴れがましく嬉しいことだったのに、何より将来の天皇陛下になられるというのに、、、一宮家のご出産ということで「ご記帳所」も設けられず、「雅子様が傷ついた!」とか、わけのわからない理由でメディアも批判的でしたね。
もうお一人か、できればお二人、親王様がいらっしゃったらと思っていましたので、何かの会見で秋篠宮様が「お許しが出ましたので」とおっしゃったことに驚愕しました!
許さなかったどなたかと、そのことに従っていた秋篠宮様にも憤りを感じた言葉でした。
また、天皇家の男性2分の1不妊説があり大正天皇の4人の宮様から当てはまっています。私は男女どちらかに決定的な問題があったのではなく、現代では解決できたケースもあると思います。昭和天皇と香淳皇后はなかなか男子に恵まれず側室の話が出ましたが、昭和天皇が断り、皇后には「高松さんも秩父さんもいるから大丈夫。」と励まされたエピソードからも昭和天皇の時代からお世継ぎは正室と側室の役割ではなく、兄弟で分かち合う責任になったと考えています。仕事で出会う方で一般家庭でも70代以降の世代では、お子様がいない方が以外に多いです。明治天皇が昭憲皇太后にお世継ぎを無理強いしなかったのは、身体が少女のままで出産に耐えられないと判断されたという話が伝わっています。一般家庭でも栄養不足や虚弱で妊娠出産はみんなができたことではなかったのだと思います。夫の兄弟に子どもができて安心したという話されている方もいました。平成の時代に誰が産児制限をかけたかわかりませんが、お世継ぎを早く秋篠宮家に任せていたら雅子さん、愛子さん、紀子さま、眞子さま、佳子さまの女性たちはそれぞれ違った人生があり、悠仁さまと将来の妃さまのプレッシャーはなかったと思います。
「愛子天皇を潰した1人の人」というタイトルなので誰のことなのか読んでいくと菅総理、眞子さま、ケーケーさんの事を長々書いたあげく実は紀子様だと最後に書いています。
3年も会わない婚約内定に過ぎないのに、事実婚という失礼な言葉で表現し「悠仁さまを育てておられる紀子様は今の眞子様の事実婚状態が愛子天皇を阻むことになるので安心なようだ」
これでも女性セブンに抗議しない宮内庁ってなんなんですか。
ご退院時の秋篠宮殿下ご夫妻も満面の笑みでステキです。
お二人ともお世継ぎが誕生されたことよりも、秋篠宮家にお子様が新たに加わった父母としての喜びが大きかったのではないでしょうか。
一説では上皇后が産児制限をかけられていたとのことですが、それが本当であれば、なおさらのことだったと思います。
もしそうでなければ、秋篠宮家には4~5人のお子様がいらっしゃったのではないでしょうか。