うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

楡周平の本を

2007年04月29日 07時35分14秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
今日は連休の2日目、天気は晴れ、野外は青葉繁れる爽快な季節。
 この期間、核家族の若い夫婦の家庭は大変だ。あっちこっちへ家族サービスで忙しい。今の家庭は子供中心だからだ。
 世間はそのようである。うら悲しいおじさんはどうするか。その辺を一人うろちょろするか、金もないし相手もいないし。
 あるいは、猫の額ほどの庭に出て草木の様子をながめるか。蠢きはじめた小さな虫たちを観察するか。そろそろ蝶々もトンボも来ている。それとも、のんびりベッドに横たわりながら、近所の生活音にまぎれつつも野鳥の鳴き声に耳をそばだてて、合い間の静寂を楽しもうとするか。 
 前文同様にして、以下もよしなしごとを綴る。

 ここでわたしの読書傾向とはかけはなれるが、ミステリー作家を紹介する。
 楡周平と言う作家である。今日の讀賣新聞、‘本よみうり堂’著者来店にインタビュー記事が掲載されている。「陪審法廷」(講談社・¥1,700.)という新作である。楡周平は1996年に国際謀略小説でデビューしそれ以来、今までプライベートは伏せてきていたのだが、この記事では意外なことに顔写真入りだ。以前、「週刊新潮(?)」に家電流通業界の小説を連載していた。
 経歴では、父親は外国船員で慶応大学を卒業後、外資系の会社に勤めたとある。

 わたしの育った田舎は山峡の町であり、当時は人口一万八千人程度の炭焼き・養蚕・葉タバコ(松川葉)・ササニシキの稲作で生計を立てる純然たる専業農家の集落になる。現在はJR線で東北本線と大船渡線の中間に位置し、あのフカヒレで有名になった遠洋魚業の宮城県気仙沼港と、どちらにも今ではクルマで大体30分以内で行ける。
 情けない話になるのだが、わが町の昨今は、最近の新聞・週刊誌にも取り上げられ財政破綻の町として県内外で知られてしまった、そしてそれを理由に昨年の一関市との合併時にもはじかれた。
 それでも県立高校があり、初期の頃は普通科に加えて全国でも珍しいタバコ科を設置し最盛期には全校生徒300人余りの規模であった。(わたしたちの在校時代、日本一小さな高校と言われた)しかし時代の流れで来年3月を期し近所の高校に統合が完了。つまり、母校がなくなるのだ。
 世の中は変わるもの、人生は様々、所詮人間は勝手な生きもの、喜怒哀楽のうち、良いことは覚えておくことにして悪いことはすぐ忘れるようにしよう。

 実は、楡周平がこの高校の出身になる。わたしの数年、後輩にあたる。むろん、全然分野が違うので、面識はない。
 まあ、その世界ではベストセラー作家であり、なにかの機会で書店に立ち寄ったら、店先で平積みしていると思われるので手にとって見てください。
    
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執筆論・谷沢永一はどんな人?

2007年04月28日 05時15分26秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
先日、谷沢永一の‘執筆論’-東洋経済新報社刊、を読んだ。結構、錯綜した叙述であり難解なことを材料にしているのにあっさり読んだ。
 ところで、谷沢永一はどんな人?

 この本の腰巻に
  稀代の著述家、
 七十年の軌跡

二百冊を越える著作活動を生み出してきた
  企画の視点と書く技術

 とあり、まことに持ってわかり易く明快な説明文である。
 齢八十近く、大阪市の人。関西大学名誉教授であり専門は日本近代文学・書誌学とある。斯界では知る人ぞ知る論争好きな御仁である。しこうして、気取りもなく著作物ともども上品さにはほど遠い。わたしもせっかくお金を出して買ったからにはあまり厳しくなれないのだが、一言で短所を挙げるならば、中身のない人という印象を与えるのだ。情報の蓄積と整理能力と的確な判断力は現代の論壇とかではすごいものであろうが、多作であるのに著作傾向にオリジナルなものが見当たらない。一所懸命に 方法論だけを数多く紡いできたように見受けられる。
 谷沢永一には身近なものを偏愛するところがあり、開高健と司馬遼太郎を高く評価している。わたしのこだわりで言うと、開高健の詩魂が表出した小説、エッセィはよしとするが、しかし司馬遼太郎の小説と言うと全部が全部、歴史小説になるのだがその歴史観に物足りないものを感じている。もっとはっきり言うと生身の人間が描かれていないとおもう。日本経済の高度成長期からバブル崩壊前後に日本人に好まれてベストセラーになっているが、英雄譚のストーリーではなくもうちょっと小説のフレーム作りに苦心していただきたかったとおもう。テーマが情念に流されていてほんの日常の瑣末事、平凡な人たちの表情が欠け落ちている。まあ、司馬遼太郎を批判すると反発する人が多くいるであろうが。

 戦後日本の出版界では、十数年前まで、教育界・文学界・実業界・宗教界には立派な人生を送り成功した方々が、社会に対し啓発的であり啓蒙的な内容の本を若い人向けに世に送り出したものである。最近、谷沢永一は、そういう役回りをさせられているようだ。一般向きに珍しくよく売れた、‘人間通’などがそうである。

 しかしそれでもわからない、一体全体、谷沢永一とはどんな人?
 キャラクターの面白さがそのまま著作物に出ている?、いえいえ世間はそんなふうに甘くは見ない。この人を理解するには、ご自身の性格とともに大阪人特有の得手勝手な人間性、つまり対社会的な距離感がキーワードになる。余計なことを言わせていただくと、後世の評価(?)が難しい分類に入るだろう。
 しかしながら、困ったことではあるが、わたしはその語り口と切り口に引かれ、またこの人の本を読むのでしょう。
      
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凶悪-ある死刑囚の告発を読む

2007年04月24日 11時30分21秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
‘凶悪-ある死刑囚の告発’を読む。本を開いたとたんにあっという間に読みふけってしまった。本当に良くないことだが、ほかの作業を打っちゃっている。
 これは、2つの殺人事件を起こし既に東京高裁で控訴棄却になり死刑が確定した元暴力団組長、後藤良次氏の告発を「新潮45」編集部がまとめたもの。
 茨城県日立市の不動産ブローカーである、“先生”が主導した約10年前からの一ダースにもなる殺人事件を告発したケースである。世間から漠然とした疑惑をもたれつつも、なぜか、これは事件として警察の捜査をたくみに逃れて立件されずにいたのだ。
 小菅にある拘置所から「新潮45」編集部あてにおととしの春に告発取材の依頼があった。それをまとめた記事がその年の10月に雑誌「新潮45」に掲載し、続いて茨城県警察捜査一課に上申書を提出し受理された。やっと、告発に至る。そしてそれからは捜査当局は証拠固めに難航して、ほぼ一年たってから、そのうちのひとつ「カーテン屋保険金殺人事件」で、昨年11月に被害者家族4人、12月に“先生”がやっと逮捕された。
 (中略)

 まるで推理小説的な展開ではあるが、今現在、それとは別件で北茨城市の“先生”所有の原野を不動産詐取目的の「生き埋め事件」で捜査員40名と重機をもちいて捜索中である。
 ところで、この“先生”は現在57歳であるが、わたしには『団塊の世代』の特徴が見えてしょうがない。犯罪の発想、態様がそうだ。何事も政治的に見て、(政治第一だからと)なんでも理解できると思い込み、融通無碍になんにでも興味を示し口を出す。そしてなにか問題が起きると良くも悪くも極端な方向に走る。当然なことに下の世代に煙たがられているのに気付かないのだ。
 犯罪の時代性とでも言うのか、そういう突拍子もないことを感じた。

 閑話休題。
 かつて、わたしは過去に在社中に千葉県鴨川市のS元市議会議長の贈収賄事件に間接的に関わったことがある。千葉県警のA刑事が場所を変えおこなう事情聴取、捜索に対面させられた。この件について、わたしは業務上もあり社内向けに小レポートを作っていたのだが、総務部長がそれを事前に提出していたのである。その時に言われた、「あなたには、調査能力がある」とのほめ言葉がわたしの中に妙に残っている。
 この事件は地元の政界、建設業界では知れわたっていた。犯罪内容と対象も多方面にわたっていたが、当社は約3億円の被害をこうむった。S被告の身柄拘束、つづいて刑事起訴されたのでわたしは千葉地裁に事件の全貌を求めて公判ごとに通った。わたしの裁判所の印象としては、S被告の入廷時の腰縄手錠のすがた、その表情に異様な感情を覚えたし、そこでは生々しい犯罪の具体的な事実が出されるのだが進行が早くてメモしきれない。不動産がらみの悪の商売のからくりが明らかになるのだ。さすがに、そのときには速記者の必要性を感じたものである。実は、社内的にこのことは社長とわたしだけの了解事項であり、むろん、先々の損害賠償請求の民事訴訟をも視野に入れていた。(しかし、のちに未決囚としてあっけなく病死する)
 それゆえに、持ち前の探究心と好奇心旺盛なわたしの性分もあり、刑法、裁判には相当詳しくなったものである。

 いずれにしても、この事案は社会の底流としてバブル景気に端を発するものとおもわれる。事実は小説より奇なり、とは全くその通りである。
 今まで知らない内に殺人犯罪がおこなわれ、“先生”がこの事件を商売としてひそかに終息させて来た。これから、警察当局による社会の暗部の解明を期待したい。今後の展開によってはマスコミにとってもそうだが、連続殺人として大事件となるに違いない。
         

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本をさがすには

2007年04月23日 18時28分19秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
この間、本をはじめてパソコンにて手配した。色々調べた結果、選んだのは「BK1」というサイトである。
 早速頼んでおいた‘凶悪-ある死刑囚の告発---新潮社’と、書店では現在絶版で在庫がないと言われあきらめかけていた、‘蕪村書簡集---岩波文庫’の2冊合計¥2,310.が2日で届いた。これは、きわめてスムーズで効率が良い。
 このシステムは不在でもいい宅配メール便、後払いでもOKであり、近所のコンビニで支払う。¥1,500.以上を購入すると、送料がタダである。手配日程などはその都度メール送信されてくる(この業界、Amazon.co.jpなども同様のようです)。
メリットとしては、次のとおりです。
 ・ない本を探す。
⇒書店の対応もあまり期待できない。また、出版社にもない場合がある。そのときには都内の神田の本屋街をのぞけばあるのですが、それも大変だ。
 ・早く読みたい。
⇒書店に並べていない場合は東販・日販の流通ルートで取り寄せになるが、通常、2週間はかかる。
 ・書店に行くひまがない。
⇒時間も交通費もかる。ただし、手にとって見たい時は別である。
 ・安く買いたい。
⇒新刊は無理であるが、ほかにまとめ買いすると割引になる場合がある。(それでも安く買いたい場合は、ちょっといじましく手間暇がかかるが、チケット店で図書券を買い書店での支払いに充てる。ほぼ15%引きぐらいか)

 古本屋とか、技術、学術書・古文書などの入手方法もあるが、本好きのわたしにしてみれば、まだまだ、完璧じゃあない部分がある。WEB検索と言っても、なんてったって、足で歩いて探した体験上の情報源があるもの。
 いずれ、更新中のわたしのホームページのリンク集でも、今後、<本>に特化したサイトをつくる予定である。これはサイトを探しそのコンテンツを吟味しコツコツつくり上げたもので、自己PRになるが、現在でも植物・花ほかについて厖大な内容である。
 エンサイクロペディアとでも言おうか、データベースとでも言おうか、はたまた暮らしの手帖とでも言おうか(!?!?!)。
その際は、どうぞ、時間に余裕を持ってご覧になっていただきたい。

うざね博士のグリーンワークス・《リンク集》

      
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リンゴの木に蕾がついた

2007年04月16日 10時34分42秒 | わたしの日常です。
この前に気付いたのだけれども、初めてわが家の庭のリンゴの木に蕾がついた。咲くのはいつか。そこは既にして、ロシア民謡“カチューシャ”の世界。
 大きさはサインペンぐらいの太さ、背丈1.7メートル。たったの2箇所ですが、わたしはとてもうきうきしている。リンゴの木は花もいいし、実もいい。北国生まれのわたしにとって、明るく爽やか風情を見せてくれる。それ以来、和室のほうに回りガラス戸越しになんどもいまかいまかと眺めている。庭に出ては近づきためつすがめつ撫でて、しげしげとその蕾の開き具合を見つめている。咲くのはいつかいつか、と心待ち状態。
 咲いたら咲いたで、きっと、誰彼なしに挨拶代わりに吹聴してまわるのだろう、わたしのことだから。
 
 手元の‘庭弄り日誌’を見ると、はっきりしないが、東金緑花木センターで買い求めて平成8年頃植えたものらしい。10年目になる。異なる品種でないとリンゴは結実しないので、津軽とふじを1本づつ離して植えたのだがどちらか1本は既に枯れていたもの。

 ところで、わたしがカラオケでよく歌う十八番は、美空ひばりの“津軽のふるさと”と“りんご追分”である。むろん、上手下手は関知しない。ギャラリーがあっけにとられている内に歌ってしまうのだ。(毎回、東北訛りの台詞だけ褒められて、複雑な気分ではある。)
     
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硫黄島の星条旗を読む

2007年04月14日 08時06分23秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
先日来買ってきた本、「硫黄島の星条旗」を読む。
 これは去年暮れに公開になった太平洋戦争の映画“父親たちの硫黄島”の原作であるが、やはりと思う部分がある。この本の翻訳のよしあしはさておいて、内容の精粗、構成のまずさ、語彙不足の問題があるにしても、ここでは圧倒的に敬愛する父親への真摯な肉親の情があふれた力作である。著者のJ・ブラッドリー氏は滞日経験もあり、親日家なのである。戦争当時のアメリカ社会はもっともっと対日感情が悪かったのではないか、そしてそれは現在でも底流として続いているとおもう。二部作のうち日本公開は好評でも、この第一作の“父親たちの硫黄島”でのアメリカでの不評なのはうなづける話だ。昨今のご時世ではイラク問題でにっちもさっちもいかない背景があるにしても、である。
 読み終えて感じたのは、この日本ではこのようなドキュメンタリーノベルがあるのだろうか、と言うことである。日々の目前の世事に追われ、熱しやすくさめやすい国民性ではこのような粘着性のある著作物は無理か。大局観に立って見るとその人における人生のなかで何が大事か、軽重の度合いがわかるというのに。
 それはたとえば具体的には、旧日本軍関係とか、公的な防衛省編纂の戦略戦史物・戦記物ではなく、それを貫く五重塔建築の芯柱ごときもの、個人史的なものである。

 わたしの場合は父が軍用馬の調達の役目があり、陸軍の懲役についていなかったと聞かされている。幼い記憶でも父に連れられて行った草競馬・挽曵競馬、馬のセリなどの光景が脳裏にある。農業のかたわら馬喰(ばくろう)をしていたのだ。終戦の年、ごくありふれた地方都市である近くの一関市街には、サイパンあたりから飛来したB29の空襲を受けた。ただ、こういうふうにそういう親の戦争体験を子の世代で情報収集、追跡し記録するという発想と創作形式があり得るか、とういことである。

 実は、わたしには両親がいない。わたしが17歳の時と30歳前に亡くなっている。だから喪ったものの大事さが少々わかる。どんな場合でも身近な死ほど、おののかせ心を揺さぶるものはない。
 ここで、わたしが気にするのはあまりにつらい戦争の実態だから誰にも言えず死ぬまで沈黙を守り墓場まで持っていくということに対してである。
 子供にとって、女親である母の場合は感情と体温でわかるものだが、男親である父の場合は行動とその記憶にしかない。軍役につき見聞きした、筆舌に尽くしがたいもの。特に、まるで阿鼻叫喚の地獄絵図、敵を殺し味方・仲間が殺される戦争の実体験がそうだと思う。
 多忙な日々の暮らしに流される中において家の祖先のルーツ探しもそうではあるが、やはり親たちの経験談はすべからく根掘り葉掘り聞くものと思える。子にとって、親の言葉にならない思いに対して大いに耳を傾けるものだ。
        
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ふるさとと自立

2007年04月12日 08時10分18秒 | 地方・故郷・方言
古里を出て今年で足かけ40年になる。当時はひとり、高卒で急行列車で12時間かかって上野駅に着いた。まだまだ、たかぶった気持ちをいだき、いわゆる青春の真っ只中であった。わたしの人生において上昇気流にいると素直に信じられた頃だ。
 先日、連絡があり、来月中旬過ぎに岩手県のわが田舎に、そして盛岡に行くことになった。

 帰郷は5年前、5月の連休以来だ。その時は子供たちが社会人になる前にひとつの節目と思って、家族全員、千葉の落花生やら枇杷羊羹、鯨のタレなどのお土産を山のように準備してクルマで帰った。二泊三日。農業を兼業している実家はもちろん、両隣り、本家、親戚2軒、高校時代の恩師(クラス担任・古文担当)を足早やに回ったものだ。それに観光で子供たちは嫌がったが、平泉にある中尊寺(数年内にユネスコの世界文化遺産に指定される見込み、多分)、と厳美渓(日本百景のひとつ)に行った。
 
 わたしは日本各地の色々な所にも行った。色々なことがあり、色々な人を見てきた。わたしの性分では、烏合の集を厭い付和雷同を嫌い、自らの思いと、頭で考え、生きてきた。出自・学歴・会社履歴よりも個人の能力とそこまでの経歴を重要視した。職業・専門技術/デザイン力・所帯・住む家もほぼ自前だ。しかし、どうも人間というものは生まれ育った場所で、親のやっていた職業を継ぐのが一番いいのではないかと思う。もう遅いのだけれども、10年ほど前からうすうす感じていた。

 朝まだき 醒めたしじまに 仏法僧
 日出でたり うぐいす鳴くや 群青

 次の帰郷は、還暦の60歳の歳祝いの時だろうか。
     
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壬生義士伝の暗さ

2007年04月10日 05時37分05秒 | 地方・故郷・方言
 昨日のNHK衛星第二放送で“壬生義士伝”の映画を見た。これは浅田次郎の原作である。くやしいのだけれど、この人の小説はやたらに泣かせるものが多い。この時代小説が数年前に週刊文春に連載されていた頃は毎回涙を流しながら読んでいた。(と言っても、仲間内では誰もわたしが普段から涙もろいということを信じてくれませんがね)
 ここでは、幕末の時代背景、新撰組の内側がまだまだ描写不足の感がある。たしかに、純朴と吝嗇と正義を体現した主人公の吉村貫一郎を演ずる中井貴一は熱演ものであろうが、わたしにとってもうひとつ食い足りない思いが残る。むしろそのなかでは、斉藤一役の佐藤浩市の演技がいい、そうあらためて感じた。
 
 特に感じたのは、シチュエーションだ。あの時代、南部藩内の窮状がかもしだす生活上の暗さだ。小説ではそれほど感じなかった。暗さと言っても、むろん昔の自然度の高い夜の闇のことではない。生活する環境の昏さと言い換えてもいい。度び重なる冷害(やませ)などの天災の被害を受けた飢饉による貧困、生活困窮。
 どこかで見たことがある。
 わたしの故郷は岩手県である。ただし江戸時代は仙台藩に属していた県南地方である。子供の時分には、太平洋戦争直後のひもじさがまだ残っていたようなのだ。実際にあった映画の舞台はそれからさかのぼっても100年弱前の年代だ。この映画のロケは京都と茨城県でおこなわれたとクレジットにあるが、わたしが見ても当地、盛岡周辺の情景としては少々希薄におもう。
 中井貴一は東北弁(南部訛り)を一生懸命になって覚えたようだ、他人を非難しないでものを言う言い方。あの語尾がはっきりせず、ためいき・あきらめ・哀願・悲痛なしゃべり口に、昔のことを思い浮かべた。
 あの暗さはどこから来るのだろう。
      
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投票日よりも、今日は釈迦誕生日

2007年04月09日 08時01分53秒 | わたしの日常です。
 昨日のこと。
 3時過ぎにケーブルテレビ会社の訪問を待って、ごろごろしてから外出。投票所に行き、いつまでも同じ人ではなあ、と新人の名前を書き投票箱へ入れる。おっ、と顔見知りの教育委員会の係員に軽く会釈して会場を出る。この日はどこでも公務員は総動員体制だ。この後、開票作業で今夜いっぱいかかるのだろう。
 わたしは献血と投票行動は20代から励行している。わが家では主人のわたしだけだ。献血は日本赤十字から手紙が来ると、必ず行く。今までにおよそ30数回に及ぶだろう。わたし自身の希少な性格もあるが(?)、日本人には少ないAB型のせいでもある。ところが、まだ他人から輸血してもらったことがない。
(翌日の新聞ではわが市が県内最低の投票率29%だそうだ。実は、わが家も25から50%を行き来している)

 それから地元のスーパーへ行き、買ったばかりのスラックスの裾上げをたのむ。¥250.。
 曇り空で夕方に近づいているが、よし、行ってみようと次に市指定のカタクリ群生地へ足をのばす。農道ともつかない田舎道を迷いながら辿る。前は3月23日に来た。既に花は終わったようだ。お目当ての‘カタクリ’は、実を結びはじめており所々に思い出したようにうつむいた濃紫色の花弁をつけているだけだ。
 前回とはちがって、今回は‘ヤブレガサ’とピンクの可憐な小花を持った‘たちつぼすみれ’が目立つ。山の盛り上がった中腹にある神社横の切土の崩壊地には、今年も‘ムラサキケマンソウ’がかたまって叢生している。昨年見つけたときに、この野草は市当局に保存をすべきだと話したものだ。

 家への帰り道に、里にあるアップダウンのきつい市道沿いの桜並木に廻る。そこはまるで、マイナーな二流映画の書割りだ。とはいえ、地元ではここしか花見の舞台はないのだ。人っ子一人いない坂道で、テングス病に罹っていたり、古木のように捻じ曲がった染井吉野からはホロホロと花びらが舞っている。なんだか、時間の止まった気配がする。

 そうだ、今日はお釈迦様の生まれた日だ。
     
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CADの勉強をするおじさん

2007年04月08日 07時29分43秒 | わたしの日常です。
 この1月から「建築CAD」を習いに学校に通っている。この講座も4月26日で修了である。費用は自己負担。この先には、6回の試験対策講座があり、5/21以降はAutodesk社のMaster2DDesign試験が、6/17には2級CAD利用技術者試験が待ち受けている。
 まるで強迫観念のようだ。わたしは今、大変だ、大変だとあせっている。わたしの面相は微苦笑から悲喜劇へと表情を変えているのだ。

 昨年12月、学校側のMさんからは、うかうかとしかし真剣に、わたしのような年齢の生徒もいるから大丈夫という言葉を真に受けて入ったら、同期15人ほどの生徒たちは推定20から30歳前半である。講師も30から40歳代である。
 世代のギャップどころではない。授業時間では、内容は頭を右から左にスルーして見事に忘れる。せいぜい、持って一日だけだ。キーボードとマウスの動きがモタモタして遅い。毎回、あせってばかりなのである。
 CADが世に出回り始めたのは15年ぐらい前になるだろうか。たしか、ITとかパソコンもそれほど流布していなかった頃である。わたしは建築計画・工事でも躯体工事、設備工事には必要でも、また土木の世界では測量がらみの造成計画図ではその必要性を認めたが、造園設計・ランドスケープの世界はFree handが全てなどと、自他共に確言し過去にあれほど見下していたのに。
 今はうらめしいし、うとましい。あの懐かしい手書きのドラフター世代は何処へ?

 作図過程の奇天烈な操作手順には驚くのだ。失礼を承知で喩えれば、子供の遊びの積み木細工と海岸ふちの砂遊びに似ている。なるほど、ゲーム感覚とはこのことである。
 多数のコマンド入力などとディスプレイの変換スピードはまったなしの領域だ。アメリカ仕込みのこの商品は全然、発想が違うのだ。さすがに、プラグマティズムの本家だ。
 しかし、2Dから3Dへの自動作成はすばらしい。

 今、部屋にこもって習熟の真っ最中、集中させるべく机上のノートパソコンと睨みあっているのだ。
 同憂の諸氏よ、どなたかご教示願う。

 花ほころび草木萌えいづる春だというのに、わたしは一体、何をしているのだろう。今、57歳の立派なおじさんなのに人生という道程のどの過程にいるのだろうか。
     
 いちおう、ゆきがかりとは思うのですが、学校を紹介します。
ちなみに、講師名は諸般の都合により略させていただきます(笑い)。個人情報保護法などは、わたしにとって面倒くせいや、どうせ、公私混同のわたしだもの。
ヒューマンアカデミー
〈つづく〉
        
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本好きのつぶやき

2007年04月07日 09時04分46秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
  先日のこと。わたしは都内駒込から、電車で区々と窓外の移り変わる桜の散る花びらなどの情景を見つつ、うつらうつらしてから、夕刻に千葉駅に廻る。
 そごうデパートの中のなじみの三省堂書店に手配していた本を受け取りに行った。全冊は揃っているかな、とおもい寄ったのだが、読者サービスが徹底して来たのか以前よりその入荷日数が早くなっている。若い人は知らないだろうが、わたしにとって神田神保町時代からの三省堂書店である。コンビニ並みの本を読まない書店員が多くいる、チェーン展開する最近の大型店舗とは訳がちがう。

  (マレー諸島〉上下         A・R・ウォーレス
  〈新しい国語表記ハンドブック〉  三省堂編修所
  〈執筆論〉              谷沢永一
  〈硫黄島の星条旗〉         J・ブラッドリー
  〈CAD利用技術者試験2級・基礎公式ガイドブック〉(社)コンピュータソフトウェア協会

 などの本である。このようにわたしの読書傾向は、分野にまとまりがない。以上をカード決済で、〆て¥10,338.也である。購入費用について、数年前の勤め人時代、ひどいときには毎月2~3万円支払っていた。当時は会社の経費と自分の業務担当意識でもって、半分以上は仕事関係の本(設計資料)も自腹で負担していた。無論、わたし自身がお仕着せ(?)を嫌がり好きな仕事には自ら負担する、という生来の天の邪鬼もはたらいている。おまけに本を借りて読むという行為がいじましくておもえてならない。そのくせ、どんどん他人には貸します。しかし半ば返却されない。これは悪口を承知で言うのだが、わたしの経験では特にサラリーマンがそうだった。
 というわけでもないが、わたしは昔から本を借りて読む図書館利用者を軽蔑している。本は身銭を切ってこそ、絵空事とも言えるだろうが、実はその人の人生・経験を追体験できるのだから・・・・・。

 しかし、読書と言うと一般的には(世間的には)長所のとらえ方をする向きがあるが、それにはわたしは賛成しない。外観からわからなくとも悪影響もあるのだ。
 数多く読めばいいってものでもない、むずかしい本を読めばいいってものでもない、偉い人の本を読めばいいってものでもない、読み方の問題だ。興味と主題あるいは問題意識かな、とおもう。また読めばいいってものでもない、本も読まず他人とも交流せずみずからの頭で思考力・想像力をキチンとはたらかせればいい。まあ、むずかしい限りではありますが・・・・・・・・。
 わたし自身はむしろ書痴であり、生活上は本道楽に属しているとおもっている。日常の暮らしの中では、ほかの事はさておいて何はなくともという、20歳代からの活字中毒だから。
      
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春雷

2007年04月05日 06時36分03秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
 
 
 4月4日。今日は昨日までと打って変わって、肌寒い。季節は変わり目。あしたは二十四節気で言えば“清明”。一年の内では世間と人事は変わりっぱなであり、時候はいまだ三寒四温の頃合いである。
 五時をまわるとそろそろうす暗くなってくる。雲行きが怪しい。来るな、来るなと思う間にしとしとと小雨になる。間歇的にどどっー、とにわか雨になった。やがて小降りになる。
 そのもの静かな合い間を縫うようにして、どどーんどしーん、どしーんと、と雷鳴が響く。2階の道路側に面した小窓は机と一緒になって小さく振動する。
 わたしは、この頃、ミニ書斎の簡素な机に向かって文章をまとめたり考え事をしている。だが、もやもやした頭も少しはメリハリがついた気がする。
 そうかそうか、これからは活発な季節だなあ。あれやこれや、自分にはこれしかないこれしかできない、などと考えているとなんだか消極的になってしまう。小さくまとまってしまう。交友範囲が狭くなってしまう。
 それでは駄目だ。

 これからは若葉萌えいずる浅黄の時季、青葉繁れる深緑の時節、とそんなふうにして生きとし生けるもの、森羅万象が一瀉千里に移りゆく。
 そういえば、今度の休みには満開だろうから“吉高の大桜”を見に行こう。
    
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青春残酷物語

2007年04月04日 01時31分04秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
 
  ♪貴方だけには言えない事がある
    それは死ぬまで言わない
    鳴り響くベルに消される
    窓越しの貴方のさよならの言葉
    傷つくことに気付かないままに
    暮らし続けたあの頃は
    今にして思えば楽しかったものね
    私は夢を追えないで
    一人今汽車にのる
    貴方は何も知らないままで
    この駅に立たずんでいる
    青春はいつも残酷なほどに
    美しいドラマの幕を下ろしてゆく
    
    体に宿した小さな
    貴方の命を抱きしめて見つめる
   貴方だけには言えない事がある
    それは死んでも言わない
     少年のかげりをの残したまま

    (作詞・作曲:谷村新司)
    
 いきなり歌詞を記したが、曲名は‘青春残酷物語’と言う。かつての松竹映画、大島渚監督のものとは異なる。あまり知られずにいる歌だ。
 わたしが天王州アイル内の会社に勤めていた頃に、業務部門を充実させようと職安に求人をかけたら応募してきた中年女性がいた。新入りだからと、食事に誘い、カラオケに行った時に彼女が歌った曲だ。海外旅行が好きで歳は40過ぎで独身、面接、採用はわたしがおこなったのだが、結果として仕事も出来ず、性格が好ましくなく配属替えもしたのだが1,2年しか在籍しなかったと思う。結果的に、わたしに女性を見る目がないことになり、しばらく自己嫌悪に陥った筈である。

 そのときに彼女が歌ったのがこれだ。そのとき彼女はぶっきらぼうに、これは谷村新司のそうあって欲しい願いを表現したもの、と言ったのでわたしは内心エッと感じた記憶がある。振り返ると、あれはむしろ彼女の未熟な恋愛経験をあらわしたものと思うのだ。
 ともあれ、谷村新司には雄大なもの、雄々しいもの、センチメンタルなもの、旅情ものなどがあるが、これは意外なジャンルだ。
    
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辛夷の木を切る

2007年04月03日 03時25分45秒 | わたしの日常です。
のち
 このあいだの日曜日、お昼時をはさんでわが家の辛夷の木を根元から切った。
 如何せん、庭が狭いのだ。この数年は大きくなり過ぎて家の中に日が当たらない、向かい側の隣家に落ち葉がいくのだ。このことは昨年末から家内に約束していたもの、今年の花が終わったら切ると(渋々、思い切って)。
 今年も壮麗なまでに花付きがよく、純白の花びらが早春の青空に映えてわたしの心も軽やかだったのに。実はこの樹木、背丈は既にわが家を越しているのだ。
 ちなみに記録のために測高器で測ると、
  H(高さ):7.55   C(幹廻り周):0.395   W(葉張り):2.30  (単位はメートル)

 平成3年の12月に引っ越して以来だから、18年と3ヶ月が経過したことになる。多分、住宅販売会社の方での植栽時点ではH:3.00 の筈であるから、随分伸びたもの。辛夷の木はこの地域の気候に合っているのだろう。植栽計画的には郷土樹種の代表選手だ。
 伐採時には家内も率先して手伝う。生木用の小鋸をもちいて、倒す方向をロープで誘導した。可燃ごみ用に、幹と枝を小刻みに切断したもの。最後に再萌芽防止のために、切り株に縦に挽き目を入れる。
 まあ、わたしはセミプロ。段取りよく進んで、想定どおりにうまくいった。2時間強で終了。

 翌日の朝、庭を見ているとメジロが2羽とヒヨドリが辛夷のあったあたりを怪訝そうにして飛び回っている。そうか、残念だなあ。スズメ、シジュウカラ、ジョウビタキ, ムクドリ, キジバトもそうだろうなあ。

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追憶の北海道・十勝川モール温泉

2007年04月02日 02時36分22秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

 ふりかえると、わたしにとって初めての北海道旅行は平成5年の5月である。
 道東、帯広市にある‘真鍋庭園’へ北方樹木とコニファー(球果樹木)を見学に行ったときになる。それはお客様の建築設計事務所、S氏を同伴してのもの。当時、担当していた《天王州アイルプロジュクト》関連の業務上の出張になる。全体として、こういう道行きは熊本2回、島根・岡山と和歌山の各1回、北海道2回に及ぶ。

 真鍋庭園の広い苗畑の一角には北国のモデル庭園をしつらえてある。季節は、内地から一ヶ月以上も遅い新緑が芽吹きエゾヤマザクラが満開の頃。ここでは日本の長野県の上高地と、敷地に接して流れる札内川河畔にしかない珍しいケショウヤナギ原生林も見た。
 S氏とは二人連れで、わたしにとってとても気の会うひとまわり上の先輩だ。いつも坊主頭で小柄なおとなしい性格、と言えるかもしれない。凛とした個性、わたしには上品な気持ちのいい人に感じられていた。生涯独身主義を貫いた。
 明日は札幌市内のホテルに宿泊予定。
 一日目は音更町の十勝川モール温泉の‘観月苑’に宿泊する。当時は夕食後、ホテル内のカラオケスナックに繰り出すのが常であった。その夜もいろいろ盛り上がり、中盤ほどにS氏が聞きなれない歌を歌った。八代亜紀の<花束(ブーケ)>である。

  
 ♪ひとり暮らしに慣れたのに
  愛も気にせず生きたのに
  罪な心が届けられ
  わたし女を思い出す

  こんなキザなことは
  あなたに違いない
  郵便受けにブーケを
  さして帰るなんて
  何を話すつもり
  あなたがわからない
  死んでもいいと泣くほど
  つらくさせておいて
  ひとり暮らしに慣れたのに
  愛も気にせず生きたのに
  罪な心が届けられ
  わたし女を思い出す

  時の流れだけが

   (作詞:阿久悠  作曲:服部克久)

 わたしには初めて聞く歌だ。八代亜紀のあの演歌調とはメロディがまったくちがいフォークぽいしっとりした曲だ。やたらだだ広い宴会場じみたスナックで、その女心の歌詞をSさんは澄んだ声で可憐に歌う。立教大学を出てすぐに志を立て直し東京農大農学部造園学科に学士入学、一度郷里の福岡で土木コンサルタントを自営していたらしい。所属の建築設計事務所のなかでは識見を持ち一目おかれた存在であった。

 わたしは41歳の生意気盛り、S氏はその4年後の一月に「死にたくない、死にたくない」と痛みを訴えながら病死した。
             
 
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