うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

石岡瑛子の‘私デザイン(I DESIGN)’を読む

2007年08月30日 06時37分06秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
石岡瑛子の‘私デザイン(I DESIGN)’を読む。
 この本の装丁、製本はわたしにとって苦手な部類にはいる。けばけばしさも嫌である。文章は上手い訳ではないが、面白い内容が詰め込まれた本だ。語彙の貧しさ、繰り返しのフレーズには閉口する、読みづらいのだが馴れれば読んでいける。世の見るところ、過去の経験談にはそういう傾向が見られるものだ。
 それよりもその経験の態様そのものに注目すべきだろう。個人の資質もあるが、国際的な活動をしていれば、日本人的な文章表現がなおざりになるのはやむを得ないことかもしれない。

 わたしにとってうわべはどうでもいいのだ。フリーランスの生涯を送る女性。
 彼女は単独行を強いられたのか、単独行を好むのかは定かではないのだが、それから必然的に置かれていくことになる孤独な環境に、なにか行動することの虚無感を感じさせる。世の中で、物事を成就させていくには不可避の無常が。
 しかし、自己韜晦をしないで、向こう受けを狙わず、名誉を追わず、単一に自らの感覚を頼りに才能に賭ける生き方に男女の性別を問わず賞賛に値するものである。そのけれんみのなさに脱帽である。

 読み始めたきっかけは、実は、この方の実弟に面識があったからである。早稲田大学理工学部の建築を出て、比較的、大手の建築設計事務所に入っていたのだ。わたしは当時は都内の品川区内の大きいプロジェクトに関係していて、ランドスケープデザイン・植栽計画について頻繁に打ち合わせをしていた。上背があり細身の体型にほつれた白髪で、人あたりがやわらかく、一見、品のいい女姓的な面持ちを持った人であった。人望があるように見えて実はそうではでなく二面性のある個性であった。今、振り返るとあまり感心させるような性格ではなかったのだが。
 その頃に、1993年、石岡瑛子は映画‘ドラキュラ’でアカデミー賞の衣装デザイン賞をもらったのである。あのフランシス・フォード・コッポラ監督の映画である。
 そのことで、彼はお得意先からはお姉さんと比べられ冷やかされていたのだが、この本を読むと姉弟は全く反対の性格に育ってきたようだ。姉は竹を割ったような個性が特徴的である。弟は実際に会っていると存在感が薄い。これは性格が男女の性を入れ替えてもよいほどに違っている。
 こじつけで言わせてもらうと、父母のことは記されているが、この本では弟のことが全く触れられていないのだ。

 口はばったい言い方になるが、デザイン論について、孤軍奮闘、暗中模索の生き方など、仕事の知識を独学で身に付けデザイン職についているわたしにとって、全く同じ感慨を感じる。
 無知の、または手先の巧みさと頭でっかちの模倣ではなく、最終的には自己格闘の末のオリジナリティが勝負だと述べられている。しかも完了した作品はくずだと。過去の話だと。

 若い読者にとって、この本は劇薬かもしれない。決して、わかりやすいことがたやすいことではない。

 この女性は、“デザインワーク”と一生を供にするのだろう。あるいは、“デザイン”の仕事と結婚したのだろう。
      
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8月25日の日記

2007年08月29日 06時26分56秒 | わたしの日常です。
いつもどおりの早起き。今日は相変わらず天気が良さそう。
 朝のコーヒー、新聞を読む。それからPCに向かい、YAHOOのサイト、Google、メールチェック、ブログのチェック。
 階下の雨戸開け、家の前の掃除はあまり散らかっていないから今日はなし。空腹のせいで早めに、マーガリンにピーナッツバターを厚塗りしたトースト2枚、レンジで2分経過した膜の張ったホットミルクを食べる。6時半。
 ベッドに戻り、今、読みかけの石岡瑛子の「I Design」を読む。今日の夏祭りに準備の集合時刻は09:00だ。家内が行っている。しかし、いつものようにうつらうつらしながら読み進む。彼女は外国でのデザインの道をいっしぐらの記録だ。製本はペンギンブックスのPaper Backs版を模しているようで外見は読みにくいが我慢する。だが、内容はそれほどでもない。
 あ、まずい、と飛び起きて汚れてもいい長袖、長ズボンに着替える。はれぼったい目でそそくさと、夏祭りの会場である公園へ、剪定鋏・手鋸とペンチと小さい掛矢を持参する。 
 自治会の関係者に伝えて、前回の継続として、一人で樹木の二脚鳥居支柱の取り外しをはじめる。樹木を植えてからかれこれ20年ほどは経っているだろうか。樹木は十分に活着している。これはもう既に用済みの支柱なのである。いまのままだと腐ってくずれたりして危ない。子供たちにとって危険なのである。
 暑さを凌ぎながら、なんとか作業に没頭して11時前に終了。後片付けもいれて、全部で15組ちかくになった。これでいいだろう、ほっとひと安心だ。
 それから帰宅してシャワーを浴びて着替える。家内の作った冷やし中華の昼食後、テレビのサスペンス劇場をみて、また午前中と同じようにベッドに横たわり「I Design」を読み続ける。そして、いつものようにうつらうつらしている。ふっと目が覚めると17:00近くになる。どうしようかなあ、と思い髪が伸びて暑苦しくなっているので、床屋に行くことにする。この日席は空いており、無口なマスターと珍しいことにお祭り、〈八街ガイドマップ〉作成、などの世間話をする。お値段は¥3,800なり。

 それから家に寄り、チケットを持ち、18:20に会場へ行った。家内の出ている模擬店のおにぎり・焼き鳥コーナーに立ち寄り会場内をたむろする。いやいや、放浪するかな。わたしは夏祭りの員数外である。ここは田園地域のささやかな370世帯の住宅地である。会場は二方向が山を切土にして背面になり、住宅地側に開かれているのである。祭りちょうちんを夜空に縦横に張り巡らせて、その下では祭り舞台とテント7張りがしつらえてある。
 そこでは小さい子供、小中学生とお年寄りが多い。夏祭りの情緒はいい。想い出づくりとは言うけれど、本当にそうである。今回は、多弁にならず絶叫型にならない司会係がいい。
 会場内に、市民ケーブルテレビの「㈱広域高速ネット二九六」の取材カメラクルー2人がいる。30歳前後の女性である。自己紹介ののちに取材の謝意と、祭りの進行状況やよもやま話をする。司会も、ぜひインタビューに答えるように案内している。テレビでは9/1からしばらく放映になるらしい。
 そのあと、来賓者として地元の県会議員に続き市長が来る。ちょっと会場内がどよめいている。いかにも農家の出のように肩幅が広く短躯のH市長はガニ股で行動する。
 知り合いと駄弁りうろうろしていたが、和楽太鼓が鳴り響き、音楽がかぶさってくると、やがてわたしも踊りの輪に加わる。東京音頭、炭坑節、落花生音頭がなんども繰り返される。なにごともへたくそなわたしは、覚束ない手足と身振りを繰り返していく。列の前にいる上手な踊り手を見失わないようにまねる。そうか、そうだったのか、わたしにとって40年ぶりになるのだ。
 H市長は19:30過ぎに退出、わたしもそれにつれて帰宅する。食材のご飯が夕食のかわりだ。やがて、家内が帰宅した。
      
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いきがる、私

2007年08月20日 06時16分50秒 | わたしの日常です。
きのうの午前中、軽作業をおこなう。
 来週の日曜日に迫った夏祭りの準備として、会場になる公園を自治会20名ほどで掃除をする。わたしは雑草の除去、植木の枝打ちを自らすすんで一人でしたのだが、この暑さと余裕のなさでバテバテになった。後で見たら右手の中指にまめが出来ていた。しまいには吹き出る汗で全身びっしょり。わたしは生来の汗っかきだ。そのさまは着衣のまま泳いできたのかと、他人が見たら不審に思うほど。
 緑地は雑然としている。緑地の中の実生木(ミショウボク)は野鳥のしわざだ。ぬるで・たらのき・くろがねもち・やまぐわ・えのき・むくのきを切り倒し、くず・やぶがらし・やまのいも(自然薯)の蔓をたぐり寄せて根元からカット。すすき・せいたかあわだちそう・ひめじょおんを引き抜く。出入り口の枯れたコニファー(グリーンコーン)の伐倒、山桃や辛夷の剪定など。切った枝葉は「燃えるゴミ」にするために細かく刻む。わたしは一週間前に下見をしていたのだが、どうしても、要らなくなった支柱の撤去までは手が回らない。

 普段から肉体労働はあまりせず、内心はどうなることかとは思ったが、段取りと作業要領はOK,わたしはセミプロ、疲労困憊などと、そんなことはそぶりにも見せないようにしていた。

 とは言え、帰宅後のシャワーで体を洗いさっぱりとする。
 いつまでも年加減を気にせずにいきたいところだが、一体、いつまで続くか。言行一致、小狡くはなりたくない。しかし、年寄りの冷や水ということもある。
           
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炎熱の戸外を避けて読書に励む

2007年08月15日 07時36分50秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
夏がみずみずしくエネルギーにあふれた季節などと思えるのは若い内だ。わたしは、やけどを起こしそうなこの夏の光線と熱線に外出を控えている。地球温暖化などと大げさにならなくとも、60歳近くも生きてみると、実感として冬の寒さはそれほどでもなくなり夏の暑さは年々増してくるようだ。
 この四日間の夏休みは,長い間故障中であったエアコンを新規に入れ替えて、2日ほど籠って、テレビばかりひがな見ていた。高校野球、ドラマなどだ。あまりに気持ちいいので時々うたた寝をしてばかりである。リビングルームを出入りするたびに室外は浴室に入った気分、むぅとする熱気と湿気だ。
 これはならじと、二階のベッドで読書に勤しむ。この際に山積みにされた本があるのだ。これはこれで数年来の枕頭の書、睡眠誘導剤の如きものであった。

 手始めに、「反省」鈴木宗男・佐藤優 アスコム。
 既に有名になった著者たちの対談であるが、ここでは、実際の組織における男の嫉妬の凄みというものを感じる。外務省であれ政界であれ、これはどこでも見受けられる光景である。現実問題、本当にそうだ。おそらくこの人間の世界に即効的な解決策はないであろう。それぞれが独自な方法でやり過ごすしかない。
 それにしても東郷和彦欧亜局長は面白いことを言う。
 官僚には2通りある。それは第一が『能力があり意欲もある』、第二が『能力があるが意欲がない』、第三は『能力がないが意欲がある』、第四は『能力がなく意欲もない』のどれかだ。どれが最低かと言えば、能力がなくて意欲があるヤツだ。

  「マングローブ」西岡研介 講談社。
 これは、JR東日本労組の労働貴族・松崎明を扱っている。かつて親方日の丸であったJRに棲みつく、むかし懐かしい革マルの暗躍ぶりがつぶさに記されていて、驚きの連続だ。
 そうか、あの三派系全学連のなれの果てがここに生息していたのか。

  「日本人とアメリカ人」山本七平 祥伝社。
 平易な表現のアメリカ探訪記といった体裁ではあるが、内容はなかなかのもの。1970年代後半の文章でありながら、今年の5月に単行本化されたものであり、その見聞録の内容は決して古びていない。再読にたえる本だ。

  「空気と戦争」猪瀬直樹 文藝春秋。
 陸軍省燃料課、高橋中尉の開戦時の石油調達計画の流れとあらましが触れられる。また、昭和16年4月に総力戦研究所で〈もし日米戦わば・・〉という前提のもとで‘帝国国策遂行要領’を作成。これは各界の30代若い俊英達のシミュレーションである。いずれにしても、同年12月8日太平洋戦争開戦直前での出来事である。暗然たる思いだ。

  「百人斬り裁判から南京へ」稲田朋美 文藝春秋。
 これは、今続行中である。この事件は戦時中に起きたが、戦後の左翼プロパガンダにまみれた政治風土が背景にある。素直な目と自分自身の頭で考えれば分かる筈なのに、いかに偏狭な観念のみで知識人がミスリードしてきたかが分かるだろう。本多勝一とか大江健三郎とか。
 これでは、BC級戦犯として銃殺されて残された家族にはたまらない。
 とかく世間では、知っている量が多いとか表現が巧みだとか、とされる優秀な人材が指導的な立場に立たされるが、無責任ではたまらない。決して感受性とか学習能力だけで物事が決まるわけではない。左翼的なインテリに多くいるこの人々は、自分自身に鈍感なだけ性情が下品であり、むしろ害毒である。

 わたしのブログを見ている方はご存知のように、専門書は別にして、わたしは流行本とかノウハウ本は読まない。いい年齢になると、時間の無駄という気がする。
 半裸の体は汗まみれ、寝転がってばかりいたから腰痛がする。でも、おかげさまで、わたしにとってこの夏休みは頭の中だけは少々充実していたのかな。
       
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ちあきなおみの“朝日のあたる家”

2007年08月12日 06時44分08秒 | わたしの日常です。
昔、反戦フォークソングとしてピーター・ポール&マリーやジョーン・バエズが流行っていた。
 その頃にアニマルズの“朝日のあたる家”も随分と聞いたものである。圧倒的に重厚で大音声のこの曲は、一度聞いたら耳からはなれない。ふと口ずさんでしまう。陰惨で悲しいはずの歌詞と曲調に気付いたのはずーっと後になってからだ。
 それを、ちあきなおみが、先日、NHKの衛星放送で歌っていた(再放送)。

 “朝日のあたる家”
   作詞:浅川マキ  作曲:アメリカ民謡

   私が着いたのはニューオーリンズの
   朝日楼という名の女郎屋だった

   愛した男が帰らなかった
   あの時私は故郷(くに)を出たのさ
   汽車に乗ってまた汽車に乗って
   貧しい私に変わりはないが
   時々想うのはふるさとの
   あのプラットホームの薄暗さ
   
   誰か言っとくれ妹に
   こんなになったらおしまいだってね

   私が着いたのはニューオーリンズの
   朝日楼という名の女郎屋だった

 絶望の末の絶叫なのか、はたまた修羅場の果ての失恋歌、悲歌(エレジー)なのか、心に喰い込んで来るのだ。喩えれば、聞き終わった後で周りの寒さに思わず胸のまわり襟元を掻き寄せるように。
 ちあきなおみのあの泣き顔なのか笑顔なのか判明しない無表情が、歌を歌いだすとすぐに曲中に入り込んでしまう。それは、美空ひばりを凌ぐ表現力だ。
 小さい頃からプロ歌手を強いられ、ジャズ・ポップスの歌唱法を身に付けた。歌の才能は天才的であっても一般的な人生は送ってこなかったように、わたしには見える。なにが幸せか分かってしまった。
 今は最愛の夫、郷瑛治に先立たれて歌手活動をやめてしまった。かれこれ、十数年になる。

 申し遅れたが、わたしはちあきなおみの一ファンである。
       
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真夏の世迷言(よまいごと)

2007年08月09日 06時52分49秒 | わたしの日常です。
昨日は立秋。
  めぐる社会情勢、変わっていく人事・人の世の中。どうこの人生を生きるべきか。十人十色の生き方がある。自己本位の利己主義で要領が良ければいい。
 自覚していればまだ人間性としては良質だ。所詮、人間はそのときそのときの流行っている風潮と理屈に合わせ、世間体だけを気にする身勝手な生き物だ。

 生きていくために色々なことをしなければならない。自分の内心に問いかけている暇などあるものか。

 わたしは好きなことでなりわいをたてていきたい、好きなことをしていれば社会と繋がっていける、それで対価を得て人並みの生活を送っていければ御の字だ。若い時からそう思って生きてきた。
 大事なのはその経過だ。迷ったり修正したりして、生きてきた迂回路だ。その当時苦しかったことが、後で振り返ると実は一番幸福であった、などと気付くのもあり得る事態だ。大道は無門である。丹念に日々励んでいさえすれば通ずるものだ。
 学歴、職歴ではない。生きるということは会社・役所を終えても続くのだ。実は、その時点では一過程に過ぎない。徹底的に、その人個人の課題あるいは命題だ。

 子供にとって、色々な意味で激しい父親。まじめで自己表現の難しさに気付き、あらためて社会の厳しさに気圧されている息子たち。
 内弁慶ではあるが、平凡がいいのよ、とことあるごとに言う明朗な妻。毎朝、スーパーの安売りチラシに見入り、安くておいしい食事をつくってくれる。
 わたしには、何が足りないかは分かっている。どうしたら良いのかも分かっている。

 この季節、時には入道雲がムクムクあらわれて雷が発生しにわか雨が降る。しかし、夏からは群青の空が一番いい。
      
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