うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

ある高校

2015年11月30日 06時37分36秒 | 東日本大震災のこと
昨日、地元の海の景勝地に行ったが、夕刻も近いころ、帰り道にある高校に寄り道をした。ここは漁業従事者を育てる場所、津波被害を写真で撮った。3階建ての2階まで津波が来たことがわかる。2棟の内一つを震災遺構で残すことに決まっているが、その当時のまま、沈んだ地盤は周りにはクリークまがいの水面がある。
 あれから、4年と8か月経った。
 多言は無用、画像をアップする。
            

            

            

            
             
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一時的に実家に帰る。

2015年11月24日 08時17分40秒 | わたしの日常です。
一時的に実家に帰る。行き帰りは相変わらず、無機質な時間の移動だ、窓外の景色も単彩色。関東に近づくと紅葉した葉が樹木に縋りついているか・・・。時節は既に立冬も迎えた。当たり前だが車内は他人同士の人たち、無言、無音。祝日の午後2時台、帰りの新幹線はガラガラ2割程度か。

 今までの来し方を思うと、結果として回り道だらけだなあと感じる。もっともそれはなにがしかの目的があってのことだろうけれど。しかし、生活の為に金が要るしそのための仕事は必要だし、好きなこともできない。やりたい仕事があっても、それが就業や就職の機会に恵まれる訳でもなし。
 若い時分から世渡りの上手さや要領の良さ、調子の良さを嫌ってきて、老いても変わらない。わたし自身はなんだか、面倒な方へ面倒な方へと進んできたような気がする。多分、根底にはみずからわたし自身の不器用さを自覚していたのかもしれぬ。
 用件はマイナンバーのはがきやぎぼうし協会の冊子や法人市民税の通知の読み込み、樹木医の登録申請手続き、などなど。
 休みの4日の内一日は昼間もベッドに寝ていたが、こんなことは何日ぶりだろうか。アパート暮らしでは味わえない気分がする。それに、朝晩せがむ愛猫の抱きかかえての散歩。天気もすぐれずに終始している。
 実家でした作業は、2,3時間は庭の整理整頓、ギボウシの種子採取は今年分は不要と見極める、その鉢の整理、不要になった鉢受け皿の水洗い整理、花芽を持っている椿のセッテイング、プリベット生垣の刈り込み、雑草抜き、ためている雨水の処理。家内が植えやすいように、冬の飾りつけの草花 パンジー、ビオラ、プリムラ・ポリアンサス、桜草のための空きプランターを玄関前に用意する。

 本は勝木俊雄の 「桜」岩波新書 を読んだ後に、「昭和の名将と愚将」 を再読、あらためて 石原莞爾 という人間に惹かれる。東京駅の書店の店先で山本七平の 「昭和天皇の研究」祥伝社新書 を見つけて購入する。
 わたしは、今度のお土産は地元の新豆の落花生と決めていて、登録申請用の写真を撮りがてら近所の店に行く。落花生は地元では高いのが玉にきずだが、お気に入りの今年の はね出し はない。ちょっと時期が早いかもしれぬ。
 今度帰るのは正月休みになろうか。
          
 
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故郷の面影

2015年11月17日 06時36分59秒 | 地方・故郷・方言
ここでは、故郷の面影をたどる。


 わが家へのいつも行き来した道のり、こんな風にアスファルト舗装までしているとは、わたしは思わずとまどう。当時はでこぼこの土の里道で、右側に雑木林があり、3mは低くなった片側には小石混じりの畑があり、日当たりが良くて大麦、大豆、小豆、それに養蚕用に桑畑があった。その隣地には沢を挟んだ小高い山は萱が生えて萱刈り場になっている、その叢生している合い間に山百合が咲いていて、百合根はよくここで掘ったもの。この山の今は薄暗い杉林に豹変した。
 当時の高低差や立体感が記憶と意識の上で生々しくもよみがえる。
 たまに道の溝には砕石が敷かれる。変な話だが、学校帰りには車の通った轍を確認しながら歩いた。当時は自動車が珍しくて単車(オートバイ)のみ、リヤカーや大八車や牛車などの荷車しかなくて、新しくなにかいいものを運んできたのか、だれか来たのかという子供心の思いだ。他愛もない。今は枯れ葉が散り敷く。

 これは地元ではありきたりの柿の木だが、昔、旧正月のころの風習、父と“果樹責め”のやり取りをしたことを覚えている。こんなにも渋くて貧弱な果実だったのか、あれから60余年、同じ木だが、太らない。なんだか、うらぶれ感がする。

 柿の木に隣り合った水木(ミズキ)であるが、やはり太らない、日照状態が悪くなっているせいか。もともと成長の早い木のはずだ。わたしにはこの水木の樹姿や枝ぶりや一年枝の赤みはいいものだと、ここで刷り込まれて来たような気がする!

 燐家のなつめだ、やはり残っている。今が食べ頃、しかし外聞をはばかりわたしには拾えない。これは、なつかしい味覚である。

 当時は沢水をせき止めて飲み水につかった。確か、ここに共同作業で、砂や砂利を組み合わせて水を漉して水源を造り塩ビ管を剥きだしで各家に配管していた。今は小さな砂防ダムになっている。

 “後三年の役”の戦場跡は刈田になる。後景は、改築を重ねて新築した三階建てのわたしの母校・小学校である。併設してあった中学校校舎は統廃合により他所に移った。
  
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わたしの紅葉めぐり

2015年11月12日 05時46分45秒 | 地方・故郷・方言
 ここでは紅葉めぐりの写真を並べたい。画像は選んで22葉。わたしは撮影マニアではなくても、その腕前にそこそこ少しは自信がある。11月3日、文化の日、まあまあの好天気。デジカメだが、アングル探しと自生林の樹種構成を見つめ、それぞれの紅葉の発色具合に興味がある。
 紅葉狩りというと、京都などの寺社の観光地に行くものと思い込むが、いえいえ、とてもとてもあんな人工的なもみじには納得がいかない。前提は背景になる伝統的な建造物ありきのもの、シチュエーションのみのもの。例えば東福寺、あれは、植えられた樹種がイロハモミジ系のみの単調な集合体だ。パレットで単に色を塗りつぶしたり配合しただけではないか。微妙な味わいは身近なところにある。まあ、こう思うのも幾多もの紅葉行脚のせいか、はたまた寄る年波のせいか。

 主に県道や市道をワンボックスの軽自動車(ついでに言えば車内装飾なし、手動式ウィンドウの古いタイプ)で縦走しているが、撮影の半分以上は運転席からフロントガラス越し、時には道路の左側にウインカーをだし停止する。追い越す地元の車は何だろうと不審がちである。それはそうだろう、都市部よりも地方の方がクルマ社会だ、とても散策している人は見当たらない。とてもわたしみたいな風変わりはいない。今回は俳句は浮かばず。無人の境地にいるみたいである。
 大雑把に言って、当地では紅葉時期のピークは10日前ぐらいではないかなと思う。民家の近くでは鈴なりの柿の木が目立つ。華やかな添景だが黄色い果実は渋く小さくて誰ももがずにいる、食料として重要ではない。風景としてはいいがそういったものでもないだろう、何事も生活第一な筈である。
 総じて感じるのは、ここは深山とは異なり紅葉、黄葉、白葉などの錦織りなす色彩とまではいかず。ヤマザクラは葉を落とし、褐変しちじれた大葉を付けるホオノキ、ハンノキは赤変せず、ミズキは色がよく出ないなあ。やはりちょっと、関東と違う。葉は紅葉を終えグレーの幹や枝ばかりのケヤキ、イヌブナ、コナラ、クヌギとかの広葉樹、山峡、耕作地、里山や牧場、標高500mの高いところでは白い幹肌の白樺、カラマツの黄葉もある。

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            
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田園追想

2015年11月10日 05時53分56秒 | 地方・故郷・方言
これはわが田舎、平原のごとく整理されて、田んぼはすでに稲の刈り入れも終わった。たまたま、一台のコンバインが回送を待っているのか置かれている。土手には一度草刈りされてもめげずにセイタカアワダチソウが咲きほこり満開だ。昔はなかった北米から入った強権種の植物だ。昼下がりの晩秋、碧空と暗い灰褐色の刈跡に真っ黄色な配色は広がる。野鳥名は特定できずにいるが、空には タカ が飛翔する。往時を想う。
 わたしの勝手な田園追想のよすがに画像を 3コマかかげる。





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山あいの教会

2015年11月09日 04時16分43秒 | わたしの日常です。
これはある山あいの教会である。わたしは、正午前に着いてあわただしく写真を撮ったもの。朽ちているような無住の木造のカソリック教会、質素というにはあまりにも寂れた光景である。ちょうどこの時に盛岡かららしい一台の大型観光バスが到着しぞろぞろ人が降りてきた。鬱蒼としていてしだれる樹木がかぶさる窮屈な田舎道に人声が起きる。わたしは、見ず知らずの単なる通りがかりだ。
 教会や外便所の屋根に掛かる紅葉した椋や楓が燃えるようであった。

            

            

            

            
            
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アメリカの戦争責任

2015年11月08日 08時35分16秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
竹田恒泰さんの本、「アメリカの戦争責任」PHP新書 を読む。きわめて読みやすい。
 先日、近所のイオンの未来屋書店で思うような本が入手できずに来年の太陽太陰暦の暦とともにこの本を購入した。明治天皇の係累の人ということでテレビに出ていて、軽いキャラクターのみの人かと思っていたが、書店で見ていたらこんな本を出している。なんだなんだ、おまけに、山本七平賞も受賞された由。
 
 わたしは日本の歴史では、安土桃山時代と続いて関ケ原の戦い、明治維新、とそれに並んで大東亜戦争(第二次世界大戦)が重要でエポックメーキングな年代かなと思っていた。前の二つは時間軸が離れていて歴史の評価は定まっているが、大東亜戦争の敗戦はこれからの世代により客観的に決まってくるものと思われる。
 ここで、戦後最大のタブー「アメリカの戦争責任」と紹介されているが、要はアメリカの広島や長崎への原爆投下の責任の明確化を追求したもの、第二次世界大戦でヨーロッパ戦線ではドイツによるロンドン空襲、それに対する戦時復仇としての連合国側からのドレスデンへの空爆があった。その後アメリカによる、わが日本の地方都市70数か所への無差別な空襲が始まり、民間人100万が死亡した。
 最後には、計画的にそれまで焼夷弾投下などを避けて残していた都市、新潟、小倉を含めた4都市の内天候による視界が良かった広島や長崎へのそれぞれウラニウム爆弾、プルトニウム爆弾を投下した。その結果、民間人30万人以上が死亡した。
 投下直後にアメリカはその威力や放射能について終戦後現地入りし敏速に調査をしたが、そのデータは本国へ持ち帰った。そのあとの治療方法は日本任せにした。これらは時のアメリカのトルーマン大統領やバーンズ国務長官の判断によるものだが、国際情勢の上で米ソ冷戦の予兆もあり、アメリカ軍の損失を抑えることと日本の終戦を早めるためにとは言いながらも、竹田氏は、人類初の驚愕すべき原子爆弾という破壊兵器は人体実験だったのではと分析していく。
 明確に、日本各地への空襲や広島や長崎への原爆投下の大量殺戮は、人道上国際法違反でありながら、現代でもアメリカ国内の世論ではほおっかぶりしているらしい。この問題は、アメリカの開拓者精神や世界の正義を標榜することを良しとしながらも、そういうレベルではない。
 ただ、誤解をしてほしくないのは、アメリカによる戦後日本の復興についてはGHQによる占領下、援助物資や社会制度の改革や民主主義の導入は稀に見るありがたいものだったということを付け加えたい。
 いずれにしても、これからはこの視点からの議論の盛り上がりを期待したい。

 残っている戦後のタブーはシベリア抑留の強制労働などの実態調査とソ連の責任、それに補償問題と、大東亜戦争戦後の戦没者の国による解明と遺骨収集作業の迅速な完全実施であるとわたしは思っている。
                
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牛の表情

2015年11月05日 06時01分09秒 | わたしの日常です。
この間の休みの日は天気が良かった。どうやら特異日か。なんの目的も持たず、牛の牧場に向かう。飼育場(昔だったら厩と言うかな)、晩秋の放牧風景を画像に残す。
 近寄ると向きをそろえてわたしの前に接近してくる。人怖じしない持ち前の好奇心か、餌の時間と思っているのだろう。ホルスタイン種。せまる顔面に、大外の人は怖がるだろうけれどわたしはそれほどでもない。小さいころ、わたし自身、生家では乳しぼりをして集乳缶で毎朝出荷していたもの。馬よりも身近であった。鳴き声は胴間声。たまに角を振り上げ大暴れもする。しかし後年、こんなにおとなしい家畜はいないと気付く。大きくてやさしいこぼれ落ちるようなまなこ、そうなのだ、わたしは牛の表情に惹かれる。牛車や田起こしなど農耕用は黒い朝鮮牛や和牛だが、なべて力が強くて気がやさしいとは、金太郎みたいだが、田舎の子供はそんな風に育ってきている。
 天気は晴朗、まあ、ありきたりだが画像をご覧ください。












                
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