クロガネモチの実が赤くなりました。温暖化がこの木には向いていたのかも知れません。今年は実が沢山つきました。まだ小鳥たちは食べにやって来ません。もう少し寒くなると、群れでやって来るでしょう。「赤い鳥 小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実を食べた」という童謡がありますが、この庭に赤い鳥がやって来たことはありません。
今年は庭の柿の実の受難の年でした。カラスが毎日やって来て、まだ実が熟さない頃から、せっせと突いていました。カラスが枝に止まって、突くことができない実だけが残りました。甘い柿ですが、小さな庭の季節の景色として、食べずに眺めることにしました。
戸塚茅ヶ崎線道路が小田急線高架下を通る場所は、集中豪雨などが発生すると、水が溜まって車の通行に支障が起きることがあるようです。手前の交差点に「冠水時注意」の表示が掲げられていました。ここから高架下の水はよく見えないと思いますが、さてどうしたものでしょう。
これは父の残した古いアルバムにあった、文寿堂印刷の昭和28年の労働争議解決の記念写真の一部です。後方は根岸競馬場の建物で、当時は印刷所として使われていました。多分、昭和25~27頃だと思いますが、競馬場の敷地の一部を利用して、父がサツマイモやジャガイモなどを作っていました。休日には、自転車にリヤカーをつけて、戸部から根岸まで通った記憶があります。
記憶の確認のために訪ねた現在の根岸競馬場の建物(廃墟)です。中には入れないので、周りから撮りました。
この競馬場は、幕末の慶応3年に最初は外国人居留地の娯楽施設として開設され、昭和5年(1930)に本格的な競馬場の建物が出来上がったようです。現在残っているのは、一等馬見所だけです。横須賀軍港が丸見えなことと、無線通信所に使うために、昭和18年6月に競馬場は閉鎖され、日本海軍に徴用されました。
記憶の確認のために訪ねた現在の根岸競馬場の建物(廃墟)です。中には入れないので、周りから撮りました。
この競馬場は、幕末の慶応3年に最初は外国人居留地の娯楽施設として開設され、昭和5年(1930)に本格的な競馬場の建物が出来上がったようです。現在残っているのは、一等馬見所だけです。横須賀軍港が丸見えなことと、無線通信所に使うために、昭和18年6月に競馬場は閉鎖され、日本海軍に徴用されました。
上村神社
2008-10-19 | 藤沢
以前、鵠沼本村地区で上村(かむら)神社を探して見つからなかったことがあります。今回はなんとかたどり着きました。周りが新しい住宅で囲まれたため、神社が見えにくくなっていたのです。鳥居が2つ並んでいました。
赤い鳥居のある方は、上野森(かみのもり)稲荷神社でした。この神社は、社殿が2重になっていて、外側を格子で囲んであります。
稲荷神社の由来です。
もう1つの白木の鳥居のある方が、探していた上村神社でした。この社殿も2重造りでした。「おしゃもじさま」という別名があり、村人の健康祈願に応える神社だったようです。
上村神社の由来です。
境内の入り口近くの、双体道祖神です。昭和58年奉納ですから、新しい道祖神です。左右の石碑は、磨耗した昔の双体道祖神のようです。
赤い鳥居のある方は、上野森(かみのもり)稲荷神社でした。この神社は、社殿が2重になっていて、外側を格子で囲んであります。
稲荷神社の由来です。
もう1つの白木の鳥居のある方が、探していた上村神社でした。この社殿も2重造りでした。「おしゃもじさま」という別名があり、村人の健康祈願に応える神社だったようです。
上村神社の由来です。
境内の入り口近くの、双体道祖神です。昭和58年奉納ですから、新しい道祖神です。左右の石碑は、磨耗した昔の双体道祖神のようです。
内田の辻
2008-10-18 | 藤沢
藤沢第一中学の敷地に接した小さな一画に、小さな庚申供養塔が祀られています。
ここは、その昔、内田の辻と呼ばれた場所で、古い道が通っていたようです。供養塔の後ろに白い天幕が張ってあるのは、現在藤沢第一中の改築が進行中だからです。
ここは、その昔、内田の辻と呼ばれた場所で、古い道が通っていたようです。供養塔の後ろに白い天幕が張ってあるのは、現在藤沢第一中の改築が進行中だからです。
湘南高校と藤沢第一中学の間の切通しです。多分、ここも昔は砂丘だったのでしょう、切通しの両側が玉石垣になっています。この風景をいつまでも残したいものです。人通りが少ない道なので、安全パトロールの旗が立っているのが残念です。