うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

その後の読書

2016年01月25日 04時45分27秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
この季節、野外はいつも曇りがちでいつの間にか空からはひらひらと雪が舞う。暗鬱、やるせない気分である。休日はコインランドリーに行く、スーパーに食料を買いに行くか煙草を求めるか、だけである。寒いし、無為な日々、外出にも億劫になる。強いて訪ねる先もない。こんな季節は不活発な日常が続く。健康に良いわけはないが、やむを得ない。
 ベッドに布団と毛布を重ねてかぶりもぐりこむ。そうすると、わたしは年末からの読みかけ中の手軽な読書に行きつく。

 まず本屋で買ったばかりの未読の松本清張の 「梅雨と西洋風呂」松本清張 光文社文庫 を読む。松本清張は時代小説は忌避していて他は全部読んだつもりでいたが、光文社文庫はあのカッパノベルスでベストセラーだったものが文庫化されたもの。やっと読めるようになったという曰くつきのものか。逝去後の文春版の松本清張全集には入っているのだろうか。
「家族という病」下重曉子 幻冬舎文庫 2015年の年間ベストセラーだった本で売れているらしいが、簡単に読了する。内容は薄っぺらでどこがいいのかわからない。買ってまで読む本ではない。著者は元NHK女子アナウンサー。わたしに言わせれば単に本人の経験を述懐しただけのもので、いっそ、自叙伝などで密度濃く記述してほしいものだ。

 以前、秋のつくばで樹木医研修を受けた。その時の講師が出された 「桜」勝木俊雄 岩波新書 は好著で(この世界では珍しくて記述の仕方は練達しており、文章も出色の出来映えである。)、わたしはそこでしばらく前の 「桜の文学史」小川和佑 文春新書 を思い出した。“桜”を生態や植物学的な面と古書から現代にいたるまでの文学的な描写と鑑賞の視点から記したものだが、これに 山と渓谷社 の図鑑“日本の桜”を加えれば、現代では、“桜”の知識として万全な知識を得られることと思う。

 「シンクロの鬼と呼ばれて」井村雅代 新潮文庫 はシンクロナイズドスイミングの井村コーチのスポーツ指導方法に惹かれて読んだ。聞き書き風の本である。彼女は厳しい指導で中国でも日本でもメダル獲得をしていくのだが、どうしてか? 読後感じたのは、目的意識を如何に持たせて心身ともアスリート自身への自己に鍛錬させ得るか、であるらしい。持っている才能もだが、能力とは、努力の果てに得られるものらしい。

 「脳はこんなに悩ましい」池谷祐二・中村うさぎ 新潮文庫 は時間をかけて、先日読み終えた。飽きない、引き釣り込まれる。現代は、脳科学は学会でも最先端の分野である。池谷は多量の資料を渉猟し、読み下し、色々な所見を披露してくれる。それに対して、中村うさぎの真摯な態度で対談する姿は初々しく感じるほどだ。
                    
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ミズキの思い出

2016年01月24日 05時34分43秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
いよいよ、厳冬の季節に突入だ。現場に行っても積雪の後は雪そのものよりもぬかるみがひどくて、土工事は難儀するこの頃である。泥だらけの長靴はその都度冷たい水で洗う。宅地造成の現場は手間がかかる。
 ところで、この地区の山林であった残留緑地には杉の伐採跡に色々な落葉樹の萌芽や叢生がおびただしい。その中で、ここではミズキの画像を掲げる。ミズキは新芽を付ける幹肌が真っ赤で雪の中でもすぐに見分けがつく。
ミズキは生長も早い、その材は柔らかくて木目も目立たなくきれいで白っぽい。簡単に彫刻刀などで切削加工しやすい。実は、民芸品、土産物の東北のこけし、鳴子のこけしはこのミズキで作られている。

 地方ではミズキに小正月や旧正月にはこの枝先に搗いた餅をくっつける習わしがある。昔、わたしの田舎では旧正月こそ本当の正月、もち米を蒸し臼で搗いたばかりの餅で飾り、家の天井際の神棚の取付け金具や欄間や鴨居などにやや斜め上に向け結わえておくもので、“餅花”と言った。生糸を採るお蚕様、養蚕の豊産を祈ったものなのか。
 わたしには、冬の寒くてなんの楽しみもない子供時代、言葉で形容すると貧寒という感じか、このころが少しは華やぎにぎやかになり楽しかった。年末になると、野兎(トウホクノウサギ)獲りの針金の罠を仕掛けに行ったり、この2,3~5mのミズキを父に連れられ近くの山に雪を漕いで切り出しに行った記憶がある。
            

            
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正月雑感

2016年01月10日 10時23分03秒 | わたしの日常です。
実家に戻って以来、この正月休みは毎年のことだが、だらだらと、過ごす。わたしは、初詣も、年賀の挨拶回りもなし。
 3日間ほどは庭の整理。ついで、昨年気仙沼の人からもらい受けた銘木へのお礼のつもりで 「タマノカンザシ」ギボウシ鉢とポポー実生苗を鉢上げし、持参する予定で用意する。
 外出は妻と近くの酒々井アウトレットパークへ初めて行く、また、地元の衣服スーパーで冬用下着の物色、玄関先に植える花壇用の花を求めたのみだ。珍しく年賀状は昨年に投函済み、知人親戚には元日に届いただろう。わが家ではほかの家の清掃や整理は家族、妻がしていて、毎年の五段重ねのお重、おせち料理は長年妻がつくってくれる。以前には子供が小さいころには、わたし自身が餅つき機で餅を搗き用意して、お供え餅も用意したものである。
 リビングではテレビはつけっぱなし、過去には映画を見れたものだがくだらないお笑い番組は流し放し、2日3日の箱根駅伝を見ていた。内容的には寄る年波のせいか、段々とついていけない気がする。
 それに、3食付きの気ままな起居、日々の財布の中をを気にしなくて済む暮らし、なんでも一人でせずにはおれない単身生活とは雲泥の差というものをつくづく感じさせられた。家庭を持つ身でありながら単身赴任するというのはストレスが解消できないと実感する。

 休暇の後半にはミニ書斎にこもり、古本や資料やなんかを読む。樹木医関連も探し出す。特に10数年前の造園会社を退職し形ばかりの独立した数年間の動きに思いが及ぶ。どちらかと言えば索漠とした孤独の日々だが、市に対する社会活動の履歴、住む地区の維持管理組合の理事長職をつとめたり、地元郷土の歴史や探索についやした生活に感慨を持つ。
 当時は、金銭的にはきわめて貧しい日常、長年の会社員生活とは及びもつかない年月だ。その後、自主的にガーデニング教室を開催したりもした。

 この休みは10日間に及ぶが、この間も給料が出ることがありがたいことだなあ、とつくづく思う。
               
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