前回は、後桃園天皇の娘、欣子内親王を愛子内親王になぞらえ、傍系宮家の光格天皇が「婿養子」として天皇家に入った・・・という森氏の考え方を紹介しました。
しかし、あくまでも内親王は「中宮」であって「天皇」にはならないのです。
江戸期の皇室において正室、側室はほぼ「女御」で統一
死後に「皇后」に叙される事はあった
ので、欣子内親王は天皇の一人娘という事で、最初から「中宮」でした。
中宮と皇后の名称の違いは何かというと、位としては皇后の方が上に感じます。
平安時代には正式の妻は「皇后」だけど、天皇が本当に好きな女性で身分が皇后と相応ならば「中宮」という感じで覚えておけばよいでしょう。
「皇后」はほとんどなる人はいない。
では先に行きます。
欣子の夫は前述した光格天皇(1771~1840年)である。
しかし、困ったことがあった。
何が困ったことなのかしら?とちょっと不思議になりますね。欣子内親王が中宮にたてられたのは1974年の事です。
光格には側室(典侍(てんじ))勧修寺婧子(かじゅうじただこ)との間に男子(寛宮(ゆたのみや)、恵仁(あやひと)親王)があり、すでに15歳だった。
典侍というのは女官の名称で、位が高い方にあたります。しかも天皇の身近にいるので自然に側室になりますわね。
1800年に勧修寺さんとこに寛宮さんがお生まれになったんどす。
同じ年に中宮さんも温仁親王さんをご出産あそばれたものの、すぐにのうなってしまわれたんです。だから・・・
彼は(寛宮)9歳のときに立太子の儀式を経て、皇嗣(次の天皇)の地位にあった。
欣子は若くして得た男子を亡くした後、子供に恵まれない状態が続いた。
そこで側室の子である寛宮を養子として、天皇の後継ぎとした。
ところが自分が出産し、いわば正統の天皇家の子供ができたのだ。
1816年に中宮さんは悦仁親王さんをご出産あそばされたんどす。
でも、勧修寺さんの宮さんはすでに東宮さんにおなりや。
今更中宮さんが親王さんを上げられても、次の御代は勧修寺さんの寛宮さんでお決まりや。
ただ、すでに立太子が行われたこともあり、寛宮が後継ぎであることに変更はなかった。
1817年、光格は譲位し上皇となり、寛宮が仁孝天皇となった。
ここまで大丈夫ですか?
系図にするとこんな感じです。
1820(文政3)年夏の状況を考えてみる。
光格上皇48歳。皇太后となった欣子41歳、高貴宮4歳。
一方、仁孝天皇は20歳で、この年、初めての子鍠宮(おさのみや)(安仁(しづひと)親王)が誕生した。
現皇室典範の考え方から言えば、当時の天皇の男系長男なのだから、鍠宮が皇位継承者となるのが筋である。
しかし、当時はそのようには考えられなかった。仁孝天皇はいわば中継ぎであり、本家正統の高貴宮こそ、次の天皇だと考えられたのである。
ここまでわかりましたか?
へえ、そうなんだ~~と思ってしまう人もいるんじゃないかと思います。
でもここに惑わされてはいけないのです。
仁孝天皇を悠仁親王になぞらえているんですね。そして最終的には愛子内親王の子供が皇位を継ぐ。なぜなら愛子内親王の系統こそ本家正統だからと。
また今の皇室典範を江戸時代にあてはめて考えるなんておかしいと思いませんか?嘘を見破ったり。って感じです。
つまり、天皇本家の流れを汲(く)む女性皇族の欣子の実子高貴宮と、現職の天皇である仁孝を父に持つ鍠宮を比較したとき、高貴宮のほうが貴種性が高いと考えられていたのだ。
それを担保したのが本家の娘、皇太后欣子である。
皇統が完全に閑院宮系に移ってしまう可能性はなるべく排除し、従来の天皇本家の血統を継ぐ女性として、欣子は重要な存在となった。
これは完全に間違った考え方です。
「皇后腹」から生まれた子の方が尊いという考え方自体、中国や朝鮮の考え方なんですね。ゆえに、あちらの国ではいつも正室と側室の間で皇位継承争いが起き、毒殺などが横行するわけです。
日本の場合、江戸末期になると皇族よりも「五摂家」の方が高位になります。
また、日本の場合は皇后が、中宮が・・・ではなく、「〇〇家」の後ろ盾という方が力が強いのです。仁孝天皇の側室鷹司茂子は死後「皇后」を贈られています。
ではなぜ仁孝天皇の子よりも中宮が生んだ子が東宮に?
単純に言えば「年上」だったからです。この頃は乳幼児の死亡率が高くてとにかく生き延びた者勝ちになっているんですね。
ところが、高貴宮は1821年に5歳で亡くなってしまう。
42歳である欣子の年齢を考えると、天皇本家系で皇統を継ぐことが難しくなった。
さらに、鍠宮も同じ年に亡くなってしまう。
加えて、仁孝天皇の正妻(女御(にょうご))であり、鍠宮の生母鷹司繋子(つなこ)も2年後、2回目の懐妊で女児を産む際、生まれた子とともに亡くなってしまう。25歳だった。
天皇家に残されたのは、皇太后欣子(44歳)、欣子とは血がつながらない義理の息子である仁孝天皇(23歳)だけである。
仁孝がまだ若いのが希望であったが、皇統は危機にあった。
結局、仁孝天皇は、側室何人かとの間に男子に恵まれそのうちのひとり、煕宮(ひろのみや)(統仁(おさひと)親王、1831〈天保2〉年生まれ)が、のちに孝明天皇として即位し(1846〈弘化3〉年)、皇統は保たれた。
ただし、仁孝天皇や孝明天皇には本来、天皇本家の血統ではないことに対するコンプレックスが強かった。
はあ?もう誰はだれやらわからんわ。
大丈夫です。
森氏のいう「中継の天皇の長男」は鷹司繁子がお産みまいらせた安仁親王。
でもわずか1歳でのうなってしまわれて。その頃、着袴の儀を迎えていた悦仁親王が東宮さんになるのは自然な流れやったのではないかと拝察します。
前述したように鷹司繁子さんは五摂家出身で死後「皇后」さんを追贈されてます。
決して立場的に皇太后さんと同じくらいやと思います。
さて、仁孝天皇や孝明天皇が「直系ではない」コンプレックスを抱えていたというのは間違いです。
歴史を振り返るに、継体天皇、南北朝、直系でない天皇なんてざらにいましたし、何より貧乏な皇室の中で天皇になっても何か得する事があるかしら?って思いませんか?
むしろ、親王や内親王に生まれて寺に預けられ五摂家に頭を下げて生きなくていい・・・くらいがせいぜいのプライドです。
森氏が傍系といいますが、光格天皇からずっと直系で繋がっているわけで仁孝天皇も孝明天皇も「男系の天皇」である事に違いはなく、コンプレックスを持つ事もなかったでしょう。
むしろ、課題は「どうやって皇統を繋ぐか」という事で、仁孝天皇は4つの世襲宮家から猶子を入れて万が一に備えていました。
孝明天皇の即位の年、67歳まで生きた欣子は、いわば、天皇本家の実質的家長であり、広い影響力をもった。
皇位継承や側室の序列など皇室内部のことについて、彼女の意向や考え方が決定に大きく反映されたのである。
維新のあとの1870(明治3)年、彼女の陵墓石塔が、前例を覆すような七重塔の形式で作られた。
天皇本家の最後の女性、欣子の存在感は、それほどまでに大きかったのである。
要は愛子内親王の貴種性が高く、秋篠宮も悠仁親王も先に死ぬぞ・・・と脅しているような文章に見えます。
しかし、実際に女性として位人身を極めたのは、仁孝天皇の娘にして孝明天皇の姉である淑子内親王です。
淑子内親王・・・閑院宮愛仁(なるひと)と婚約によって「内親王宣下」を受けるもその2日後に彼は死んでしまう。
その当時絶家となっていた桂宮を継承。12代桂宮になる。
1866年、准三宮、一品となり「桂准后宮」と呼ばれた。
孝明天皇の正妃、九条夙子もまた准后ではあったけれど、位としては淑子内親王の方が上です。
なぜにこの内親王が高位を極めたかと言えば、現天皇の姉にして先帝の娘、宮家の当主であったからでしょう。その代わり、一生独身ではあったのですが。
もはや嫡流が光格天皇になっていた幕末期における皇太后欣子は過去の人というか、知る人ぞ知る「後桃園帝の女一宮」でしょう。未亡人が皇室の政治に口を出す事などないと思いますし、穏やかで静かな老後だったのでは?
現在の皇統も19世紀前半と同様に綱渡りの状態にある。天皇の一人娘である愛子さまと、血筋から言えば傍系である秋篠宮家の悠仁さまとで、どちらが次の天皇になるべきかの具体的な議論が起こっている。
何が何でも男系男子と考えれば、悠仁さまが継承ということになるが、これは近代の理論である。
江戸時代の皇位継承を現代の皇室典範にあてはめて考えたのは森氏である。
秋篠宮文仁親王は先帝の二の宮で悠仁親王は皇孫です。いわば直系の血筋です。森氏の理論から言えば今上だって「光格天皇の子孫」である事をコンプレックスに思わないといけないのではありませんか?
秋篠宮を閑院宮と同じく語るのは無茶苦茶でおかしいです。
江戸時代的な継承規則に則(のっと)れば、愛子さまのほうが正統性は高いと考えることもできる。
愛子さまが、天皇家と遠くでつながる男性と結婚することはないであろうが、仮にそんなことがあれば、愛子さまの継承には正統性が増す。
つまり、森氏達のような「女系派」が考えているのは、愛子内親王の即位ではなく、その子供の即位なのです。
愛子内親王が旧宮家男子と結婚しても愛子内親王は「妃」です。その長男はあくまでも宮家当主であって悠仁親王の男子には到底及ばない事を考えるべき。
っていうか、本気で愛子内親王が旧宮家男子と婚姻すると思ってるのか?
あちらさんも選ぶ権利がありますよ。家柄のよさを誇る旧宮家なら水俣病チッソの会長の孫の血を受け継ぐ嫁は欲しくないでしょう。
正田美智子さんが皇太子妃になっても、結局旧宮家や旧華族と仲良く出来なかったのはそこにありますからね。
今回、強調したいことは、皇統に重要であるのは男系継承だけでなかったことである。前近代においても、女性皇族の地位が低かったわけではない。
コロナ禍が落ち着いた様相を見せるここ1カ月、女性皇族の活躍が目立つ。
江戸時代よりも、男女の関係が近代化している21世紀。
男女共同参画社会のなかで、女性皇族の地位がより高まっていくことを期待したい。
女性皇族の地位が低かったわけではない=男系継承だけじゃない
これって全然違う論理の展開で論文の末としてはペケを付けざるを得ません。
だらだら書いて結局そこかい?その証拠を並べ立てたつもりが、全然違ってたという事になるのです。
男女共同参画といえども、独身の承子女王より、出雲に嫁ぎつつもあっさり東京に帰ってきた典子さんより、嫁いで男子を得た綾子さんの方が「元女性皇族として立派にお仕事をやりとげた」という事に違いはないのです。
男女共同参画といいつつも、雅子皇后は養蚕すら一人では出来ずに家族を巻き込み、仕方なくやる。
公務が嫌いでえり好みし、すぐに「体調の波」を理由に休む。これが男女共同参画時代の象徴には見えません。
愛子内親王もまた、生まれた時からまもとに学校に通った試しがなく、大学も通えず、成年になっても仕事をしない。これが「男女共同参画」時代の皇族の在り方なのでしょうか?
どんな理由を上げようとも、「公務を受けることが出来ない」女性皇族はいらないのです。
男女共同参画とは、30年くらい前から言われてきましたが、そういえば、野党はいつも女性の権利だの、差別を許すなだの主張してきました。
てっきり女性票狙いかと思ってましたが、天皇制の崩壊を目論んでいたのかもしれませんね。
自民党の政治家も天皇家と繋がりがある人もいることを考えると、日本が天皇の国だということがよくわかります。
今回の選挙もその点を重視して投票に行きたいと思います。
天皇になる資格はなくても、女性皇族の地位は変わりないですよね?
それぞれのお立場の範囲で、お役目を果たす事が大事で、
その意味では美智子上皇后も御立派だと思ってます。
皇后が、最も大事なお役目を果たせないのは仕方ないとしても、努力もせず、周りや皇室のせいにして謙虚さがない。
娘にもそういう教育をしています。
いささかスレチですが、男女平等について。
昨年、女子の高校野球全国大会の決勝が甲子園球場で行われました。選手たちはこのサプライズに喜んでいたし、その粋な計らいは良い事でしたが
優勝校のキャプテンには、おとこ兄弟がいて、「男子が目指すのは甲子園だけど女子は違う」ということを最初から当たり前の事と考えていたとの事です。
周りが騒いでも、それが本人たちの率直な考えでは?
昨今の男女平等は異常です。女系天皇に問題があるから女帝はダメだと釘を差しているのに「差別だ!」、本来は皇后の仕事なのに天皇も「興味がある」「楽しみたい」と言って養蚕に参加して、それをマンセーとは。
だったら、女子トイレや女湯にも興味を持って入ってみてはどうでしょう?
あ、女湯を盗撮した人はいましたね。雅子さまの提灯持ち友納尚子が。
若くて清々しいお姫様を。