うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

わたしの育った田舎 2

2007年06月29日 04時56分47秒 | ランドスケープデザイン
前回の内容ではどうしても中途半端の感じがしますので、引き続き、「生活意識とデザインのかたち」の後段の文章を掲載したいと思う。スタイルがかたい言い回しで恐縮ものではあるが、できるだけ筆勢を生かし原文をそのままにした。気取ったりそっくり返ったりと、わたしにとって限りなく恥ずかしい思いもするのですが。
 皆さんが読んでみて、ごく普通にふるさとのこと、または農業・民俗学など、そして造園設計・ランドスケープ論、デザイン論について面白いと感じる方はなんでもコメントをお寄せください。
 全文公開は、前回に紹介したコンクール次第になります(??)。ここでは、次回の“わたしの育った田舎3”で終了予定です。

 《私がおくった昭和20年代から昭和30年代の生活風景を描写すると、農家の少年時代はこうであった。ここには日々の暮らしの原像がある。山間の地にあってそれぞれの家庭ではいつも子供は家族、親の顔の見える距離でいっしょに生活して育った。子供の遊びと言えば朝から晩まで山野を駆けずりまわっている。そこには豊饒な自然と沃野からの恵みと、継ぎあてをした粗末な衣服、好き嫌いでもなくおいしいまずいなどという食味ではなく体力をつける意味の簡素な食事、ゴミを出さず物を使い廻しする無駄のない生活、朴訥な人情とわかりやすく目に見える質素な生活形態の暮らしの繰り返しがある。
 このような農民の文字通り土着的な日常の暮らしの中で、仕事がつらい、体がきつい、好きなことができず不自由だと、当時私は内心思っていたが、しかし今となれば逆の意味合いで楽をする、自由という物事をどうとらえ、それに対しどう対処することであるかがよく分かるというものだ。生きていくことは生存感覚そのものだ。そのうえで身心とも自由な時間が持てることが真の生活だ。物質的に豊かなことは必ずしも幸せとは限らない。
 いったいにして東北の貧しい山国の農村では、春夏秋冬の季節と自然環境のもたらす生活は自然の気候、風土に左右されて成り立っており、その素朴な生活の態様はものを捨てず循環させて再利用し合理的なものである。お天道様を相手に過酷な農業労働を厭わず、またその苦労話をしない人達がいる。他人のせいにせず忍耐を美徳とした、その集合が村落共同体である。
 揺籃期を文字の世界と無文字の世界とに住む集落の人々にかこまれこのように育った少年は、当時、日本の農村の社会構造のなかで名利栄達をもとめるようにはならない。むしろ、そのトラウマをも含めた少年時代の原体験を体験に終わらせず経験と言う生きた知識に昇華させていくべく彼の十字架を背負ってゆかねばならない。たとえば、山河を復元させるという視点である。》
      
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わたしの育った田舎

2007年06月25日 06時18分45秒 | ランドスケープデザイン
時々

 ≪朝起きると子供たちは農家の広い庭の掃除をおこない、各部屋の雨戸を開けたてて、縁側などの板敷きの床の雑巾がけをする。家畜の世話は、毎日人間と同じように二度三度牛に飼い葉を与えたり水を足したり敷き藁を取り替えたり世話をする。にわとり、うさぎにもえさをやる。乳牛を飼っていた頃は、素手で牛乳をしぼったのち原乳を井戸水の中で攪拌冷却して、ステンレス製で円筒状の集乳缶に詰め毎朝集荷場所に自転車で運ぶ。こういう作業は家族の手の空いている者の役割である。炊事の準備は祖母と母がかまどで薪を燃やし釜でご飯を炊いている。燃料である山から集めた薪(タキギ)は木小屋(キゴヤ)に積み重ねてある。
 野菜を裁板(サイバン・マナ板)の上できざみ味噌汁を手際良く作っていく。おかずは軒先とか柱につるしてある乾物を取り込み、野菜や魚を別棟になっている漬物小屋の大きな樽から取り出す。飲み水はあらかじめ井戸から汲み上げて台所の大きな水甕(ミズガメ)に満たしてあり、使うたびにひしゃくですくって鍋、釜にいれる。食事の支度がそろうと、早起きし野外で牛に与える青草刈りなどの朝仕事をこなしている父はそのままの衣服で居間に戻り、やおらに家族全員ともども集まって、箱膳(ハコゼン)なり飯台(ハンダイ・テーブル)をかこんでいる。
冬の寒気厳しい朝は庭の雪かきを行い、結氷したり凍結した水まわりには沸かしたばかりのお湯をかけて通水させあらかじめ一日の準備をする。寒い季節には、いつもは農家独特の天井のない居間の高い梁から鍋をぶら下げて煮炊きしている鋳物の自在鉤(ジザイカギ)を外し、囲炉裏端(イロリバタ)に炬燵がけをし食卓をかこむ。
 顔を洗った子供たちはアルマイトの弁当箱を持ち、近所の仲間たちと歩いたり自転車で学校へ行く。高校は遠いので、雨とか雪のときは女性車掌が添乗しているボンネットバスに乗る。下校後、農作業の忙しい時は子供たちも田畑へ親の手伝いに直行する。また当時の家庭の多くは子沢山であり、上の子供は兄弟姉妹で子守の役割をになう。
 一方、野良(ノラ)に出た親たちは正午のお寺の梵鐘が鳴るまで、こやしのにおいのする耕作地、畑で代赦色(タイシャイロ)の土くれを相手に汗水をたらし働く。昼食はいったん家庭に戻ってとり食後昼寝をし午後一時すぎにまた畑に戻る。しかし山仕事、田んぼの農繁期には白米版を入れたお鉢(ハチ)やお櫃(ヒツ)、味噌田楽(ミソデンガク)のお握りや曲げわっぱの弁当箱と、おかずに魚の煮付けと自家製の漬物を持参する。作業の休息時、冬などの寒い時期は手近かに落ちている枯れ杉葉、枯れ木などの粗朶(ソダ)を集めたり、雑穀のまめ殻などで火をおこし焚き火で暖をとる。田畑から帰った夕刻は、家族で親子ともども手分けしてせわしなく立ち働き、食事の準備、家畜の世話とマキを割り風呂を沸かす。夕餉(ユウゲ)後は、家族団欒で白黒テレビを見て過ごし戸外のうす暗い風呂に入り寝床にもぐりこむ。養蚕とか葉たばこの農繁期は夜なべ仕事になる。農作業の忙しい季節は家族総出である。集落内で人手の足りない家へは助っ人(スケット)で行く。外が雨でも屋内で作業がある。一年を通じて祝祭日も休日もない。合い間に家族が一緒に休むとすれば冠婚葬祭のとき、旧盆、正月(新、旧)の日ぐらいである。≫


 これは3年前の3月にまとめた《緑の仕事》の一節である。400字詰め原稿用紙換算200枚ほど。わたしが、数年がかりで今まで生きてきた道と造園設計の仕事を<自分史的>に振り返ってみたもの。その中の“生活意識とデザインのかたち”の章であるが、時代背景は昭和30年代後半、東京オリンピック開催直前の東北の農家の生活を思い出したものである。わが家は家族みんながそろっているし、質朴にけなげにも生きていた。これはわたしの中学生時代。しかし、なんとまあ、古風な世界であることか。単語も死語になりつつあり、語彙も意味不明。近頃の若い人には理解不能かもしれない。
 わたしの周囲の人たちに読んでもらったら、あきれられたり感心したりしたものだ。
 これは、たまたまある出版社のコンテストに出したら三次選考まで行った。ただし、意外なことに20歳代の知人には大歓迎であった。面白い話、特に読書習慣のない連中にだ。

 この冊子はぐちゃぐちゃになっていた本、書類の山の中からやっとこさ見付け出したものである。たまたま、別件で福岡県の北九州市役所から郵便があり、この9月締め切りで<自分史コンクール>があるそうで、実は応募しようかと考えている。

 なお、詳細は下記のH・P内のサイト内検索欄からお入りください。
     北九州市自分史文学賞

      
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そして、五島美術館・蒼海 副島種臣展へ

2007年06月19日 06時46分36秒 | わたしの日常です。
おとといは忙しい日曜日。4時起き。天気は晴れそう。にぎやかなすずめ、せわしなく子供へえさを運ぶつばめ。清澄な音律を奏でるウグイス。そして時々は不気味なキジバトの濁音の低い鳴き声が聞こえてくる。ここは周囲をみどりに囲まれた住宅地だ。
 もうすぐ夏至だ。

 それに反して、わたしの今日の一日は一心不乱の日だ。05:00から06:00間で受験テキストを読む。この4,5日間でやっと完了。ほかは公式ガイドブックにざあっと目をとおす。なあんだこれから手を付けたら分かりやすかったのに、いつも試験勉強はモチベーション(なんとまあ、今風で格好いい言い方!)を上げ集中力を高めるのにうまくいかない(怠け心をしつけるのに苦労する?)、わたしの場合はいつも、問題集中心の実戦型だ。今日は2級CAD利用技術者試験の日である。
 これは、後で知ったのだが60点満点の42点が合否のボーダーラインらしい。わたしの予想ではなんともいえない。60問60分の即答式でもあったので時間もなかった。

 08:35に家を出て家内に駅まで送ってもらう。会場のヒューマンアカデミー千葉校に10:00に着く。11:30に終了、知り合いとだべり、その後、千葉駅コンコースにある日赤の献血コーナーに向かう。400cc献血、わたしにとって毎度のことであり、要請のはがきが数日前に来ていた。ひょっとしたらと思って献血手帳を見たら、なんと今回で25回目である。40分ほどで終えた。次いで千葉駅構内にあるマロンドに行き、今日は特売日の1ケ¥70のアンパンなどをしこたま買い占める、合計¥1,076なり。
 それから、総武快速線に乗り品川へ、大井町で東急線に乗り換えて上野毛駅に着いたのが15:00頃か。住宅街を抜けて目指すは五島美術館だ。
 今日は副島種臣の書の展示の最終日だ。生地である佐賀県佐賀市以外でこんなにまとまって見られるのは初めてらしい。何がいいのか、その闊達さがいいのだろう、しかしわたしにとって今は情けないことに、ほかの参観者のようには堪能する精神的ないとまがない。余技の書が、本業以外に優れているとはどういうことだろうか。表現という芸術と、政治という実人生をかけた生々しい行動の違いか。副島種臣は明治の元勲のなかでも後半の人生は失意の生き方を送ったのである。
 日本庭園も見る。電鉄系のものと思わず比べてしまう。急斜面の敷地にはやたらに仏像・石像・五重塔・灯篭などの石造物が多い。はっきり言ってキッチュである。争闘の人生を送った創業者の五島慶太が晩年になって仏の世界に彼岸を見ようとしたのか。管理面は言うまでもないが、やはり、東武グループの根津美術館の方が庭園の完成度が高い。
 16:00頃品川駅を発って帰宅は18:45になる。
      

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秋艸道人の和歌--わ

2007年06月14日 04時45分33秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

      東大寺にて
        いくとせのひとのちからをささげこし
         おほきほとけは
          あふぐべきかな

        うちあふぐ
         のきのくまわのさしひぢき
          まそほはだらにはるびさしたり

      會津八一:『山光集』所収、大仏賛歌
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こころにナイフをしのばせて

2007年06月10日 07時59分19秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
先日のテレビで、神戸の酒鬼薔薇事件と似た事件が昔もあったとして07:00から1時間放映された。
 【テレビ朝日;6/2 特捜!「もう一つの酒鬼薔薇事件」】

 テレビではドラマ形式で進行するが、舌足らずな内容に終始した。再度、放送枠を十分にとり放送してもらいたいものだ。残念な話である。
 時代は70年安保をひかえた大学紛争が激しい、東大の安田講堂に機動隊が導入された頃。昭和44年、1969年 4月23日午後。場所は神奈川県川崎市鷺沼付近、東名川崎IC近くの私立サレジオ高校周辺で高1の同級生が同じ生徒を殺害したもの。首をナイフで切り落とした残虐な事件である。
 今まで、当時の少年法により具体的な動機、犯意から詳細な事件内容、そしてその後の犯人の経過が明らかにされないままで来た。全貌が公表されないでいたのだ。
 事件後の被害者・加賀美家の家族のズタズタにされた生活、人生はわたしにとって想像を絶するものだ。あまりの残酷さに母親は精神錯乱から記憶喪失になり、父親は家族を守るよすがにするために会社をやめて珈琲店を開業する。唯一の妹はリストカットを繰り返す私生活を送り、紆余曲折の生き方を強いられる。
 それに反して、その後少年Aは少年院、医療少年院を出て社会復帰する。「更生」し、前科も残らない。姓を変え成長して有名私立大学法学部に進む。今は東京郊外の地方の名士として弁護士事務所を4階建て自社ビルにて開業している。社会正義を標榜する職業に就いているのだ。初めから終わりまで、一切、直接の謝罪はなし。当初約束した、慰謝料720万円もほんの一部しか払わずのうのうとこの社会で生きている。
 わたしは昨年8月刊行の、「こころにナイフをしのばせて」-奥野修司・文芸春秋刊- を書評誌で知り、あまりの酸鼻、無常さに一気に読んだものだ。この本は家内にも薦めた。肉親の情のやるせなさに打たれたのだ。

 最後に一言。この奥野修司氏の被害者家族への困難なインタビューを中心にまとめた、文章・内容・構成の才能に賛辞を送りたい。一見地味な語り口のようであるが、難しい言葉、巧みな言い回しではなく、真摯な取材に裏打ちされた平易な文章力に脱帽である。力量はあり、わたしは知らなかったが、以前に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した経歴の持ち主である。
     
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秋艸道人の和歌--を

2007年06月09日 08時34分25秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

       東大寺にて
         いくとせのひとのちからをささげこし
          おほきほとけはあふぐべきかな

         うちあふぐのきのくまわのさしひぢき
          まそほはだらに
           はるびさしたり

       會津八一:『山光集』所収、大仏賛歌
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秋艸道人の和歌--ぬ

2007年06月08日 05時13分50秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

       東大寺にて
        あめつちをしらすみほとけとこしえに
         さかえむくにとしきませるかも

        くにのむたてらはさかえむてらのむた
         くにさかえむとのらせけむかも

       會津八一:『山光集』所収、大仏賛歌
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秋艸道人の和歌--り

2007年06月06日 05時07分10秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

       東大寺にて
           みほとけの
            うてなのはすのかがよひに
             うかぶ三千だいせんせかい

           いちいちの
            しやかぞいませるせんえうの
             はちすのうへにたかしらすかも

       會津八一:『山光集』所収、大仏賛歌
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とんぼ返りで盛岡へ

2007年06月02日 07時49分48秒 | 地方・故郷・方言
先日の日曜日。
 今日はなんとか天気は良さそうだ。快晴の予感がする。
 地元の駅を特急しおさい2号 06:19で、東京駅は07:17着で東北新幹線ではやて25号 07:56 に乗り換える。あらかじめ指定席券は押さえてある。岩手県の盛岡駅着 10:40になる。一枚厚着をしてきたのだが、さすがにやや寒い。近くの ホテルの結婚式場(盛岡メトロポリタンホテルWING) に11:00頃に着く。

 結婚式は予定を10分近くおくれて15:40 に終了する。指定席が取れていなかったので急ぎ「みどりの窓口」に駆けつける。そこで係員に急かされ、出発のアナウンスを聞きながら盛岡駅始発のやまびこ62号 16:09 に乗り込み、空席を車両を移動しながら見つけてなんとかすわる。土産を買う時間もない。<冷麺>も<まるごとリンゴ>も<餅菓子>も買えずじまい。そう言えば、宮城県の<小牛田饅頭>も一ノ関の<胡麻摺り団子>も買わずじまい。
 東京駅には19:24 に到着 。やや余裕を持って乗り換えて、始発の特急しおさい13号 20:10にすわることができて、やっと21:09八街駅に帰り着いた。
 この日、所要12時間半の内、8時間は車中移動であった。これは先立つものと、JR東日本の‘大人の休日倶楽部’「一日乗り放題パス」の利用によるものである。
 なんだかわたしには、体そのものが無骨な棒になり単純に時間移動したような架空のもののような感じがする。この旅行では、帰郷時にかつてあった旅情と感慨は無縁なものになった。

 教会式のセレモニーでは、賛美歌斉唱とともに、牧師の東北訛りのイエス・キリストの旧約聖書の言葉の読み上げに内心は微苦笑であった。“うん、姪は目に涙を浮かべ本当に嬉しそうだ、心から良かったな、だって、普通は緊張気味で終始する筈だものとうなずく”、“しかしそうだな、こういうふうに時代はかわるのだな”、とも。
 つづいて、披露宴が始まり、会場は盛り上がっていく。地元が多い招待客たちのメッセージ・挨拶が進行し、ホテルの演出であろう地元、唄と太鼓からなる遠い郷愁を感じさせる「盛岡さんさ踊り」で宴の締めに近づく。

 そんな光景を見つつ思う。
 百年以上も前に戊辰戦争後の薩長の明治政府からは、「白河以北は、ひと山十文」と嘲りの言葉を言われたのだが、今でもみちのく、東北地方ではおとなしい人々が多い。わたしには昨年来、仕事上で経験している西日本の大阪の人間の腹蔵のない物言いと積極性とか、自分以外の人間は競争相手という福岡県人の徹底した負けず嫌いの多い個人主義には、索漠とした思いを感じさせたもの。人情味が皆無である。それは生存競争の激しさゆえか。この県は成功した有名人も多いが、殺伐とした事件、凶悪な殺人犯罪の発生も多い。
 以前、このブログの、4/10.12の『壬生義士伝の暗さ』、『ふるさとと自立』で触れているが、わたしはつくづくその土地の風土と県民性を感じる。岩手県人が他県の人達からしばしば言われている牧歌的な性質は、実にやむにやまれないところから来ている。ここ北東北(青森・秋田・岩手)は長い冬の寒さ、積雪地帯で土地が肥えている訳でもなく、その厳しい自然に耐える性格をつくってきた。人の往来の少なさ、人事の交遊の貧しさは他人に対してやさしくなる。それは争いを避ける温和な性格をつくるのだ。
 残念なことに、今回は性急で殺風景な道中ではあったがあらためてそんなことを思った。
      
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