鵠沼・昔砂丘の一本松

湘南藤沢住人の記憶の手掛かり …… フォト・ブログ

鵠沼海岸・高根地蔵尊

2011-05-31 | 藤沢


鵠沼海岸7丁目に「高根地蔵」があることを知り、ぶらり散歩で訪ねました。
住宅街の一画ににある堀川郷友会館の隣に、建物に密接した鳥居がありました。


鳥居の奥にある高根地蔵尊の祠です。
伝説では鎌倉時代の合戦を逃れた幼い若武者がここで最後を遂げたものを村人が葬った塚跡とされています。
天保14年(1843)2月4日鵠沼堀川の山上新右衛門が地蔵を建立しました。


この地蔵様は子供の健康に御利益があるとされ、安政5年(1858)頃より長い間、毎年9月4日に追善供養が行われていたようです。
祠の鍵が開いていたので、地蔵様の写真を撮ることが出来ました。








名残の堀川用水路②片帆橋

2011-05-30 | 藤沢


国道134号線に架かる渚橋の下を用水路と一緒に潜って湘南海岸公園の西端に出ました。
ここから堀川用水路は本来の姿を取り戻し、西に向かって流れていました。


流れに沿って少し西に進むと、片帆橋がありました。この橋を渡ると子供たちの遊具が揃った海浜公園に出ます。
現在の片帆橋は昭和33年(1958)の架橋です。


橋の先を流れる堀川用水路です。
以前は引地川にそのまま流れ込んでいましたが、平成2年(1990)に鵠沼橋が落橋し2年後再建された時、
堤防が新設されたため用水路は堤防の穴に流れ込んでいました。


新しくできた堤防です。この堤防の上を進むと海岸の遊歩道につながっています。


堤防の引地川沿いに用水路の出口があります。満潮時のため逆流防止弁がついていました。
遠くに江の島が見えます。



名残の堀川用水路①渚橋

2011-05-29 | 藤沢

その昔、引地川の左岸、大平橋辺りから鵠沼海岸1、2丁目の境まで流れていた「堀川」という用水路があったようです。
国道134号線近くに残る用水路の名残を訪ねました。


鵠沼海岸2、3丁目の境から、江の島方面に向かう古道(昔は肥上道と呼ばれた)です。
道の左側にガードレール付きの歩道がありますが、この下に暗渠になった堀川用水路があるようです。


ガードレールが途切れる辺りから右折すると、突然不思議な景色に変わります。
中央部分に金網が掛けられた用水路が伸び、左手は草地。右手は歩道になっています。


右手の歩道を進むと橋らしき構造があり、右手に階段、左手は用水路を横切って橋の下を潜る道がありました。
用水路はここで切れていますが、橋の下には同じものがあり、サイホンの原理でつながっているようです。


階段を上がって今来た道を振り返ったところです。


階段を上がった場所が渚橋でした。134号線の向こう側にも橋らしい構造が見えます。
この道の下の歩道は何時も利用していましたが、今日まで橋として認識していませんでした。





東戸塚駅東口の風景

2011-05-28 | あちらこちら

JR東戸塚駅東口の立体的な特徴を見るため、周辺をひと回りしました。
バスを待つ時間に余裕があったのが動機です。


駅前ロータリーのバス停付近から、東戸塚駅を見上げたところです。
バス、タクシー、自家用車等のアプローチはしっかり出来ています。
車を降りてからの駅への道はちょっと大変です。


横断歩道の向こう側に見えるエスカレーターは改札口までの4階分の高さを上下します。
東日本大震災の計画停電の時は、階段の上り下りで苦労しました。
エレベーターが1基ありますが、行列に並ぶと時間が心配です。


駅の改札口を出てそのままの高さで歩道橋がオーロラ・モールという商業ビルまで伸びています。
しかもこの歩道橋は2階建てになっています。


オーロラ・モールには西武、ダイエイなどいろいろな店舗が入っています。
このビルは傾斜地を利用して建設された、ユニークな建物です。


歩道橋からモールの入り口に着いて、そのままエスカレーターに乗ると7階に着きます。
更にエスカレーターを乗り継ぐと遊歩道があり、高層マンション「オーロラ・シティ」に到着する仕組みになっています。


オーロラ・モール右側の上り専用(車)の坂道です。車はどんどん上りますが、歩道を歩く人はあまり見かけません。


歩行者は一先ずモールを目指し、エスカレーターやエレベーターを利用して高所に辿りつくようです。



鵠沼海岸・平和の像

2011-05-27 | 藤沢

いつも何気なく見上げていた鵠沼海岸の「平和の像」です。
今回は、少し丁寧に周囲から見直しました。


「平和の像」の正面右側から見上げました。


正面左側から見上げた「平和の像」です。


「平和の像」の足下にある碑文の台座です。
向こう側に江ノ島が見えます。
「平和の像」は昭和40年(1965)3月、藤沢市遺族会が創立50周年を記念して建立したものです。

砂丘のハマヒルガオ

2011-05-25 | 藤沢


引地川河口左岸のささやかな砂丘にハマヒルガオが咲いていました。
すぐ近くに鵠沼海岸の遊歩道があるので、ケイタイ片手で写真を撮る人が次々にやって来ました。
間隙をぬってなんとか撮りました。


名実ともに分かりやすい花です。




鵠沼橋・橋詰広場

2011-05-24 | 藤沢


引地川河口近くのの鵠沼橋(昭和7年架橋)は、平成2年(1990)9月の台風で落橋しました。
翌々年に新しい橋が出来ましたが、その時左岸に橋詰広場が作られました。
中央に古い鵠沼橋の親柱がモニュメントとして置かれ、周りに石の椅子が配置されています。

鵠沼耕地整理委員会の記念碑

2011-05-23 | 藤沢


引地川右岸の稲荷橋近くに非常に大きな記念碑があります。
昭和61年(1986)建立の藤沢町鵠沼耕地整理組合の記念碑です。


昭和6年(1931)、引地川沿いの水田の用水整備のために耕地整理組合が出来たようです。
同時に引地川流域の改修と区画整理に取り組みましたが、問題が多くいつまでも完了しなかったようです。
半世紀以上を経過し、昭和55年(1980)に改めて体制を整え、活動を再開、ついに完了したとあります。
解決した問題が大きかったので、石碑も大きくなったと思われます。

これは何ですか?

2011-05-22 | 藤沢


引地川右岸の遊歩道を歩いていて、奇妙な造形物に出会いました。
最初は彫刻作品かと思い、周囲を探しましたが、手掛かりはありませんでした。
近くにすべり台があったので、遊具かとも思いましたが、ちょっと立派過ぎます。
「これは何ですか?」

大平橋と太平台

2011-05-21 | 藤沢


鵠沼の西側を流れる引地川に大平橋があります。
橋の向こうは辻堂で太平台と言う住宅地が広がっています。


辻堂側の川沿いの遊歩道に大平橋の由来の石碑があります。
昭和10年(1935)架橋で、辻堂地区の開発者平沼覚二郎と藤沢町町長の大野守衛の名前から「大平橋」としたようです。
碑文によると、当時は「大平台」と言う地域名があったようですが、
現在の太平台という地名は昭和42年(1967)誕生なので、いろいろ経緯がありそうです、
「大平台」と「太平台」の点の有無が問題です。
現在の大平橋は昭和59年3月架橋で、鉄筋コンクリート製です。

八部の南無道祖神

2011-05-20 | 藤沢


鵠沼海岸6丁目、大平橋に向かう道の左側にある道祖神です。
寛延4年(1751)正月吉日、浅場太郎左衛門の建立とあります。
石碑に「南無道祖神」とありますが、仏式の「南無」と神式の「道祖神}が合体したようです。
おおらかな民間信仰です。

注)2009年2月6日に同じ道祖神を掲載した時、石碑の文字に墨が入っていて驚きましたが、今回は元に戻っていました。
  施主を「太郎右衛門」ではないかと思ったのですが、「太郎左衛門」が正しかったようです。

本真寺踏切脇の馬頭観世音

2011-05-19 | 藤沢


小田急線の本真寺踏切脇に馬頭観音の石碑があることは資料で知っていましたが自分の目で見てはいませんでした。
この日はゆっくり辺りを見ながら踏切を渡り、石碑を発見しました。
線路の中にあり、踏切の中からは石碑の裏側しか見えないのでした。
寛政11年(1799)9月26日建立の馬頭観世音です。


近藤邸の内部を見る

2011-05-18 | 藤沢


市民会館の前庭に保存されている旧近藤邸です。
関東大震災直後、大正14年(1925)に辻堂の松林に別荘として建てられ、
昭和56年3月、この場所に移築保存されました。
帝国ホテルを設計したライトに師事した建築家遠藤新の設計で、
平成14年(2002)国登録有形文化財(建造物)として藤沢市で第1号登録されました。
この日は建物の内部を見学しました。


玄関右手の居間兼食堂を奥の西側から撮りました。左手北側に暖炉が見えます。


同じ居間を玄関側の東から撮りました。
この奥に10畳の客間がありましたが、雨戸が閉まっていたので、撮影はあきらめました。


玄関左手奥にある8畳の和室です。


2階にある8畳の和室と東南側の窓です。


2階の和室の北側の窓から外をのぞきました。


2階の和室の西側の窓です。

内部を見た素人の感想は、「建具に造形的な主張が一貫している」ことでした。







本町・北条時代戦死群霊の石碑

2011-05-17 | 藤沢


本町4丁目バス停近く、町内会館の裏手の墓地の脇にあった石碑です。
「北条時代戦死群霊」という文字に驚きました。


石碑の裏に、大正5年2月28日施主藤沢町石井芳五郎建之とありました。


石碑の左脇に馬頭観音の碑があり、そこに「武士の乗馬」の文字がありました。
馬の菩提を弔ったもののようです。