鵠沼・昔砂丘の一本松

湘南藤沢住人の記憶の手掛かり …… フォト・ブログ

白旗川③境川に向かう

2011-06-15 | 藤沢


白旗川の左岸にある緑の広場です。
広場の向こうに小田急線の線路が走り、その後ろにマンションが見えます。
白旗川はこの先でゆるやかに左に曲がり、小田急線の下を潜って花の木地区に向かいます。


花の木地区に入ると、白旗川の周辺の景色も大きく変わります。
遠方にマンションが見えてきました。
戸建ての住宅地から高層マンションの地区へと川は流れて行きます。


マンションのすぐ横を流れ、白旗神社の前を横切る直前です。


白旗神社の鳥居の前を過ぎ、白旗川は藤沢市民病院に向かってさらに流れて行きます。


市民病院前を横切ると、いよいよ終点の境川合流地点です。
堤防の梁に緑が絡んで、流れの表面が明るくなっています。


境川に合流地点では、カシワバアジサイが別れの挨拶を送っていました。
以上流路全長2.3kmの白旗川でした。






白旗川②住宅地を流れる

2011-06-14 | 藤沢


しばらく進むと、川の両側に道があり、それぞれ住宅が立ち並ぶ落ち着いた街になりました。


左手の公園にあった昭和29年9月建立の記念碑です。
この辺りの石原谷と花の木の地区は、その昔は農業地区でしたが長い間水難に苦しめられ、
皆が一致団結して土地改良に取り組んだことが刻まれていました。
面白いのは石碑の裏面でした。
裏面は、昭和47年10月建立の記念碑を兼ねていました。
その後、農地は宅地に転換することになり、石碑は宅地開発事業完成記念碑となったのです。


川沿いのアジサイもそろそろ見頃になっていました。


突然、川の雰囲気が変わりました。川の両側を鉄骨でしっかり固めた工事区間の始まりでした。


道より高い堤防をコンクリートで固め、梁で崩れないように補強されています。
ここから境川合流点まで、白旗川はこの形で続いていました。
台風や集中豪雨の増水対策のため、止むを得なかったのでしょう。
工事はこれからも続くようです。、



白旗川①源流

2011-06-13 | 藤沢

境川の支流で、流域が藤沢市内で完結する「白旗川」に沿って歩きました。
正直に言って、あまり川らしくない「川」ですが、これも現実の「川」です。


小田急線善行駅東口を出て北に向かって坂を下ると交差点に出ます。
右手から坂が下って来ます。斜め左からもゆるやかな坂です。
白旗川の源流は亀井野と言われていますが、
すでに暗渠に変わっているので見ることは出来ません。


交差点を左に曲がって、小田急線のガード潜って西に進みました。
多分、この道路に沿って暗渠が流れているはずです。


善行坂1丁目の交差点です。
道はここから上り坂になるので、信号を越えると左側斜めの道に入りました。
川の流れそうな地形を考えた結果です。


予想通り道のすぐ近く、右手の民家の間に暗渠を抜けだした流れが見えました。
現在では、ここが白旗川の源流と考えるしかありません。


しばらく白旗川は民家の間を流れるので、直接近寄ることが難しいのですが、
なんとか道をたどり、どうにか川らしい地点に着きました。
住宅地を流れる白旗川です。左手には川沿いの道もありました。





もう厄年には無関係なのだ

2011-06-12 | 藤沢


鵠沼皇大神宮の社務所で見た「厄年一覧表}です。
よく見て実感しました。もう私には無関係なのです。
その昔は、「厄払い」と称して「一杯飲みに行く」口実にもなりましたが・・・。
「高齢者は気楽に生きろ!」ということにします。

伏見稲荷の絵馬です

2011-06-11 | 藤沢


鵠沼海岸にある伏見稲荷の境内で見つけた絵馬です。
東日本震災の復興を祈念しながら、同時に鵠沼の住民の安全も祈念しています。
3月11日以降、鵠沼公民館に関東大震災の被害状況を調べに来る人が増えたようです。
他人事ではありません。海辺の砂地に住む人々の気持ちがよく分かります。

魚附砂防林の標識

2011-06-10 | 藤沢


鵠沼海岸を散歩中、鵠沼と片瀬の境の辺りで見かけた標識です。
「御大典記念魚附砂防造林地界」と言う文字が読み取れますが、
鉄筋コンクリートの標識が今にも崩れそうな様子です。
昭和3年(1928)、昭和天皇の即位記念事業として、藤沢市の片瀬から平塚市の南浜岳までの約180haに、
魚附砂防林の造成が始まりました。魚附きとは、漁業資源を育むことを意味しているようです。

「機雷と砲弾」の碑

2011-06-09 | 藤沢


鵠沼神明の皇大神宮の社殿右脇の森の中にある奇妙な記念碑です。
石垣の台座の上に、「機雷と砲弾」が飾ってあります。
昭和16年頃海軍省から下附され、台座に「海軍省下附」の文字が刻まれていたようですが、
時代が変わり、今は消えています。
現在神社の森は立入禁止になっているので、目にする人は少ないと思います。

祖先は川と戦ったのだ

2011-06-08 | 藤沢


引地川の右岸、大平橋と日の出橋の中間に堀川改修記念碑があります。
遊歩道ではなく、川の堤防近く流れに向かって建っています。
文化5年(1809)浅場太郎左衛門の建立で、碑文によると、
「天明6年(1786)7月17日の堀川(引地川)の洪水の後、祖父が堤防を建設し、
享和3年(1803)5月19日の洪水の後、父が堤防を建設したことを記念して碑を建てた」とあります。
残念ながら当時の碑は消失し、現在の碑は、昭和7年(1932)8月23日子孫の浅場寅吉が建立したものです。
暴れ川の堀川と戦った浅場家の歴史が分かる記念碑です。


記念碑の近くに、石造物が並んでいますが、関係は不明です。

引地橋近くの道祖神

2011-06-07 | 藤沢


鵠沼地区の最西北に引地川を渡る引地橋があります。
近くの引地町内会館前にある安政2年(1855)正月建立の道祖神です。
隣に小さな浮彫の双体道祖神がありますが、建立時期は不明とされています。
様式的には比較的新しいものと考えられています。
その隣にあるのは痕跡が残った古い道祖神のようです。

ビーチバレー発祥の地

2011-06-06 | 藤沢


鵠沼海岸のサーフビレッジ南側の前庭にある記念碑です。
サーフィンではなく、これは「ビーチバレー発祥の地」を記念したモニュメントです。
この海岸で昭和62年(1987)に第1回ビーチバレージャパンが開催され、
平成18年(2006)8月18日、第20回ビーチバレージャパンに際して記念碑が建立されました。


よく晴れた海岸の常設コートでは大勢の人たちが歓声をあげてビーチバレーを楽しんでいました。
ビチーチバレーは2人チームだったと思いますが、思い思いの自由なスタイルです。

アップルちゃんが来た

2011-06-05 | 猫たち


時々小雨の小さな庭に、白猫アップルちゃんがやって来ました。
最近は姿を見せなかったのですが、雨で遠出が出来なかったのかも知れません。
甘えるネコではないので、家人が抱き上げるとぶらりとしているだけです。
顔もきれいに手入れされているので、家では大事にされているようです。

賀来神社・はてなの道標

2011-06-04 | 藤沢


賀来神社の海岸通りに面した石垣の中段にある「はてなの道標」です。(5年前にも掲載しました)
右に行くと「小田急鵠沼本町駅」、通りをそのまま進むと「藤ヶ谷橋を経て海岸」とあります。
「小田急鵠沼本町駅」は実在しません。多分現在の「小田急本鵠沼駅」のことでしょうが、道標の表示には疑問があります。
「藤が谷橋」はその昔存在したようですが、今は痕跡もありません。


道標のもう一面を見ると、「江之島電停前を経て」しか読めません。
鵠沼駅はすぐそこですから間違いはありませんが、その先は何処だったのでしょう。
石垣側の道標裏面に、「昭和3年御大典記念」と言う文字がありました。
小田急江ノ島線の開通は昭和4年ですから、この道標は1年前に建てた予定の道標だったようです。



賀来神社・帆足可成の句碑

2011-06-02 | 藤沢


賀来神社境内の奥の木立の陰に「帆足可成」の句碑があります。
「古がらしの落ち行くあとや水の月」とあります。
鵠沼別荘地開発、賀来神社遷座に貢献した伊東将行が、
明治37年(1904)友人の帆足可成を偲んで建立したものです。

ニエ・アル記念広場

2011-06-01 | 藤沢


国道134号線が引地川を渡る鵠沼橋の手前の海側に「ニエ・アル記念広場」があります。
ニエ・アルは中国国家「義勇軍行進曲」の作曲者です。
昭和10年(1935)に鵠沼海岸で遊泳中に水死し、その死を悼んで昭和29年(1954)藤沢市民有志が記念碑を建てました。
その後台風の被害等もありましたが、昭和61年(1986)に没後50周年を記念し胸像レリーフなど追加し再整備されました。


当時の葉山市長が由来を記した記念碑です。
記念広場にはこの他にもいくつか記念碑が置かれています。