鵠沼・昔砂丘の一本松

湘南藤沢住人の記憶の手掛かり …… フォト・ブログ

海軍道路の桜

2010-03-31 | 横浜


相鉄線瀬谷駅のすぐ西側を北に真っ直ぐ伸びる環状4号線、地図に海軍道路と記されています。
ここは桜の名所で道沿いが桜並木になっています。
今年は花冷えの期間が長く、まだ駄目だろうと思いながら訪ねてみましたが、やっぱり駄目でした。


それでも、よく見ると準備はすっかり整っているようでした。
暖かい日が2~3日続けばすぐ見ごろになりそうでした。

上飯田・イヌツゲの生垣

2010-03-30 | 横浜


飯田神社の帰り、旧道のかまくら道を南に歩きました。右手に畑地が広がるところで、
長いイヌツゲの生垣に出会いました。
長い生垣を撮るため、畑地の中の道に入って、やっと全体を収めました。


生垣をくぐる門の左手に、横浜市の名木古木の指定の掲示がありました。
よく見ると、この部分だけ、一部ヒイラギが混ざっているいるように見えました。
それにしても、手入れが大変だろうと思いました。

上飯田・飯田神社(鯖明神社)

2010-03-29 | サバ神社

サバ神社探訪第8号は横浜・上飯田町の飯田神社です。
長後街道を境川の高鎌橋で藤沢から横浜に渡り、団地入口の交差点を左折、
しばらく北に進むと、バス停飯田神社前に着きました。


飯田神社は道路の右側にありました。バス停前で、最初に目に入ったのは地蔵堂でした。
地蔵の大きさは様々で、地蔵は6つありましたが、台座は7つありました。
この地蔵堂とは別に外側にも1体だけの地蔵堂がありました。
地域の地蔵がここに集約されたように見えました。


地蔵堂の隣には、石仏・石碑が並んでいました。これもここに集められたものでしょう。


サバ神社にしてはめずらしく、案内板がありました。


たまたま境内の修理中で工事の車などが入り込んでいたので、
社殿の写真に工事の車が並んでしまいました。
修復が終わった頃、もう一度参詣しようと思います。


ここにも神楽殿があり、よく見ると神楽囃子保存会のメンバー募集の掲示が出ていました。
案内板によると、明治20年頃、ここで飯田学校が開かれていたようです。


工事作業中の場所にあった由来を伝える石碑です。
勧進年代は不明ですが、延応元年(1239)に地頭の飯田三郎能信が参拝して奉幣した、
とあるので、それ以前の創建です。
新編相模風土記稿には「飯田明神社、鯖明神とも言う」とあるようです。


飯田神社には鐘楼があり、立派な鐘がありました。
鐘の表面の記述によると、古い鐘は太平洋戦争に供出され、
20年以上の間鐘の音を聞くことが出来なかった、とあります。


周辺の開発が進み、氏子達の共有地を処分して、鐘を新調し、鐘楼を整備したとあります。
昭和46年のことです。

タマリュウの穴

2010-03-28 | 小さな庭


小さな庭の中央はタマリュウで埋めてあります。
芝と違ってたいした手入れもしないで、1年中緑が楽しめるのが特長です。
難点は時々ネキリムシ?の被害が発生することです。
そこだけタマリュウが枯れ、穴が開いたようになります。
出来た穴の周りのタマリュウの緑が濃くなるので、被害が余計に強調されます。

下飯田・美濃口家長屋門

2010-03-27 | 横浜


境川の渡戸橋から左岸の川沿いの道を北に歩きました。
しばらく行くと、右手の畑地の向こうの旧道沿いに立派な長屋門が見えました。
昔の長屋門ではなく、現役の長屋門です。


畑地を横切って、長屋門に近づきました。
江戸期以来の名主で、明治になってからも村長を出し続けた美濃口家の長屋門でした。


入口に案内板があったので、長屋門の説明かと思ったのですが、美濃口春鴻の説明でした。
美濃口春鴻は享保18年(1733)の生まれで、江戸期を代表する俳人だったようです。
美濃口家に残る資料が有形文化財の指定を受けていますが、非公開となっていました。

下飯田・左馬神社

2010-03-26 | サバ神社

サバ神社探訪第7号は横浜・下飯田町の左馬神社です。
この神社は今年の1月にも訪ねたのですが、当時はサバ神社12社の存在を知らなかったので、
もう一度初心に戻って参詣しました。


境川の渡戸橋の左岸から東に進み、自動車道路を横切るとすぐ境内に入るのですが、
今回は古い参道から訪ねることにしました。


自動車道路を右折して進むと、左手にちょうど花盛りのハクモクレンがありました。
花を撮るため少し先まで進んで振り返りました。
このハクモクレンの左に、今は殆ど使われない古い石段があります。


ハクモクレンは見事に咲いていました。


古い石段を上って、古い参道を進むと古い鳥居がありました。
川向こうの七ッ木神社と同じ形式の鳥居です。
大分痛んでいますが、このままになるのでしょう。


古い鳥居から少し進むと新しい鳥居が出迎えてくれました。
現在はここからが境内となるのかも知れません。


木立に囲まれた左馬神社の社殿です。由来等を説明する掲示等は見当たりませんでした。
ネット情報では、ここの祭神は源義朝となっています。


社殿には右から横書きで「社神馬左」の額が架かっていました。


境内の中央右寄りにイチョウの大木がありました。
黄葉を楽しむため、秋に再訪したいと思いました。


帰りは、渡戸橋まで戻り、境川左岸を北に向かいました。




第六天から草木橋まで

2010-03-25 | 横浜


第六天神社裏から草木橋まで和泉町のぶらぶら歩きです。
酒湧池から神社の裏手の道を北に向うと、唖然とするような生垣に出会いました。
これだけ立派だとコメントも無用です。


民家の塀の中に組み込まれた六地蔵です。
特に説明もありませんが、地元の人達に大事にされているようです、


道角に石碑がありました。多分道祖神だと思われますが、ここまで磨耗すると、判読は不可能です。


草木橋の袂に、石像・石碑がまとめて保存されていました。
周辺の開発に伴う散逸を防ぐための処置だと思われます。


石像・石碑群の前の民家の塀に、現代の石像が並んでいました。




アップルちゃんの春が来た

2010-03-24 | 猫たち


冬の間見かけることが少なかった、白猫アップルちゃんがやって来ました。
小鳥達の糞で汚れたところで、背中をごろごろしていました。


「そこでは毛が汚れるからやめなさい」と声をかけたら、ひょっこり起き上がって、
次の散歩コースに向って行きました。
春の自由猫、アップルちゃんです。

下和泉・酒湧池(さかわくのいけ)

2010-03-23 | 横浜


第六天神社の左側の坂道を上って、社殿の裏手に進むと、右側に「酒湧池」の案内がありました。
民話では、病気の父親をよく面倒を見て、酒を買って飲ませる孝行息子のために、
神様が池の水を酒に変えたようです。
それを知った村人が、池の酒を樽につめ、一儲けしようとしたため、
ただの水になってしまった、と伝わっています。


竹で作られた垣根の間に急な階段が出来ていました。


階段を下りたところに小さな平場があり、小さな祠がありました。
よく見ると、ここは池の中の島でした。


島のまわりに、ささやかな水面がありました。
伝説との関係もあるのでしょうか、「和泉町」の町名の起源はこの池だとも言われています。




下和泉・第六天神社

2010-03-22 | 横浜


和泉町の四ッ谷交差点の東側の丘にある第六天神社です。
「第六」があるなら、「第一」から「第五」もあるのだろうと思ったのですが、
神仏習合時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建され、
明治の神仏分離で神世六代の面足能命、惶根能命が祭神に変わったようです。


延宝年間(1673-1680)領主の松平五郎兵衛甫昌が当社を崇拝して、度々参詣したと伝わっています。


境内は社殿の左奥が道に面して明るくなっていますが、
全体に木々が茂っていて、まだ森の雰囲気が残っています。
社殿の右手前には大きなクスノキがありました。


鳥居の左手の掲示です。神社の裏手に「酒湧池」があるというので、訪ねることにしました。

下和泉・密蔵院

2010-03-21 | 横浜


下和泉・鯖大明神から道なりに北へ進むと、環状4号線に突き当たりました。
道の向こう側に真言宗の密蔵院の階段がありました。
横浜市の名木古木指定の大イチョウは、道の手前に残っていましたが、
境内から追い出された感じでした。


密蔵院の創建は不明ですが、
開祖の祐海法印が天文14年(1545)に亡くなったので、それ以前とされています。
旧和泉村の民間信仰の中心地だったようで、境内には多くの石仏、石碑が残っています。


境内には大きなハクモクレンがあり、ちょうど満開でした。


ライトアップの設備もあるので、夜訪れる人もあるようです。


帰りがけ、参道の脇にあったミツマタです。

光を楽しむ

2010-03-20 | 藤沢


東に面したガラス窓の前に、特に役に立たないガラス器が、適当に置いてあります。
いつどこで手に入れたか、記憶も定かでありませんが、春の光が明るさを増す時期になり、
毎朝、光の変化を楽しんでいます。


下和泉・鯖大明神

2010-03-19 | サバ神社

サバ神社探訪第6号は横浜・和泉町の鯖大明神です。
地下鉄下飯田駅から南に真っ直ぐ下って、鍋屋橋を渡り、
和泉川の左岸の丘陵の裾を少し北に戻った右手の住宅の奥にありました。
和泉町には合計3社のサバ神社があり、いずれも祭神は源満仲となっています。


住宅の間の道を入っていくと、鳥居があり、石段の向こうに社殿の屋根が見えました。


こじんまりした境内で、社殿も、神社と言うよりは祠に近い感じでした。
慶長年間(1596-1614)に地元の清水家と鈴木家が氏神として勧進したものだと伝わっています。
左手奥の道を行くと、そこには集落の墓地がありました。


社殿の正面には、正月の行事の名残でしょうか、提灯や飾りがかかげてありました。
社殿の額は天保7年(1836)に神衹管領の占部朝臣吉良長が参詣の時に納めたものです。


境内は整然としていて、伐採した樹木などが、きちんと整理されて置いてありました。
行事のときの焚き火の材料かも知れません。

和泉川・鍋屋橋付近

2010-03-18 | 横浜


和泉川下流の鍋屋橋の付近です。
左岸の畑は一面の菜の花でした。
川の右岸は小高い丘になっていますが、その向こうは境川遊水地公園です。
和泉川はこの先で境川に合流します。


菜の花畑の左側に、小高い緑の丘が見えます。
天王森泉公園で、中に湧水の森と天王森泉館があるようですが、
うす曇りなので、日を改めて足を伸ばすことにしました。

旧福原家長屋門の木材

2010-03-17 | 藤沢


昨年新林公園に移築を完了し、公開された旧福原家の長屋門です。
この長屋門は江戸後期のもので、往時の姿がよく残っていることから、
渡内の福原家からここに移して保存されました。
今回は木材の保存状況に注目しました。


長屋門の門の左脇の小さな通用門がある場所です。
古い材料がよく残されています。小さな通用門の扉はさすがに新しくなっていました。
金具も新品でした。


長屋門の内部に入るための木戸の周りです、
木戸の格子は一部を新しい材料と取り替えてあります。
柱や梁は古いものですが、板の部分は新しいものが多いようです。


長屋門の角の柱は部分的に補修され、パズルのようです。
板類はここでも、新しいものの比率が多いようです。
これから先のことを考えても、木造家屋の保存は苦労が多いものだと感じました。