Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ブレイブワン

2007-11-12 | 外国映画(は行)
★★★★ 2007年/アメリカ・オーストラリア 監督/ニール・ジョーダン
<TOHOシネマズ二条にて鑑賞>

「痛みをわけあえぬ街」


(ラストシーンについてふれていますのでご注意下さい)

愛する人がむごたらしい暴力によって奪われた時、残された者はどうすればいい。悲しいけど、法に任せるしかない。それが、常識というやつだ。相手が少年であろうが、殺人快楽者であろうが、被害者家族は法に任せるしかない。しかし、残された者のやりきれなさは、一体どこに向ければいい。そんな映画が増えている。先日見た邦画「誰がために」もそうだった。ひと昔前までは、殺人事件は怨恨が多かった。でも、テロや無差別殺人が増えた現代、「やられたら、やり返す」その矛先を一体どこに向けるのかすら、わからなくなってきている。この作品は、そのもやもやした気持ちに鋭く食い込んでくる。

しかし、やりきれなさに満ちた作品なのに、実に静謐で知的な雰囲気が作品を包み込んでいる。それは、エリカが読み上げる詩の朗読シーンのせいだ。映画は、冒頭エリカの朗読からスタートする。そこで語られるのは、我が街ニューヨークへの愛だ。そして、事件以降、エリカが紡ぎだす物語は一変する。ニューヨークで生きることの生き難さと恐怖が切々と語られてゆくのだ。搾り出すようなエリカのハスキーボイスを通じて語られるこれら詩の一遍、一遍が深く心に刺さる。そして、ざわめく街の音を取り続けるエリカ。恐れながらも、街に寄り添おうという彼女の心情が切ない。全編通じて、ジョディ・フォスターの演技はすばらしかった。

本作を見て、911以降、復讐をテーマにした作品は、配役にナイーブにならざるを得ないのだなということも痛感した。殺す人間が黒人で、殺される人間が白人の場合。殺す人間がアラブ人で、殺されるのがアジア人の場合。どんな組み合わせにしようと、加害者と被害者であることに変わりはないのに、それぞれの立場がどのような人種かによって、そこに内包される問題が微妙に変わってきてしまうのだ。本作は、殺されるエリカの恋人をインド系アメリカ人と言う設定にしたのも、これらの人種的詮索を避けるためではないか、という気がしてならない。

さて、ラストの展開が賛否両論を巻き起こしている。しかし、私はこの結論は、どちらがいいか悪いかを論議するために提示されたものではないような気がしている。なぜなら、この結末の大きな鍵を握っているのは、エリカではなくマーサー刑事だからだ。正義感の強いマーサー刑事は、エリカを逮捕する決心を固めていた。しかし、土壇場になってあのような方法を選択したのはなぜか。映像を見たからだ。エリカとその恋人が残忍な仕打ちを受け、死ぬほどの暴行を受けた映像を。それで、刑事の決心は一気に翻ってしまった。

結局、人間とは弱い生き物なのだ。携帯画面を通じてマーサーは、エリカの痛みと恐怖を共有してしまった。つまり、当事者になってしまったのだ。だから、犯人を目の当たりにして復讐への本能が勝ってしまった。しかし一方、刑事の行動から痛みとは人と分かち合うことができるのだとは受け取れないだろうか。だからこそ、もしエリカがこんなに追い詰められるまでに、誰かとその痛みを分かち合えていたら、と思わずにはいられない。エリカは、劇中まるで天涯孤独のように描かれていて、肉親は全く出てこない。手を差し伸べようとする友人やアパートの隣人が出てくるがエリカはそれらの一切をはねのけてしまう。

また、エリカの痛みを分かち合える場所は、ニューヨークのどこにもなかった。警察署に出向いた被害者家族に、「お気の毒でした」とまるでロボットのように言い続ける受付の担当官のシーンが印象的に浮かんでくる。しかし、愛犬を取り戻し、全てを話せるマーサーという男を得た今、エリカはもう二度と復讐という舞台には戻らない。私はそう思う。