毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

魔法の杖を使うには

2015年10月17日 21時22分28秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


このブログにたびたび登場する、映画 「インセプション」 。

この映画の登場人物のみならず、私たちも つくづく幼いころからインセプション (情報の植え付け) されまくってるなぁ、と思います (^_^;)

神経回路の配線すらまだ完了していない まっさらな脳に、まわりの大人たちを介して 取捨選択の自由もなく 次々と情報が書き込まれてしまうのですから。

その大人とて 悪氣も自覚もないわけで、彼らもやはり 幼少期のインセプションに大きく左右される人生を送ってきているのだから、誰かがそのからくりに氣づいて手を打たない限り、どこまでも 他人の情報に振り回される生き方が続いていくわけです




前の記事の終わりに 「魔法の杖」 と書きましたが、実のところ 思いから世界を創るということ自体は、魔法でもなんでもない、皆が当たり前にやっていることなんですね。

それを強く意識させてくれたのが、津留晃一さんのこの文

「会社が倒産するのではないか」 という空想が、からだの不調という現実を創り出す。

このように、思うだけで それが体調や選択 ・ 行動を左右するって、実際日常で思い当たること、けっこうありますよね☆




「思いが世界を創る」 ことを知ろうが知るまいが、大人も子どもも 生まれたときから毎日 自分の世界を創り続けています。

日々例外なく 誰もが、自身の思いから生まれた世界を生きています。

思いから世界を創ること自体は、特別なことでも不思議なことでもなく、誰でも無意識のうちにやれてしまう たやすいこと。

難しいのは、創ることそのものではなく、思いを自在にコントロールし、「意図して 望むとおりの世界を創る」 ことのほうなんですね。




「魔法の杖」 というのは、この 「思いを自由にあやつる力」 に関わってくるのです。

結果がすべて ・ 成果を形にして 初めて認められるこの社会で、思いという形のないものに ひたすら打ち込むのは、相当勇氣のいること。

すべて自分の思いが起こしてるということに得心がいって初めて、外側の事実や行動ではなく 思いのほうを変えるべく 真剣に取り組むようになります。

そこから、歓迎できないインセプションの解除と、それに変わる新しい観念の発動が始まります。




「魔法の杖」 を振るうとは、本来自分のものではない価値観を手放し、その陰に隠れていたほんとうの思いから、望みどおりの世界を 自在に形にできるようになることなのです \(^o^)/























魔法の杖

2015年10月17日 01時23分34秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちは この二極世界で、言葉を使って考え、選択し、さまざまな体験をします。

ほかの生き物のように 最初にインプットされた情報に沿って 本能のまま突き進むのではなく、対立する二つの要素の間を たっぷり迷い悩みながら 手探りで進んでいきます。

このプロセスこそ、私たちが人としてこの世に生まれた面白さだともいえるんですね♪

まあ、しんどい思いの真っ最中には なかなかこうは思えないけれど (*^-^*)ゞ




貴秋のイメージでは、人の内側と外側は 立体メビウスの輪のようなもの。

内をたどると いつの間にか外に出ていて、外を観察すると いつの間にか内に戻っていることに氣づく

自分の思いが 外の世界に投影され、外の世界を体験することで 内に新たな思いが生まれて。。。。と、どこまでも続いていく。

ちなみに、人のからだのほうも 口と肛門を介して 内と外がひと続きになっていると聞いたことがあるけど、これってからだと心の相似性っていうことなのかな?




で 話を心に戻して、以前 どんなすばらしい教えや氣づきも、外側にあるうちは ただの情報、それを知恵や力に変えるには 自力で取り込み 吸収して 自分の言葉に変換する必要がある (ここも、食べ物に置き換えれば やっぱりからだと心の相似性ですね) と書きました。

これが なかなか難しい。

心には、否定的情報で傷つかないよう守ろうとする働きがあるため、自分の欠点を指摘するような言葉と出会うと、それが欠点を克服するためのものであっても、受け入れるより まず反発し はねのけてしまうんですね。

中には、納得とは別のところで 自虐的に受け入れるケースもあるようだけれど、それもやっぱり 真の意味での受け入れとは違うから、変換には結びつきません。

この難関を突破するのに役立つのが、「外の世界は内面の鏡」 という話。

人から言われれば受け入れられないことも、この鏡を使い 自分から氣づいて得心がいけば、受け入れずにはいられない、と。




私が この鏡の話を初めて 「あ、ほんとかも」 と思ったのは、今でもはっきり覚えていますが、11年前の6月のある晩のこと。

そこから すっかり自分の言葉として取り入むまでに11年かかりました。

いくらほんとうかもと思っても、イヤな出来事や反感を覚えた相手に自分を見るというのは、やっぱり抵抗がありまして (^_^;)

最初のうちは、鏡のひとつひとつに向き合い のみ込むまでに 相当な時間がかかり、「あ~ やっぱりほんとだった~」 という体験がじわじわ積み重なって、自分のものにするのに11年。

それだけの値打ちはあったと思います♪





コントロールの範疇に収まらないと思っていた 外の世界の出来事も、すべて自分が起こしてると腑に落ちること、これには、魔法の杖を手にしたと同じぐらいの力があるのです






















鏡よ鏡よ鏡さん♪

2015年10月15日 16時56分02秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


日々暮らす中で、何の問題も悩みも抱えていない人って そうそういないんじゃないかと思います。

たとえ今 平穏無事でも、禍福はあざなえる縄の如し、いずれなにかがやってくる。

いや、やってきてくれないと困ります、だって 逆境こそ 私たちの成長を促す重要因子なのだから。

私たちは、どんなことであれ つねに成長を求めるようにプログラミングされていて、目の前に現れるハードルに 全力でチャレンジすることで 力を伸ばしていく仕組みになっているんですね。




前の記事で、ありのままの自分を受け入れることで 第一歩を踏み出せる、と書きましたが、さわやかに流れる大ヒット曲 「Let it go 」 (ここはぜひ 松たか子さんの日本語バージョンでお願いしたい!) の祝福を受けた、そのあとは?

肝心の 「アナと雪の女王」 は 申し上げたとおりまだ見ていないので なんともいえませんが、私たちみんなに言えることは、初めて自分を見つめ 認めた、そこからが 自己探求の始まりなんだ、ということ。

そう、問題は外からやってくるけれど、答えは いつだって自分の中にあるのです。

だから、手をつけるべきは 外側の問題ではなく、自分の内側。

つまり、すべて外にはね返して 他者のせいにしたり、状況やタイミングのせいにしたり、したければしてもいいけれど、それをやっている間は 真の解決にはたどりつけないよ、ということ。




ここがわかりにくいんですよね (^_^;)

五感の世界では、どうしたって あからさまに 外から火の粉がふりかかってくるようにしか見えないもの。

ここで、「外側の世界は、自身の内面を映し出す鏡」 という情報を 受け入れるかどうかが カギになります。

目にするすべてを、鏡に映った自分として見られるか?




丸信じする必要はないので、もしこの言葉に 少しでも心動くものがあったら、仮説として取り入れることをお勧めします。

最初は ハードルの低いちょっとした出来事などから、「もしこれが 自分の内面の表れなら、それはどんな思いから起きたんだろう?」 と 自分に訊いてみる。

その繰り返しで、この仮説が だんだん根付いてゆくようなら、そこからが本格的な探求の始まりです (^∇^)




ちなみに タイトルは、白雪姫に出てくるセリフのようでもありますが、私のつもりでは、なつかしき幼児番組 「ロンパールーム」 の 画面向こうからの呼びかけ。

うつみみどりさんの声が、今も聞こえてくるようです (*^^*)
























それでもうれしいんだよね(^^)

2015年10月15日 01時01分32秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


たまたまお見かけしたブログで、ディズニー映画 「アナと雪の女王 」 の かの有名な 「Let it go」 が歌い上げられる場面が、ほんとうの解決にも幸せにも向かっていないのに、曲調もエルサの表情も 喜びに満ちているのが解せない、というように書かれているのを読んで、思わず そうそう そうなんだよね~、と 大きくうなずいてしまいました




以前4記事にもわたって書いたこのテーマ、思い返すと いくらなんでも長過ぎ、と赤面ものですが ( ̄∇ ̄;)




このブログ主さんのおっしゃりたいこと、よぉくわかります。

あの曲が あまりにも喜びに溢れて魅力的なので、カン違いしかねないのですが、ありのままでいる喜びを高らかに歌い上げたエルサは、その後 ひとり氷の城に閉じこもり、自身が女王になるはずの国も 永遠の冬に閉ざされてしまったままなのですよね。

ありのままの自分になったって、なにも解決してないじゃん




・・・・・なのですが、同時に エルサの喜びもわかるのです。

この 「欠点だらけの自分でも、そのまんまでいい!」 と認めたときの氣分って、ずっと押し殺していた胸のつかえがとれて ふわっと軽くなって、さわやかな風がさ~っと吹き抜けるようで、なんとも氣持ちいいんです♪

そこがまだゴールでなくとも、この心地よさに酔いしれたくなるほどの喜びなのです \(^o^)/





さらに言えば、 “ありのまま” を認めることが 問題解決に直結するわけではなくても、ここを認めることで、次への一歩を踏み出すことはできたのです。

言い換えると、問題から目を背けて ほんとうの自分を否定したままでは、そこから先はなく、解決のチャンスさえ生まれないのです。

だから、少なくとも第一関門は突破できたという意味では、祝福されてもいいことなのでしょう (^^)




って、エルサと自分を思いっきり重ね合わせていますが、これ 実体験からなんですよね☆




そういえば、いまだに 「アナと雪の女王」 って、公式HPと ウィキのあらすじと 「Let it go」 の公式動画以外 見てないんですが。。。。あれだけ書いておきながら

まあディズニーだから ハッピーエンドは間違いないし、という安心感があるもので、つい(^^ゞ




そろそろ一度 見てみようかな♪






















まんまる

2015年10月14日 10時52分12秒 | ふと思うこと


津留晃一さんメッセージ集から 「豊かさの本質」




澄み切った青い空。

お日さまのぬくもり。

コスモスの花に柿の実。

さわやかに吹きわたる風。



こういったものに触れるたびに覚える うずくようなうれしさは、私たちの本質そのものだったんですね。

空も花も風も、その感じを誘い出し 思い出させるきっかけなのだ、と。

全身の力を抜き リラックスして 目を閉じて、言葉を脇において 静かに内側に意識を向ければ、きっかけなしでも ほんとうの自分とひとつになれる。




この文章も 何度も読み返しているのに、腑に落ちたのは つい先ごろ、7月だったか8月だったか 忙しい仕事の合間のこと。

そして、「完全な自分」 のイメージが内から湧き起こったのは、ほんの少し前、先月のこと。




雲に隠れようが 霧にさえぎられようが、太陽はいつもまん丸。

消えも欠けもしない、完璧な丸。

私たちも、不安に陥ろうと 自信をなくそうと 自己嫌悪にさいなまれようと、その向こうで いつだって完璧。

完全に 欠けるところなくまん丸。

あとは 自分がどこに焦点を結ぶか、それだけ。

フォーカスするもので 自分の世界が決まる、変わる。




きのうの投稿で 「まだまだ自由自在とはいきません(T_T) 」 と書いてアップした しばらく後、はっと氣づきました。

自由自在にいかないから 「いかない」 と書いたのではなく、「いかない」 と書かせる心が いかない現実を創り出していたんだ、って。




「事実が先で 認識があと」 という思い込みが まだ残っているよ、と なにやら繰り返し氣づかされた一日でした (*^-^*)ゞ






















「フラニーとゾーイー」 から

2015年10月13日 07時02分26秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


サリンジャーの小説 「フラニーとゾーイー」 に初めて出会ったのは、たしか高校生のとき。

内容はさっぱりわからなかったのに なぜか心を魅かれて購入、以来 わからなくとも 時おりふと読みたくなる本として 数十年を共に歩み、今も手元にあります。




この中に、何度読み返しても意味不明なのに ずっと心に残る一節がありまして。

    
      「宗教をまともに勉強すれば、男と女、動物と石、昼と夜、暑さと寒さといったものの違い、この見かけだけの相違にとらわれないようになるはずだ」


宗教云々はともかく、これほど真反対にしか見えないその違いにとらわれなくなる境地とは?

これが最近 すとんときました☆




相違が意味を持つのは 二極世界でのことで、その違いが重要になるのは、好みに応じて一方を選び出し、自分の世界を創り上げようとするとき。

このときは、男か女か、暑いか寒いか、ということが重要になってきます。

この二元対立を越えた視点から見ると、そこにはただひとつ ありのまましか感じ取れないから、比較も対立もない。

この二つの視点を自由に行き来できるのが、「見かけだけの相違にとらわれない」 ということかな、と思います。




「相違がある」 と 「相違もなにも 始めからひとつしかない」、この二つが同時に成立すると知っていて、どちらでも好きに選べる。

だから、選ぶ楽しみを味わうことはあっても、その中にハマリ込んで翻弄されはしない。

これができれば、まさに毎日が “神々の戯れ ・ リーラ” だろうなぁ ('-'*)




私は、といえば。。。。まだまだ自由自在とはいきません(T_T)

新しい世界の魅力的なイメージ以上に ありがたくない記憶のほうが色濃くて、しょっちゅう引っ張られてます


そして、これを逆転させてやるぜ というのが、目下のわくわくでもあるのです o(^∇^)o























境目のあいまいな世界

2015年10月12日 09時43分20秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前から思っていることだけれど、自然界では 境目があいまいなことが多いんですよね。

昼と夜、子どもと大人、暑いと寒い、四季の移り変わりだって 「ハイ、ここが分かれ目ですよ~」 なんてくっきりした線は、どこにも引かれてない。

分かれ目は、私たちそれぞれの意識が創っているんですね。




以前 こんな問いを見かけたことがあります。


  ・「黒山の人だかり」 って 何人ぐらいをイメージする?

  ・「長蛇の列」 は何人ぐらい?

  ・「はした金」 って いくらぐらいだと思う?

  ・「いい歳をして」 のいい歳って 何歳?


これ、訊かれた全員がぴたりと同じ答えになるって まずないでしょう☆

人それぞれの線引きがあるっていうこと。

私たちは、自分の好みで この世界を区切っている、といえるかな。




この好みが否定的なほうに転ぶと、差別とか いろいろ悲しいことになるんだけれど、最近 そういう悲しい線引きを もう一度ゼロに戻そうとする動きが 少しずつ増えてきているようで、うれしいこと♪

たとえば、こんな話 とか、こんな話 とか。




線引きがなんでもかんでも悪い とか そういうことではないんですよ。

二元対立世界は、好きじゃないものを通して 好きを知る世界、選ばないものを通して 選ぶものを知る世界、自分じゃないものを通して 自分を知る世界 なんだもの。

好きなもの、選びたいものを知って、自分の世界を思い通りに創っていけるのは 幸せなこと。

ただ、個人的な区別を超えて、集団意識で 少数者を圧迫し 悲しませるような ネガティブな線引きが消えてゆく流れは、歓迎していいことのような氣がしています (*^^*)




















まったり沈潜

2015年10月10日 12時19分20秒 | ふと思うこと


「氣づきを言葉にできるまで まだしばらくかかりそう」

と書いた翌日から連日投稿とはこれいかに? と、問われるまでもなく まず自分がそう思います(笑)

これも、ありのままの自分を認めた結果のようです(^^ゞ




書きたい思いばかりが先行して 書いても書いても空回り、納得いかない下書きばかり増えて ストレスが溜まり始める中で、すっと道が開けたのが 「その状態をそのまま書けば?」 と浮かび上がったアドバイス。

で その通りにしたら、すぅ~っとつかえがとれて 文章がすらすら浮かび出した、と。




うまくいかないときって、その状況に逆らって 「なんとかしなきゃ」 ってジタバタしてるんですね。

抵抗すれば 相手は強くなる、二元対立世界のお約束どおりに ますます苦しくなって。

で、さんざん力んだあげく ふっと氣がゆるんで、ああ進まないなぁ、動けないなぁ、しんどいなぁ、と そのままの状態を素直に認めれば、そのときはもう 対立する二極からするりと抜け出している。

というようなことが起こったんだなぁ。。。と思い返しています(^^)




ちょっとずつわかってきたから、ジタバタの時間が だんだん短くなってゆくことでしょう♪

こうやって体験しながら、少しずつ自分の中に落とし込んでいくんですね♪




きょうあすは 曇りのち雨の予報。

すでに いつ降り出してもおかしくないほどどんよりした空、聞こえるのは 遠くの鳥の声だけ。

連休の賑わいも ここまではやってきません。

まったり内に沈潜して過ごすのに うってつけの日

今の一番は。。。。お昼ごはん食~べよっと




みなさまも どうぞよい連休を














お楽しみはこれから! \(^o^)/

2015年10月09日 11時44分54秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「対立する二極と それを越えてゆく世界」

この構図をずっと念頭において暮らしていて、かなり定着した感があります(^^)




二極世界を否定するのではなく 越えてゆく、それは ネガでもポジでもない新たな視点を持って、この二極世界に生きるということなんですね。

二元性に振り回されず、むしろ二元性の性質を活かして楽しむ、というような。

そして その新たな視点とは、言葉を使わず ただ現れるがままにおくこと。

心に触れてくる情報をどうともせず、見るともなくただ見ている、そんな感じ。。。。貴秋流に言えば 感覚フォーカス。

言葉が入ると、どうしても判断解釈が起こって 二極の世界に引き込まれ、右に行ったり左に行ったり ジタバタしてしまうから。

それが悪いということじゃないんですが、ジタバタしっぱなしでは疲れますものね、あいだに穏やかな時間もはさまないと。




思えばこの視点、まったく初めてではなかったのです。

景色を眺めてぼんやりしているときなど、よくこういう状態になっていたもの。

ただ、自分の身に起こったことや 古い記憶まで こういう見方ができるようになったのは、初めてのことかもしれません。

目に映るものに変わりはなく、ただ 自分の思い込みが溶けるように消えていき、すっかり安心してリラックスして。

起きたことは記憶として残っても、もうそれに痛みを感じて振り回されることはない。

ジャッジせず 振り回されずにいるって、安らかで心地いいものですね

しかも、この心地に入り込むと、不意に起こったことの意味がわかったり、ことさら意識しないのに ひとりでに 明るく楽しい未来のイメージが浮かんできたり、ということが たびたび起きるのです。

引き寄せの法則などで、プラスのイメージ、プラスのイメージ、とがんばっては挫折していたころが ウソみたい(*^▽^*)ゞ




前の記事でも書いたように、二極の世界で ネガに傾き過ぎたせいで、現在身を置いているこの世界を嫌って、早くもっと高次の世界に進みたい などと 長いこと思っていた私ですが、この新たな視点が備わって以来、五感で感じる世界と 五感を超えた世界が 同等になってきたと感じています。

五感を超えた視点も大切なら、五感で感じる世界での今の暮らしも大切、どっちも大切。

だから、「越えてゆく道」 に乗っかって そのままかなたに行きっぱなしになるんじゃなくて、その視点を持ったまま 三次元世界に戻り、今までにない見方を交えて この世を楽しむのがいいんじゃないかと♪

考えてみれば、そんなことしなくたっていいのに わざわざ不自由な要素を交えたこの三次元世界をこしらえてやってきたのが、“神のかけら” である私たちなんですよね。。。。ほんとうの自分を体験したいばっかりに。

否定的な体験続きのときは 楽しむどころの騒ぎじゃなかったけれど、この世をずっと温かい目で見られるようになった今こそ、当初の目的どおり このわざわざ生まれてきた世界を 味わい楽しむとき。

なにごとも順序が大事、いずれは すっかりこの三次元世界をあとにする日も来るのでしょうが、まずはその前に 十分体験し尽くさないとね♪

一度しっかり掴んでからでないと 放すことはできない、ってね☆




いや~、まだまだ当分放す氣ないです♪

ようやっとこれから 楽しい体験い~っぱいするんだもんね























かえってきた♪

2015年10月08日 12時16分24秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


思えば、こういう探究にのめりこむようになったそもそものきっかけは、単純に 「今いるこの世界で もっと幸せになりたい」 っていう氣持ちからだったんですね。

しかし、そこで 悟り とか 五感を超えた世界 とか それまでの日常になかった言葉や情報を知るにつれて、そんな素晴らしい世界があるのなら このしんどい生き方なんてさっさと抜け出して そちらに移りたい、というように微妙に望みが変わり出した氣がします。

自分が知らないことを知っている人、できないことができる人に出会えば、わけもわからぬまま なんかすごい! と思い、そんな思いが高じて、そのころしょっちゅう顔を出していた そういうグループの長に憧れ、この人につき従えば そんなすごい世界に行けるんだ! って 勝手に信じ込んで。

この辺から、他者への依存と、五感を超えた世界のほうが 今いる五感の世界よりも上なんだ高尚なんだ という思い込みが生じて、徐々にズレ出したようです(^^ゞ




結局そのグループを離れ、依存させることなくアドバイスをくれる友人に恵まれ、どんどん増え続ける 五感を超えた世界についての情報に助けられ、そこからは ひとり手探りでの道のりとなったわけですが、今振り返ると、以前の思い込みも 流れ的には まあムリなからぬことかと




で、今になって思うのは、ひとつは 前にも書いたように、どれほど他の誰かに憧れようと 受身で依存しようと、これだと思う教えを自分のものにするという肝心かなめの段階は 自分ひとりの力でやるしかないんだ、ということ。

そしてもうひとつは、高次の視点というのは たしかに五感の世界しか知らず その中にどっぷり浸り切っているときには見えなかったものを見せてくれる 素晴らしいものだけれど、だからといって 高次の世界が高尚だとか 今いる世界が下等だとか 優劣つけて 今いる世界を忌み嫌う必要なんてないんだ、ということ。

それぞれに、意味合いや役割の違いというのは たしかにある。

そして、この五感の世界は 本来の私たちの望みに応じて創り出された仮初めの世界であり、いずれは離れてゆくことになる、というのもたしかでしょう。

でも、それは決して イヤだから 嫌いだから振り捨てていく、というのではなく、十分に体験し 味わい尽くして卒業する、というような意味合いのはず。

それが存分にできるように、私たちは わざわざそれ以前の記憶を忘れて この世界に生まれてくるんですものね。




そもそも私をこういう生き方に向かわせた 「この世界で幸せになりたい」 という願い、それがまがりなりにも少しずつ叶い始めた今、さらなる高みを目指す意志は変わらないまま、私の思いは いったんは背を向けかけた 今のこの世界へと戻ってきています。

ここまでに いろいろと氣づかせてもらって、これからもまだまだたくさんの扉が開かれてゆくでしょう。

そうやってちょっとずつ身につけた知恵や力を、最初の願いどおり このからだを通して この世界を楽しく氣持ちよく生きることに使う、それが私の 「今の一番」♪




なんかね、かえってきたぁ~~~ \(^o^)/ って感じです