うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

長嶋嫌い

2007年09月29日 19時01分53秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
時々
 先日、触れた時事ネタの長嶋亜希子夫人がらみについて書き込む。
 わたしには、亜希子夫人が家庭で非常な努力で良妻賢母の役割をこなしていたように、以前から感じていた。世に隠れて実は識見と実行力ある、ご夫人自身の人生の目標もあっただろうが、天衣無縫の亭主をかかえ、家庭的に二男二女の子育てに人知れずどれほど苦労したかと推測する。世間での外面もである。
 
 名選手が名監督になるのは難しい。これはプロ野球の世界に限ったことではない。人の上に立つに際し要求されるのは、自ら一人のみの才能・技術ではなく仕事的に距離を保ちつつ部下を引っ張っていかなければならない。技術よりも人心を考えた人事管理能力なのだ。
 特に、長嶋は天分の野球の才能だけである。そこから指導者になるには本人の自覚が必要になる。過去の栄光は本人にとって除外すべきものだ。彼が人気的には多数のファンを得ているのは一般大衆の嫉妬ねたみを逃れられた性格によるものだ。
 在任当時の結果として、何度か優勝したかも知れぬが、わたしには有望な選手を育成したことよりたとえばリリーフ投手に対する冷たい処置をしたことを覚えている。その選手もこの長嶋の持っている雰囲気に思わず幾度かひそかにこらえていたことだろう。
 わたしはお察しの通り、プロ野球の監督では人間的に長嶋茂雄より社会常識をわきまえた王貞治の方が好きである。

 卑近な話になるが、わたしが以前、都内の会社に勤めていた頃、上司なのだが明るくてスポーツマンでいわゆる好人物の営業課長がいた。おまけに取引先にも受けがいい。野球も上手で出身県では甲子園にも出られるほどの選手であった。バブル景気前、その当時の建設業界の営業では銀座での飲食、ゴルフ接待が常時おこなわれていた。わたしが途中入社する前から、彼はそのこともあり、非常にゴルフ好きになり、腕前もシングルに近いものがあった。そこで奇妙な話ではあるが、ワンマンである社長自身は、内心、彼にとってのゴルフは遊びであるゆえにその分給与を抑えていたものである。
 しかし、数年後、新しいプロジェクトに直面したらこなす能力がないことが社内外に知れ渡り、直接わたしが担当し処理することになった。なぜなら、わたしにとってできないと逃げることは嫌であったからである。とにかくまとめるものである、と思った。

 そのときに、わたしは色々深く考えさせられて、やはり長嶋好きを広言していた営業課長のこういう長嶋茂雄型の性格が、いっぺんで嫌いになった。
 こういうタイプは身近な部分では自らが自己中心であることに鈍感であり、仕事をする姿勢、仕事を進めていく環境のつくり方が頑固で柔軟性がない。そして知らない内に周辺に負担を押し付けてくる。
 その結果、生活を共にするなど身近な人々の感情に気付かず必ずしも幸福にしないだろう、と。
           
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締め切り間際の自分史コンクール

2007年09月27日 06時58分03秒 | 自分史・出版のこもごも
秋雨前線もどこへやら、今日は日本晴れ。蒼穹とも言うかな。

 自分史コンクールの締め切りがこの月末だ。やっと、知人に預けておいた原稿は取り戻せた。あとは梗概を800字以内でまとめて応募するだけだ。
 私の場合、自分史の特徴は、人生を振り返って仕事、生活面を綴るのではなく、その逆だ。これはユニークな視点と自負している。仕事にからむ専門語、業界用語を用いながらも、そこから世相、人の一生を照射した。むしろ、内容は一般の読者を対象にしたものである。

 と思っていたら、ページ数の短縮作業があるのに気付いた。誤字脱字のチェックはいいが、これは時間がかかりそうである。はたして、この休日の一日で間に合うのか。
 これはこれは、ややっ、時間とのたたかいになりそうだ。

 めっきり夜は寒くなって来ている。が、わたしの心はザワザワとして頭はすっきりしてきている。
      
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山口県光市母子殺害事件を思う。

2007年09月24日 17時23分55秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
わたしにとって、今は、近頃思わず休めたと感じる二日間である。
 原則として、このブログにはマスコミなどの時事ネタは書き込まないようにしていたが、しかし、先日来立て続けに関心を呼ぶ話題が出てきた。

 そのうちのひとつは、広島高裁で控訴審が開かれている山口県光市の本村洋さんのことである。無期懲役で上告されて最高裁で差し戻された事件である。5年前、わたしは、この件では当初から被告に極刑が至当と思っていたが、今回の公判では死刑廃止を標榜する大弁護団が被告を弁護している。その弁護内容ははっきり言って噴飯物である。言うのも気恥ずかしいが、正義には優秀な人材も経歴も関係なく、まして人数を集めれば主張が通るというものでもあるまい。日常になすべきことをごく普通におこなえていれば感覚として分かることである。積み重なって出来た大事な決め事、それを世間の常識という。それでたいがいの問題は判断できる。

 殺人の動機についておこなわれたのは、安っぽい心理小説じみたもの、サブカルチュア、精神分析学的な弁明がどんなに突拍子のないものであるか。自己の心理分析、釈明がそれほど大事か。初めから他者を思いやる心もないくせに。
 それに反し、わたしは事件当時から、新婚家庭の主人であった本村洋さんの発言、挙措に深い関心を持ってきた。まっとうで強い。なぜか。
 どうして、ああいう立派な青年に育てられたのか、卑近な見方になり恐縮ものであるが、彼を、わたしの親としての役目を何気なく比較して感じさせた。そこでは育てた親の教育というものを感じて、わたしはその光景を二重写しで見ていた。

 ほかには、長嶋亜希子夫人の死去と家庭問題、わたしの生来の長嶋嫌いがある。
 三つ目は鹿児島県警の選挙違反でっちあげ事件、四つ目はNTVの‘波瀾万丈’で放送された島倉千代子の人生である。このブログでいつか触れられたら触れたい。
      
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‘絶対音感’を読む

2007年09月15日 07時12分43秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
最相葉月さんの‘絶対音感’を読む。
 これは、カラオケ好き人間ではあるが恥ずかしげもなく自他共に音痴を自称するわたしにとって、狐につままれたような話の本である。
 わたしは当然ながら音楽に関するものは疎い。おたまじゃくしも読めない。楽器演奏もできない。
 世間では‘絶対音感’の持ち主を非凡な才能の人とされるようだが、わたしにはただ単に人間、一長一短と思うだけだ。上っ面の話だ。もっとも、これで生活の資を得ているのならば事は違ってくる。

 この本では、今までに‘絶対音感’についての学術的な研究がなされずまたその論議の発表の場があったわけではないので、一般的な視点から網羅し、初めてその現状をまとめて論点を整理してくれたもののようである。 
 これは論文形式のエッセイ、基本的にルポルタージュになるだろう。しかし内容をたどると感心はするが、必ずしも読後感が残るような楽しい本ではない。せっかくのテーマがつまらない。
 特に話題の展開の仕方について、文の記述、内容の構成上時系軸でプロセスを記す場合に言えることだが、決して論述だけをしてはならないもの。この場合いわゆる歴史ということになるが、社会・時代背景とか有象無象の細部を丹念に書き込むことが重要だ。でないと平板になりリアリティーが感じられなくなる。

 絶対音感の定義は、書中から孫引きすると、『ニューグローヴ世界音楽事典』の、
 「ランダムに提示された音の名前、つまり音名がいえる能力。あるいは音名を提示されたときにその高さで正確に歌える、楽器を奏でることができる能力」
 ほかに、
 「天性のものか、後天的なものかはまだわかっていない」
 「絶対音感を持つ人とは、いうなれば、人間音叉のようなものだろうか」

 しかし、弊害も言われる。
 「絶対音感の音風景とは、それを持たぬものには想像もつかぬほど騒々しい世界ではないかと思われる。音の氾濫する現代の都市社会で、ひとたび間違えばノイローゼになる危険性さえ孕んでいる。」

 わたしにとって最相葉月さんの本は、これで‘青いバラ’、‘星新一--一〇〇一話をつくった人’に続いて読んだことになるが、科学技術系のジャーナリストである。
 しかし、実は正直に言うと、いずれも、途中あきれてなんども読むのを放棄しながら読み進んだもの。この著者はひょっとして、表現者としては事実を集め組み立てた上でのロジカルな文章表現が出来ても、感受性は鈍いかもしれない。
         
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どっどど どどうど

2007年09月11日 05時52分53秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

 
  どっどど どどうど どどうど どどう

  青いくるみも吹きとばせ

  すっぱいかりんも吹きとばせ

  どっどど どどうど どどうど どどう
 
 くらしの中から生まれる天然の童たちと幻想の世界、音律が醸しだすお話の世
 界。これはだれの作品でしょうか。
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夏を憾む

2007年09月04日 06時46分28秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
前の週の“処暑”の頃にほんのお湿りがあってから、8月29日の早朝の雨を境に季節が変わった。わたしは寝るのが、10,11時すぎになり、朝起きるのが遅くなり涼しくなる。空気が冷たく寒くなった。海洋学用語で言えば、潮目が変わった。
 この夏、わが家の庭ではこの日照りで植物が生育不全になり水遣りに明け暮れた。茗荷畑などは半減したが、百日紅とブッドレア(房藤空木)は再び勢いを盛り返し、ボトルブラシ状の道路端にある可憐なピンクの‘花虎の尾(カクトラノオ)’も咲き始めた。
 わたしの風体は偉丈夫、年齢相応に見られるかもしれないが、その実、体調が変わりやすく気持ちの動きも変わりやすい。よく言えばデリケート、悪く言えば情緒不安定、お天道様に左右されるお天気屋である。そう、昔、中国、高原地帯の古都、昆明に行ったときに漢方医にそんなふうな病状を診断され山のような呑み薬を買わされたっけ。なんだか中国は全てが商売人のような国民性だった。
 わたしは初老に見えるかも知れぬが、日常の心情は青少年の如し。

 勿論、以上のことは半ば冗談である。
 時節に流されて生きていくことは簡単、物事を割り切れるエネルギーは若さの特権、今ではズルズル過去のことをああでもないこうでもない、と醜く引きずっている。そうか、一番大事なのは若い意志、清新な感情か。
 この数ヶ月のことを振り返らなければならない。生活上のこと、営んで行く仕事のこと、勉強途中のCADのこと、資格試験のこと。

 うろこ雲 見果てぬ夢を念じおり    うざね博士

     鰯雲人に告ぐべきことならず (加藤楸邨)

             
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