落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

あなたに会えてよかった

2008年06月09日 | movie
『ぐるりのこと。』

1993年、カナオ(リリー・フランキー)は恋人・翔子(木村多江)の妊娠を期に結婚。先輩(木村祐一)の紹介で法廷画家の職を得て結婚生活も順調と思われた矢先に、生まれたばかりの子どもが亡くなってしまう。喪失感から徐々に翔子は精神のバランスを崩し始めるが、カナオには傍についていてやる以外に何もできなかった。

実をいうとぐりは日本の現役映画監督では橋口亮輔がいちばん好きだ。ファンだといってまあまあ差支えないと思う。1993年のデビュー作『二十才の微熱』以来、自主制作時代の『夕べの秘密』も入れて全作(といってもたった5本だけど)を映画館でロードショー時に観ているから。
この作家ははっきりいえば決して器用な方ではないと思う。同じテーマでももっとうまくスマートに、万人受けする無難な商業映画にまとめられる作家は他にもゴロゴロいるだろう。でもこの人の良さは寡作であることも含めて、わかりやすくならないところをそのまま逃げずに映画に撮る、あえて不器用さを活かした姿勢にあるんじゃないかとぐりは勝手に思っている。ふつうはそういうことってなかなかできない。
しかしそれにしてもこの映画は凄い。素晴しい。前作『ハッシュ!』は橋口作品の最高傑作だと思ったけど、『ぐるり〜』はまたその上をいっている。しかも相当上に、思いっきり飛躍している。ブラボー。
これまでは自身の個人的背景の延長として同性愛とその周辺をモチーフにして来た監督だが、今作にはきれいさっぱりそれがなくなっている。匂いもカケラも残っていない。そこは大きな変転ではあるが、不器用さを何段階も醸成した語り口はこれまでの作風の延長でもあり、かつ何段階も先へ進んだ延長になっている。

観ていて何度も何度も涙が流れて止まらなくなった。帰りの電車の中でも、今これを書いている最中も、涙が止まらない。
悲しい話ではない。せつない話でもない。翔子とカナオは赤ん坊を亡くすけれど、赤ん坊には名前もないし、生きて画面に登場することもない。夫婦は子どもを失った悲しみよりも、その事実を受け入れることに逡巡し、孤独になっていく。ふたりの迷いの深さが、ただそれだけが、観ていて心に痛かった。苦しかった。翔子といっしょに、大声で泣きたかった。
橋口作品はこんな風にいつも、観る者の心を否応なしに裸にしていく。誰の心にもひっそりとしまいこまれた、未解決の棚上げ事項を全部ほどいて引きずり出して、感情を決壊させてしまう。観るたびにしまったやられた、と思うのだが、『ぐるり〜』では、人の人生に真の逃げ場など存在しないことを正面から突きつけられた気がした。

それにしても橋口作品のシナリオはリアルだ。噛みあわない心の微妙なすれ違いや欺瞞さえもまっすぐに正直に再現してあって、会話単体でも人間関係の多面性が如実に伝わるのに、またそれをじっくりと長廻しで誤摩化しなく撮るんだから、イヤでもリアルにならざるを得ない。
優柔不断なカナオを演じたリリー・フランキーも良い味出してたけど、木村多江の演技はまったく演技には見えなかった。凄かった。とくに精神的にだんだん壊れていくパートでは、ぐり自身の過去をそのまま撮影して見せられているような気分でマジでしんどかったです。
カナオの仕事が法廷画家で、90年代から現在までに実際に行われたさまざまな裁判をモデルにしたシーンが何度もあるので、登場人物がものすごく多いんだけど、ほとんどワンシーンだけのチョイ役にもビックリするような豪華キャストが勢揃いしていて「あ、ナニゲにこれって大作なのね」と思わさたりもしました。たとえば幼女誘拐殺人犯役に加瀬亮、その弁護人に光石研、売春事件の裁判官に田辺誠一、園児殺害事件の被害者遺族に横山めぐみ、加害者に片岡礼子、小学校乱入殺傷事件の犯人に新井浩文など。それぞれがほんの短いパートの出演にも関わらず、非常に印象的な演技をしていておもしろかった。
それ以外の登場人物も絶妙としかいいようのないキャスティングで脱帽。翔子の母を演じた倍賞美津子や兄嫁役の安藤玉恵、翔子の勤務先の後輩役・山中崇や、地裁詰めの報道局員役・八嶋智人などは、ちょっと他では観られないハマリようだったんじゃないかと思います。

橋口亮輔の映画は観るたびにほんとうにいい映画を観たという気持ちにさせられる。そしてまた新作が待ち遠しくなる。
たぶんまた何年も先のことになるんだろうけど、つくれる限りは心ゆくまでこだわり続けて、またいいものを観せてもらいたいです。
頑張ってください。



抱きしめたい

2008年06月09日 | movie
『休暇』

拘置所勤務の刑務官・平井(小林薫)は、見合いで知りあった美香(大塚寧々)との新婚旅行のため、死刑囚・金田(西島秀俊)の執行の“支え役”を願い出る。支え役には1週間の特別休暇が許される慣例になっていたからだった。

原作が短編なので、ストーリーはほんとうにこれだけである。
主人公と婚約者が出会って結婚を決め準備を進めていくプライベートなパートと、拘置所での淡々とした勤務を描いたパブリックなパートが、時制を異にしながら交互に描かれる。それぞれのパートには、平井という物静かな中年男性の主人公以外に関わりはない。美香の連れ子・達哉(宇都秀星)がじわじわと平井に懐いていく以外にドラマらしい展開は何もない。
平井本人が自ら感情を口にすることがまったくないせいもあり、初めは、彼がなぜわざわざ結婚直前に執行担当に名乗り出たのかわからない。上司(大杉漣)もそれを踏まえて彼を担当から外し、「そんなのに立ち会っちゃったら、どんな子が生まれるかわからないだろ」と新人(柏原収史)に説明する。
だがこのやりとりも含めて平井の同僚たちの会話が、公権力が人の生き死にを司る機関内部の微妙な空気を、さりげなくリアルに表現しているところに非常に説得力を感じる。慶事前に死刑に関わらない方がいいと考えたり、執行が決まった死刑囚にやさしくしたくなったり、同僚たちの素直な心理は安易に共感しやすい。
しかしそんな些末な感情論を挟もうと挟むまいと殺人は殺人だし、平井はこれまでずっとそういう機関で働いて、これからもその職で妻子を養っていくのだ。彼は誰もが後込みする支え役に名乗り出ることで、それまで長い間消化しきれなかった葛藤を捨て、自分の職務に、人生に、まっとうに向きあいたかったのではないだろうか。死にゆく人を抱きしめることで、これからともに生きていく家族をも全力で抱きしめることができるかもしれないと、彼は考えたのではないだろうか。

こんな言葉にしてしまうと陳腐な話だが、映画は実に真摯に丁寧に、死刑の現場をしっかりと描いている。
シナリオには無駄なものがいっさいないし、俳優の演技もこれ以上はとても望めない熱演だし、穏やかで控えめなカメラワークやカット割り、パートごとにコントラストの効いた精密な照明設計、到底つくりものとは思えないほどリアルな美術装飾、とにかく地味に徹した音響効果など細部の細部に至るまで、まったく妥協点というものが見受けられない。出来うる限りのことはすべて完全にやりきっている。素晴しい。
そしてそれは、それだけ「死刑」「命」というテーマの重さにそのまま繋がっている。昨今は簡単に人が病気になったり死んだりする子ども騙しのメロドラマが“涙の感動物語”などと謳われてもてはやされているけれど、ほんとうは人の命はそんな軽薄に語れるものではない。
この映画では、刑務官や死刑囚など当事者自身を等身大のひとりの人間として描くことで、近く導入される裁判員制度も含めて議論される死刑制度とそのほんとうの意味とを、観る者にまっすぐに問いかけている。そこに明確な答えはない。でも答えなどなくても、ごく当り前の真理を改めて問い直すことでみえてくる事実を確認するだけでも、この映画の意義は大きいと思う。

死刑囚を演じた西島秀俊の演技が素晴しかった。いい役者だとは思ってたけど、この役はものすごい当たり役でした。
というか、この映画の出演者は全員がこれまでにない当たり役だと思う。いちばんおいしかったのが西島秀俊ってだけのことかも。
きちんとした作品だけにデジタル撮影だったのが惜しまれる。これだけ重厚な物語こそフィルムで撮ってほしいんだけどね。


<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4122015782&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

Yes, we are Korean Japanese. What's wrong with that?

2008年06月09日 | book
『ナショナリズムの克服』 姜尚中/森巣博著
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4087201678&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

過去に何冊か読みかけては挫折してた姜尚中氏の著書だが、対談集なら読めるかなと思って手にとった一冊。おもしろかったです。
そりゃ社会学の基礎知識がまーったくないんで、若干ついてけない部分もあるっちゃありますけど、全体的には非常にわかりやすい。話し言葉だし、とくに森巣氏のかみくだいた表現が単純に読んでて楽しかった。「俺のちんぽこは大きいぞ(→硬いぞ/古いぞ)論」て(笑)。すごいわかるけど。

内容はまあタイトル通り。
姜氏は在日韓国人2世で東大教授、森巣氏は30年以上海外で暮している作家。それぞれに避けては通れなかった個人的な“ナショナリズムの克服”体験を、日本人全体とそして全人類的に拡大して語っている。
究極的には民族・国家は必要ないだろうというふたりの意見は確かにちょっと極論かもしれないけど、意識としてそう考える、そういう感覚を持つのは全然ありだと思うし、ぐりも個人的には必要ないと思う。民族意識や国家意識が人の社会にもたらす利益が理解できないから。利益ではなくて災厄ならいくらでも思いつけるけど。大体そんなもの権力側のデッチアゲでしかないんだしねえ。
あとは、在日韓国人でありつつ成人後まで韓国語を話せず韓国人意識もなかったという姜氏の体験は、同じように「アタシ何人?」な疑問を抱えて生きてきたぐりにとっては、「なーんだ、やっぱそーだよね」的ににんまりしてしまう話だったりもしました。そこらへんがなんか納得いかないわーとゆー日本人に読んで欲しいけど、そーゆー人は姜氏の本なんか読まなそーだわー。

この本は2002年の刊行なので現在と内容的に微妙に食い違う点もあることはあるけど、『国家の品格』なんちゅう本がベストセラーになったり、「美しい国」なんてサムいスローガンを掲げる政治家が首相になったり、広告やTV番組でまでやたらに「日本」「日本人」なんてフレーズが氾濫するのが当り前になったり、文化でも技術でもいちいち「日本独自」「日本人独自」なんて謳って悦に入ってたり、そんな“なんでもとにかく日本万歳”な風潮に違和感を感じる人間(ぐりです)にとっては、一文一文がバンバンと膝を叩いて「そうそう!そうだよ!」と激しく同意しまくりたくなる本でした。
しかし日本のみなさんは、なんかヘンとか思わないんですかね?日の丸君が代問題とか、差別発言連発の都知事とか、映画『靖国』上映中止問題とか、気持ち悪いわとか思うアタシがおかしいんでしょーかねー?なこと、ないよね?
おかしきゃおかしいで今さらべつにいいんだけどさあ。


薔薇空間展にて。

ぐりメモ。
差別表現 ブロガーも問われる責任と人権感覚