Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

セブン・イヤーズ・イン・チベット

2007-11-16 | 外国映画(さ行)
★★★★ 1997年/アメリカ 監督/ジャン・ジャック・アノー

「東洋人としてのスタンスで見てしまう自分に意外な発見」



<ブラッド・ピット見たさに鑑賞>

広大な土地チベットを舞台に、登山家ハインリヒ・ハラーと若き日のダライ・ラマとの心の交流を、実話をもとに描いた作品。「西欧人が東洋の神秘に出会い、己を取り戻す」というストーリーは、何だかどこかで見た感じ。この手の作品を見ていつも思うのは、西洋は東洋のおいしいところを自分のために利用してるだけじゃないのか、という不信感なの。チベットを侮辱した表現があるわけでもないし、むしろハラーとその友人もつとめてチベットの人や文化に尊敬の念をもって接している。それでもなお、「自分たちの表現のために “東洋的なもの”が利用された」というような被害妄想が頭の中にムクムクと起きちゃうわけ。

こんな時「ああ、私もアジア人なんだわ」なんて再認識する。映画の感想とは全然別の意識が働いちゃって。まあ、こういうところが映画のおもしろいところなんですけどね。

確かにハラーは家庭教師として若いダライ・ラマに世界のいろんな知識を教えてあげる。どちらかが一方的に何かを搾取しているわけでもなく、二人は堅い信頼関係で結ばれている。それでもなお、その不信感がぬぐえないのは、後半チベットが中国から侵略されるくだりでチベットは中国からひどい目に遭いました、それでハラーは祖国に帰りました、ちゃんちゃんってことで映画が終わっていること。

中国によるチベットの侵略というのは、非常にシビアな問題でそこを掘り下げたら、きりがないとは思うけど、このほったらかし方はどうなの、と思ってしまう。その話に突入するんであれば、帰国後ハラーが中国に侵略されたチベットを思っていかに心を痛めたかという部分があってもいい。だけど、物語は、ハラーは息子にダライ・ラマから受け取った宝物を渡して終わる。どうしても、そこが引っかかってしまうのだ。

この映画は前半部が長いのよ。登山が失敗して、捕虜になって、脱走してチベットに行き着くまでが。ここをもっと短くして、ハラーとダライ・ラマの交流にもっと時間を割けば、先のほったらかし感もずいぶん軽減されたと思うな。

さて、ブラッド・ピット。この作品ではサラサラヘアで金髪の貴公子の余韻をかろうじてとどめております。でも、アクの強い今のブラピの方が私は好き。本作では、父になる自分を受け入れられない苦悩、妻に見捨てられた喪失感をもっともっとエモーショナルに表現して欲しかった。ちょっと物足りないぞ。