Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

砂の女

2009-01-31 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 1964年/日本 監督/勅使河原宏

「美しい、あまりに美しい」


人間存在を巡る問題に匂い立つエロス。めちゃくちゃかっこいい。カッコ良すぎて悶絶。なんでこういう映画が今撮れないんだろう。

昆虫採集に来た男(岡田英次)が村人に騙されて、砂丘のすり鉢の底にある家に泊まらされる。脱出不可能なこの家で来る日も来る日も砂掻きをやらされる男。「俺がいなくなれば家人が捜索願を出してくれる。そのうち警察がやってくる」という男の弁をせせら笑う村人たち。

掻いても掻いても砂にまみれる家で作業をし続ける不毛さ。そんな住まいから離れられない村人。この物語には様々な隠喩が隠れている。端的に言えば男が文明で、村人が未開の象徴。男から見れば、何の理屈も通っていない無知極まりない生活様式も、そのコミュニティの強固さの前には為す術がない。しかし、最終的には男は取りこまれてしまう。人間の弱さ、生きるための拠り所とは何か、文明社会の空虚さ、本当に様々なことを考えさせられる。

物語を追えば、この作品。「砂の家」というタイトルでもいい。または、ハメられる男の嘆き、もがきもまたメインテーマであるなら「砂の男」でもいい。しかし、本作は明らかに「砂の女」だ。それほどに、岸田今日子の妖婉さは際立っている。汗ばむ首筋、くびれた腰にへばりつく砂、砂、砂。時に鮮烈に、時に舐め回すようにカメラは岸田今日子の体をとらえる。それがなんともまあ、エロティックで、美しい。ポスターにして飾りたいほど。

砂の家に棲む女は、ただ落ちてくる獲物に食らいつき、むさぼり食うアリジゴクのよう。その真意の見えぬ妖しさに私もすっかり虜になってしまった。ひたすら砂を掻き出す不毛な毎日でも、この女と暮らす日々の方が何倍も官能的で魅力的ではなかろうか、と。