毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

青い鳥と出会う秋

2015年10月25日 08時18分05秒 | 紡ぐ暮らし


昼夜の寒暖差の大きい日が続きますが、きょうから全体にぐっと氣温が下がるのだとか。

早朝からすごい風が吹いてたしなぁ (^_^;)

そろそろ冬物衣類出さないとね☆




最近、内外の内の占めるウエイトが大きくて、心の話ばかり書いていますが、毎日の暮らしもしっかり楽しんでます

ここ5日ほど、畑の手入れと 家まわり&石垣の草取りに精を出しました。

畑は、トマトとミニトマト ・ バジルは健在ですが、ピーマンはそろそろかな という感じ、あとの子たちは 寿命を迎えました。

ここしばらく内側に偏ったしわ寄せが 畑にいき、大根と唐辛子は いつの間にか消えちゃってたんだよね。。。ごめんなさい (T_T)

唐辛子は サヤが3つほどついた枝を収穫できて、来年の種だけはどうにか確保、大根はまだ種の余りがあるから、冬用にまた播くつもりです。

あと、畝を作り直して 高菜と春菊も播きました。

家の近くには ルッコラと青ねぎを。

パセリは、2年目のは種をもうけて枯れましたが、今年生えた分は かなり青虫に食われたものの、元氣です。

そうそう、フェンスにからんだ鶴首カボチャは、今年もずっしり見事な実をつけてくれました \(^o^)/

あとは 熟すのを待つばかり。




突然無性に食べたくなるものってありますよね。

私は 一番多いのがおにぎり、次いで温泉粥、オムライス、ナポリタンスパゲッティ、かな♪

つい最近、やたらとケチャップ味が恋しくなって、オムライスとナポリタンをたて続けに作りました

急に思い立ったので、ありあわせの材料でちゃかちゃかっとだったけど、いたく満足 (*^^*)

どちらにも、採れたてバジルをたっぷり添えて。




オリオン座流星群は 22日未明がピークだったそうですが、3時ごろ見に出たら、流れ星を見つける前に じわじわ広がってきた靄にさえぎられてしまい、23日は起きられず、おととい ・ 夕べは曇り。

月末近くまでは まだまだ見るチャンスがあるそうなので、あきらめずに待ちます (^_-)

寒くなると、その分空がきりっと澄んでくるから、期待できそう♪




このところ、散歩にあまり時間がとれなくて、往復40分ほどのショートコースばかりだけれど、冬の氣配が濃くなる前に 山の上のほうまでゆっくり歩いてみたいと思っています。

そろそろ編み物にも食指が動き出し、お楽しみも季節替わりの様相。

どれもこれも 他愛ないことばかりだけれど、心が安らぐと、日常のちょっとしたことに見出す喜びが 大きくなる一方、食欲や物欲は 反比例して小さくなって、いい具合です。

得たもの = 幸福  の公式の、分母が小さくなるほうのパターン、満ち足りるって まさにこういうことなんだな、と思います
欲しいもの




幸せって、新しいものをどんどん増やすことじゃなく、今この瞬間 どれほどのものに囲まれ 恵まれているかに 目を開くことなんですね。

幸せもまた、雲の向こうのお日さま同様、いつだって 完璧に ここにあったんだ、って♪

青い鳥を見つけるとは ほんとうの自分を取り戻すこと、と 身をもって再認識した、この秋です。

















見るべきは いつも自分

2015年10月24日 23時55分05秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事に書いた、私の探究の土台造りに力を貸してくれた人。

お別れとなったのは、せっかく真理を伝えてくれていたにもかかわらず、肝心のその人自身が 自ら語る世界を生きていない、と感じたゆえでした。

とはいえ、どっぷり依存していた私が そうそう簡単に離れられるはずもなく、助けてくれる人あってのこと。




当然のように 今度はそちらに向けられた依存を うまくかわして、その人は 私が自分の足で立つように仕向けてくれました。

今でも感謝しきれないほどの ありがたさ (*^^*)




そこから ひとりでの探究が始まりましたが、それでも依存したい思いは 根深く残っていたようで、その後もたびたび これは、と思う人を見つけては 近づきました。

が、しばらくすると いつも なんか違う・・・ということになってしまうのです。

その理由は 毎回同じ、「言っておられることと 実際の行動に ギャップを感じる」 。

これをいく度も繰り返せば、「まわりは鏡」 と認識する身、メッセージは いやでもわかります。




人のことはいい。

これは 今のあなたです。

問題があるのは あなた。

あの人たちは、それを見せてくれているだけ。

どれほど懸命に探求し 智恵や力を身につけても、正しく使うことができなければ 幸せにもなれないし、せっかく持って生まれたお役目を果たすこともできなくなる。

自分をしっかり見つめて、思うところと 実際の行動のずれに氣づき、その理由を探って 正していくこと、これが これからのあなたの課題。




ずん ときました。

人の欠点は 目につきやすいもの、ついつい他者を批判したり責めたりしたくなってしまう、 そんな私に 否定する余地もない形で突きつけられた、このメッセージ。




心に満たされないものがあると、どうにかして それを埋めたくなります。

もともとの原因が 自分自身にあるとわかっていないと、外にばかり目を向けて、 無意識のうちに まわりの人から 不足分を奪う行動に出てしまいます。

せっかく備わった智恵や力も、そのための手段として使ってしまいます。

悪氣はないのに、そういうことと氣づけないばっかりに、自分もまわりも 意に反して 不幸になってゆきます。




あのとき 氣づかせてもらって ほんとうによかった、つくづくそう思います。

あれがなかったら、今のこの安らぎも落ち着きもなかったのです。




鏡になってくださった方々に、心からの感謝を。

今はよくわかります、誰を責めることも あげつらうこともないのだと。

私たち みなそれぞれに、自分の道を 歩いている。。。それだけのことなのですね




















もっと大きな絵がある

2015年10月23日 07時20分24秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私がこういう内的探究に踏み込むきっかけとなった人がいます。

話を聞くほどに すごい人だとあがめるようになり、この人についていけば 悟れるんだ、新しい世界が開けるんだ! と思い込んで 16年。

やっぱり違う と氣づいて、離れることになりました。




初めのうちは、だまされた! と もう悔しくて悔しくて

思い出すたびに はらわたが煮えくり返るようで

それも 時間が経つにつれて薄れていき、あまり思い出すこともなくなった あるとき。




ぱっとひらめきました、あの出会いと別れにも ちゃ~んと意味があったと。

今と比べて格段に 精神世界系の情報が少なかったあのころ、その人のアンテナはすごくて、おかげで 今でも繰り返し読むほど確かな情報に たっぷり触れることができました。

さらに、その人から伝えられた内容も、間違いなく真理でした。

その人から聞いた話、お勧めの本や雑誌 (当時はまだパソコンは今みたいに普及してはいなかったので) からの情報、どちらも 後にいけばいくほど まったくその通りだなぁ、すごいこと知らされていたんだなぁ、という思いがぐんぐん深まり、今に至ります。




私は、その人との出会いから 今のこの探究の土台を築くことができました。

そして、もう十分だ、これ以上はいっしょにいないほうが。。。というタイミングぴたりで お別れしていたのでした。

腹を立てたのは、自分の選択の結果を 相手のせいにして、きちんと受け止めていなかったから。

今ではわかっています、出会ってしばしの時間を共にしたこと 袂を分かったこと、どちらも大きな意味があった、私のためになることだったのだ、と。




何事も 無意味に起こることはなく、起こったことに 過不足もなく。

つくづく この世界は完璧です

人のせいにしているうちは それが見えない、というだけのこと (^^ゞ




「もっと大きな絵がある」 という言葉が好きです (*^^*)

鼻をくっつけるような距離から絵を見ても なにがなにやらわからないけれど、後ろに下がれば その全体が見渡せ、さっき近くで見ていたものがなんだったのかも理解できる。

なんだかよくわからない 好ましくないできごとに出くわしたら、この言葉をとなえます。




時が経ち 今という地点から離れたとき、もっと大きな絵が見えてくる。

その一部として 今体験していることの意味も見えてくる。

だから、今はとにかく この体験を受け止めよう、味わおう。

そして、誰のせいにもしないこと、ってね☆




(*^▽^*)ゞ
























進んで探求する値打ち

2015年10月22日 10時36分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「自分の世界は自分が創っている」

これをなかなか信じられないのは、今の自分の世界が 望むものとかけ離れているからではないでしょうか。

誰にでもそんな力があるのなら、なんで私はこんな生き方してるのよ、と。




でも 安心してください、私たちは すでにその力をバッチリ使いこなして、今のその氣に入らない世界を 日々築き続けているのです。

世界を創る力を、私たちは 生まれたときから 獲得 & 発揮しているのです

望む世界の実現が 夢物語に思えるのなら、すでに今創っている 望まない世界と、その元になっている 現在の自分の意識のつながりに目を向ければ、わかりやすいのではないでしょうか。




とはいえ、自身の否定的な面に目を向けるのは、氣が進まないかもしれませんね。

そういうときこそ ピンチが役に立つのです。

こんな状態のままいるぐらいなら、ネガでも闇でも覗き込んでやる と “火事場の馬鹿力” 的に 決意させてくれます。

もちろん、そこまで追い込まれる前に 少しでも食指が動くなら、ぜひ☆




誰だって、いやなことからは 目を背けたいもの。

でも、ここは 勇氣の出しどころです。

起こっていることを鏡とみなし、それを手がかりに 自分の心の中を探っていきます。




それでもなにも見つからなかったら どうするかって?

そのときは、問題が早晩解決するか (ピンチと思い込んでいただけということもありますから)、ますます追い込まれるか、時と状況 ・ 相手を変えて 再び似たようなピンチがやってくるでしょう。

宇宙の意思は、愛情深いのです。

私たちがやり損ねたからといって、責めるでも 見放すでもなく、何度でもチャンスを提供し、自ら氣づくのを 辛抱強く待っていてくれます。




この 自分を見つめるプロセスも、人の数だけ道筋があります。

同じように イヤだなと思う相手を鏡にしても、そこに 自分自身のイヤなところが見えることもあれば、きっとそういう人と出くわすに違いないという思い込みが見えることもある。

そして、そこから 過去の体験へと導かれていきます。

だから、ここは 自分が主体となって 自分の意志で行う必要があるのです (ナビゲーターや支え手がついてくれるのはいいですが) 。




最初はどうしても うれしくないものを 次々見る羽目になりますが、そこでめげずに 観察を続けながら より深くへと進んでいくと、最後には 解放と安らぎが待っています。

因果という言葉が示すように、どんな結果にも 必ず原因となることがあるもの。

ああ、これがあったから こういう想念が生まれ、こういう現実を生み出していたのか、と すとんと腑に落ちたときが、探索の終わり。

そこには、もう目を背けたくなるようなイヤなものは 存在しません。

深い理解と感動、安堵が起こり、やがては 問題の解消へとつながっていきます (^^)























受け止めるのは 自分

2015年10月21日 13時00分43秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


自分の心を 奥深くまでじっくり見つめる。。。。これがどれほど重要なことか、という思いが 日に日に強くなります。




最近よく見かける 「承認欲求」 という言葉。

それまで表立って話題にされることがあまりなかった事がらに このように名前がついて、多くの人に認識されるのは、いいことなのかもしれません。

その一方で、名づけられて ポピュラーになるがゆえの問題もあります。




ひと口に 「承認欲求」 といっても、その内容や現れ方は ひとりひとり違います。

ワレガワレガと目立とうとする人、ひっそり氣づいてもらえるのを待つ人、わかってほしいけれど どうせ誰もわかってくれないだろうと ねじれた氣持ちを持つ人、理解されなかった恨みから攻撃的になる人、などなど、細かく見れば 人の数だけ思いも形もある。

それが、「ああ 承認欲求ね☆」 のひとことで、あっさり片づけられてしまうリスクがあるのです。

ひとくくりで わかったことにされてしまうのは、結局受け止めてもらえなかったと同じこと。

かえって痛みが募ります (T_T)




わかってほしい、受け入れてほしい、とは、大なり小なり 誰にでもある氣持ちなのではないでしょうか。

受け止めてもらえたと感じたときの、あのほっとして、ふうわり開いて、ぽっと灯がともったように温かくなる心地よさ (*^^*)

誰もが望んでやまないのも無理はない、と思います。




が、同時に氣づくといいなぁと思うのは、他者にわかってほしい ・ 受け入れてほしいときほど、実は自分自身が自分をわかってない ・ 受け入れていない、ということ。




自分のことぐらいわかっているよ、と思うかもしれません。

自分の内側の感触を 自分以上にわかる人なんて いないはずですものね

でも、そこでちょっと訊いてみてほしいのです。。。。他の人にそうしてほしいと望むのと同じぐらい、自分を見つめて 受け止めているかどうかを。




出かける前に、バッグの中をのぞいて 必要なものがみな入っているかどうか 確かめる。

調理にとりかかる前に、台所のあちこちをのぞいて 材料がそろっているかどうか 確かめる。

そのぐらいの氣持ちと頻度で、心の中も 確かめているだろうか。

入れたつもりのハンカチが入ってなかったり、カボチャと思っていた包みが 開けたらキャベツだったり、というようなことはないだろうか。

さっと一瞥するだけで、万事OK! と にっこり笑って言えるだろうか。




他者に受け止めてもらうというのは、他者の承認を通して 自分には価値がある、と安心すること。

ほんとうに受け止めているのは、他者以前に 自分自身なのです。

あの 受け止めてもらう心地よさは、他者から与えられるのではなく 自身の内から湧いてくるのです。

それでも、無条件で受け止めてくれる 愛ある人と出会えるのは 幸せなことですが、今すぐ幸運な出会いに恵まれなくとも、自分で自分を見つめ 認め 受け入れることで、この世に生を受けた幸せを 存分に感じることが出来るのです(^^)























ほんとうでないから見えるもの

2015年10月21日 01時27分58秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私が 「戦いたい」 という本心に氣づかず 穏やかな暮らしを望んでいると思い込んでいたように、自分のほんとうの思いに氣づいていなかったり 取り違えていたりということは、かなり多いのではないかと思います。

言葉には 「今ここにないものも さもあるかのように語れる」 という性質があるので、自分の言っていることと 実際にしていることが一致していないのが見えたら、そこに ほんとうの氣持ちに氣づくカギがあります。




また、ほんとうの望みが見えないまま 代償行為に走ったり、満たされない思いを癒す行動にふけったりしているときも 同じ。

ほんとうに楽しんでいるときと、満たされない自分を忘れるために打ち込んでいるとき、動機は真逆なのですが、どちらも まずは 「楽しい」 と感じるため、見極めが難しいです。

ただ、不満や不足を忘れようとしての楽しみは、実際には どこまでいっても満ち足りないので、やがてエスカレートし始め、健康を損なうとか 経済バランスを崩すなどの弊害が現れ始めます

一見ピンチですが、その裏に ほんとうの自分に氣づくチャンスが隠れています (^^)v




二元対立の世界では、ほんとうの自分を知るために ほんとうでない自分をせっせと創り出す ということも、ままあります。

それも、この世ならではの 貴重な体験

だから、代償行為や癒しがいけないとか、そういう話ではありません。

この世界は つくづくうまく出来ていて、ほんとうの望みでないことは、最初はいいのですが、やがてだんだん苦痛を伴うようになってきます。

その苦痛こそが、「ほんとうでないものがあるよ」 と教えてくれるのです。

からだの痛みが、不調やケガを教えてくれるように。




ピンチとチャンスは つねに表裏一体、ピンチが大きいほど チャンスも大きくなります。

○○中毒などと呼ばれるような 通常の暮らしが営めなくなるほどの状態に陥れば、誰だって このままではまずいと 真剣に考え始めるでしょう。

そこが転換点、うまく使えば、ピンチが大きい分 チャンスも大きいのです。

ただ、失うものや背負い込むものも大きいので、もう少し手前で氣づくに越したことはない、とも思います。

そのためにも、つね日ごろから 自分の氣持ちをしっかり見つめることに、大きな意味があります




ほんとうの喜びと ほんとうの喜びだと思い込んでいるものに、くっきりしたボーダーラインが引かれているわけではありません。

最初は心から楽しかったはずが だんだん楽しめなくなったり、夢中で打ち込んでいたことに ふと疲れを覚えたりする中で、「こんなはずじゃなかった」 とがっかりし、自信を失いそうになったりします。

そんなときこそ、自分をまっすぐ見つめ、ほんとうの喜びと出会うチャンスなのです \(^o^)/























「このバカげた戦争を終わらせましょう」

2015年10月20日 01時38分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見



前の記事の続きになりますが。

今この瞬間も、国際間から家族間まで あらゆるところで起こっている、戦いや争い。

それぞれが 納得いく結果を勝ち取ろうとがんばりながらも、どこかで この先にほんとうの解決も平和もないことを予感し、どうやっても答えが見出せないことに 不安や疲れを感じている。。。。そんな氣がしてなりません。

戦いに勝って 真の平和が訪れたことなど、過去の歴史で ただひとつの前例もないのですから。

いくら 上からの理不尽な押し付けや 弱者の粗末な扱いに怒りを覚えても、戦いでそれがどうにかなるものではないことを、宮崎駿監督は よくわかっておられるのでしょう。




「ハウルの動く城」 のおしまいのほうで、マダム ・ サリマンは、「このバカげた戦争を終わらせましょう」 と言います。

現実の私たちの世界で、同じことを言いたい人がどれぐらいいるのか、戦いをやめたい人と 続けたい人の、どちらがより多いのか。

世界の先行きは、私たちひとりひとりのほんとうの氣持ちにかかっていると思います。




自分の中で 事あるごとに荒れ狂う怒りに手を焼き、問題や揉め事のない楽しい暮らしを望んで 和歌山に移ったはずなのに、そこで氣づいたのは、「自分は戦いたいんだ」 という事実でした。

本心では、戦いをやめることではなく、戦いに勝つことを望んでいたのです。

ほんとうの平和とはどんなものか よくわからないまま、勝ったときの爽快感を平和と取り違えていたのです。

愕然としつつも、とにもかくにも それが今の自分、と受け入れたところから、今度は自身の内側と とことん向き合う日々が始まり、そして11年。




平和を望んで戦うのは、不毛です。

戦いや争いは 二極世界のものであり、ほんとうの平和は そこにはありません。

こちらに戦いを押しつけようとする人を目にしても、対抗して土俵に上がったら そこまで。

そんなふうに戦いに身を投じた人のどれぐらいが、ほんとうに平和を望んでいるのでしょう。

どれぐらいが、かつての私のように、戦いに勝つことの快と 平和を望む心を取り違えているのでしょう。

土俵から降りたいのか 降りたくないのか、自分の内側に真摯に目を向ける以外に ほんとうの氣持ちを知る手立てはありません。




「まわりの世界は 自分の心の投影」 であることを受け入れられるなら、戦いを挑んでくる人が 自分の闘争心を象徴していることに氣づくでしょう。

争いを仕掛けてくる人がいるならば、火種は自分の中にあります。

いい悪いではなく、ただ そういうことだ、ということです。

私たちが身を置く現実世界は、そういう仕組みになっているのです。




自分を、そして起こっていることを、あるがままに見つめ、腑に落ちたら、どうすればいいかは 自然にわかります。

そういう人が これからどれぐらい現れるかで、「このバカげた戦争を終わらせる」 ことができるかどうかが決まるのだと思います。




















「ハウルの動く城」 から

2015年10月19日 11時55分35秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今月2日に放映された、宮崎駿監督のジブリ映画 「ハウルの動く城」 。

テレビを持たない私は見ていませんが、たまたまちょっと前の9月末に、ダイアナ ・ ウィン ・ ジョーンズ原作の 「魔法使いハウルと火の悪魔」 を 図書館で借りて読んでいたのです。

映画は、以前父が かわいい孫のためにテレビ録画し、CMカット編集の上 DVDに焼いたものを借りて 何度も見ていますが、原作は初めて。




この映画、歴代のジブリアニメの中では あまり評判がよくないそうですが、わかる氣もします。

老婆になる呪いをかけられたはずのヒロイン ・ ソフィーが 時おり若返るのに ? となり、カルシファーに無理を言って引越しを強行したはずのソフィーが すぐまた越したばかりの家に戻ろうとするわけがわからず、かかしのカブが さいごのさいごで王子に戻る唐突さにあっけにとられ、「このバカげた戦争を終わらせましょう」 とのたまうサリマンに 「それなら最初から止めようよ」 と突っ込み・・・・と、貴秋的にも落ち着きの悪いところが けっこうあります

とはいえ、それでも大好きだからこそ、数十回も繰り返し見ているわけですが (*^-^*)ゞ




原作を熟読し、さらに 多くの方々の鋭い考察ブログや 上映当時の製作陣の取材記事などを読ませてもらって、? だったことは かなり解消できました。

その上で 印象に残るのが、原作と映画の 結末の違い。

原作ではハウルに倒される荒地の魔女が、映画では 魔力を失って ハウルやソフィーたちの家族の一員に収まっている。

この違いを知ったときに、以前見た 「悪人をやっつければ世界が平和になるという映画は作りません」 という宮崎監督の言葉を思い出しました。




前にも書いたと思うけれど、私が小さいころ見ていたアニメや特撮物には、勧善懲悪の氣配が 濃厚にありました。

戦闘物ばかりでなく、「魔法使いサリーちゃん」 などの少女アニメにも、「やっぱり悪い子はダメで いい子が受け入れられるのね」 的なメッセージが漂っていた氣がします。

そんな空氣の中で 自然と育った “悪いものをなくせば いい世界になる” という観念を、数十年後の今、意識の書き換えの中で きっぱり手放すことになりました。

二元対立世界にも 十分意味はあるけれど、その中で “悪いもの” はなくせない、ほんとうにいい世界にしたいなら 二元対立の概念を越えるしかない、ということが よぉくわかったから。




そういう視点から見て、この 「ハウル~」 に限らず、悪をやっつけてめでたしめでたしという単純な構図を描かない 宮崎監督の姿勢には、大きく共感します。

わけわから~ん というところはあっても、今でも 「ハウル~」 が大好きなのは、単純に その世界に身を置くのが 心地いいからなんだなぁ、と思います (*^ー^*)






















跳べるようになるまでに

2015年10月19日 06時21分02秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


またまたご登場願う 映画 「インセプション」 、序盤でサイトーがコブに言い放ち、終盤コブがサイトーに返す言葉、


                        “信じて跳べばいい”



私たちが 自分のものでない観念を書き換えるとき、さいごにこれを 自分に向かって言うことになります。




五感を超えた世界には、確実に掴めるものも 存在を証明できるものもありません。

がっちりインセプション (植え付け) された観念を書き換える難しさは、そこにあります。




底なしと思い込んでいたはるか下方に しっかりした足場があるという 180度の認識の変更、そこで足場の存在を確かめもせず いきなり飛び降りるなんて、とてもじゃないが できるものではありません ((((;゜Д゜)))

目で見て確かめられないのなら、石を落としたり 棒で突いたり、あらゆる手段を用いて 信頼できるところまでもっていくのは、当然のことでしょう。

しかし、確証をとことん用いて 自分を説得するのは、五感の世界にいる間だけ。

そこを越えようという瞬間、それまでの理屈での信頼を放り出し、ただ信じて、自分のすべてを賭けて 跳ぶ。




信じて跳べるようになるまでに、コブもサイトーも 文字通り命がけの さまざまな体験を、みっしり積む必要があったんですね。

そうして、コブは とうてい不可能と思われていた帰還を果たし、サイトーは ライバルの巨大帝国を突き崩す大きなチャンスをものにする。




信じて跳ぶのが簡単なことだったら、ラクではありますが、この世に生まれてきた醍醐味は味わえない。

さいごにえいっと跳べるようになるまで、じわじわ反証を積み重ねながら 少しずつ少しずつ 刷り込まれた観念を崩してゆく、そのプロセスこそ、人生からの 大きな大きな贈り物なのだと、今ではしみじみ思います (*^^*)
























新しい目、新しい世界

2015年10月18日 07時52分15秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


いったん事実として刷り込まれた情報が 自分にとっていいものでないと悟り、新たな情報にすっかり書き換えるまで、どれほどの手間隙がかかるのでしょう。

「外側の世界は内面の鏡」 を事実として落とし込むのに11年かかったと 前に書きましたが、最初にこれを肯定したのは 割とすぐ、初めて聞いてから 1~3ヶ月以内のことだったかと。

しかし、「信じる」 と 「事実と認める」 との距離は 遠かったのです (^_^;)




「信じる」 のは、直感的に なんかうなずける、すっと入る、ぐらいのところから 始められます。

そして、信じたことを仮説に 日々検証を重ね、「やっぱり違う」 とならない限り、その信頼は どんどん深まっていく。

しかし いくら深まったところで、「信じる」 のままでいる間は、それを熱く語ることはできても、それに丸ごと自分を賭けるところまではいかないのです。

数ヶ月であっさり信頼できたものが、すべてを賭けられるほど自分のものとなるまでに 11年かかったというのは、最初のインプリントがそれだけがっちり強力に食い込んでいたということ。

しかしまた、外からの情報に過ぎなかったものでも、いったん受け入れ 消化吸収して 自分の言葉 ・ 自分の思いとなれば、その根深い思い込みさえ 覆せるほどの力を持つということでもあるんですね♪




周囲の景色が、起こっていることから 目の前の人までみな、「他」 であると同時に 「自分」 でもあると見えるようになってくると、今度は 意識のほうが、その認識につられて変わり出しました。

それまで 「外と内は別物」 という刷り込みに従って 世界を解釈し 認識していたのが、逆転したのです。

世界は決して恐ろしいところなんかじゃない、だって 自分で創り出しているんだから、と 観念の修正が進み、それにつれて 不安がどんどん薄らいで、ネガティブな想像が ぐんと減りました。

入れ替わりに 明るく前向きなイメージが 自然と湧き起こるようになり、その頻度が増してきました。

世界を見る目が、これまでになく大きく変わったのです。

そして、その 変わった目をもとに、先のことを考えられるようになりました。

ここまできて初めて、実際の選択や行動も がらりと変えられるんですね。




四半世紀以上続いた奈良での生活を ばさりと断ち切って、和歌山へと移る、あの14年前の決断は、それまでの私の生き方からすれば 清水の舞台から飛び降りる級でした。

あのときは、何かわからない内からの強い衝動に 一大決心で従っての行動で、それもまあ 私の性格からすれば 破天荒なことだったのですが。

それがいまや、否定的な思い込みの書き換えを 意図して進めることで、あのとき以上の変化を 人生に創り出そうとしています。

降りかかる火の粉に 怒りながらも逃げ惑うばかりだった私が、魔法の杖を振るって 人生を創り替えようとしています。




これほどの変化をとげられたことを思うと、あの決断と そこからきょうまでの日々のすべてを、心の底から祝福したくなります (*^▽^*)