落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

壁の迷宮

2008年06月24日 | book
『累犯障害者─獄の中の不条理』 山本譲司著
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以前読んだ『福祉を食う―虐待される障害者たち』という本に書かれていた、犯罪の被害者となる不運な障碍者たち。
健常者はつい忘れがちだが、障碍を持つ人々も人間であるからには、ただただ善良で従順な人ばかりとは限らない。彼らにも当り前に欲望があり、憎悪という感情もある。犯罪に巻き込まれる人もいれば、逆に自ら罪を犯してしまう人ももちろんいる。
だが日本のマスコミでは彼らの存在は決して報道されない。スポーツや芸術など才能を問われる分野などで努力して活躍する障碍者たちのあたたかい話題は、時に美談として時にメロドラマとしてもてはやされそこすれ、社会から転落し刑務所か閉鎖病棟かヤクザ以外に行き場を失った障碍者の存在など、マスコミにとっては扱い難く厄介なだけの代物に過ぎない。差別を助長するからなどというもっともらしい理由をつけられて黙殺されつづける日本の障碍者たち。
著者は衆議院議員だった2000年に発覚した秘書給与流用事件で服役した際に、刑務所内で刑務官の補助を担当するなかで多くの障碍者受刑者と知りあった。その経験を活かして取材したのが本書である。

読んでいて何度も、あまりの悲しさと怒りで身体が震え、涙がこみあげ、猛烈な吐き気を催した。
いったいこれは何の話だ。ひどすぎる。悲惨すぎる。どうしてこんなことが、文明国家といわれるこの国で起きるのか。全然理解できない。ありえない。信じられない。
うまくまとめられそうにないので、要点を箇条書きに列挙する。

・日本の知的障碍者のうち8割ほどが障害者手帳を取得しておらず、従って福祉行政の支援をほとんど受けていない。存在自体が国に把握されていない。このため障害者年金や生活保護などの制度を知らない障碍者が非常に多い。

・日本の全受刑者中3割弱が知的障碍者といわれ、そのうち7割以上は再入所者。そのまた2割が10回以上服役を繰り返している。罪状は置き引きや万引き、無銭飲食、住居侵入などの軽微な犯罪が多い。

・知的障碍者には自らが犯した罪の重さがほとんど理解できないうえ、服役中にも矯正教育や社会復帰のためのプログラムなどはいっさい課されていない。

・にもかかわらず、いったん犯罪を犯した障碍者を受け入れる福祉施設はほぼ皆無に近い。仮釈放中の保護観察も満足に機能していないため、ホームレスになるか、再び犯罪を犯して刑務所に舞い戻るか程度の選択肢しかない。

・引取り手のない重度の知的障碍者は精神科専門病院の閉鎖病棟に入院する場合がある。刑務所によく似た環境だが、刑務所で禁止されている拘束用具がここでは公然と使用され、薬物漬けにされる患者も多い。こうした病院を監視する国家機関は存在しない。

・日本では古来、知的障碍を持つ女性に売春をさせるのが社会習慣と化している。売春をしていた知的障碍者の母から生まれた知的障碍者の娘がまた売春をする、などというケースも多々ある。

・知的障碍者に覚醒剤をうつなどして売春を強要するのも、障碍者を幾人も養子にして障害者年金を巻き上げているのも健常者であり、暴力団に関わりを持つものも少なくない。

・先天的聴覚障碍者がつかう手話と聴者がつかう手話には互換性が乏しく、取調べや裁判の際につく手話通訳の精度は非常に疑わしい。実際、本人が主張しているのとはまったく違ったニュアンスで訳されてしまうことも多い。

・学校教育を受けておらず、手話も口話もいっさいできない聴覚障碍者も少数だが存在する。もちろん他者とコミュニケーションをとることそのものに非常な困難がある。

・口話教育にカリキュラムの大半を割かれる日本の聾唖教育では、社会生活に必要なだけの教育程度がカバーされない。このため聴覚障碍者と聴者との世界観には言語の壁以上の齟齬があるものと考えられるが、その事実はまったく認知されていない。

(本文とは直接関係ないが、ぐり的に追記。
聴覚障碍者、視覚障碍者といっても障碍の程度は人それぞれで、まったく何も聞こえない人もいれば、音は聞こえるがそれを言語として解することができない人、補聴器や人工内耳で相応の聴覚を補完できるというレベルの人もいる。視覚においても、明るさは感知できてもモノの形はわからない人から、まったく何も見えない人まで「見えない」レベルの範囲は意外に広い。このため障碍ゆえの孤独さにおいても、障碍があるというだけでひとくくりにはできない)

いかがですか。

本書では下関駅放火事件浅草・女子短大生刺殺事件『自閉症裁判』)、宇都宮・誤認逮捕事件、知的障碍者の売春、浜松・ろうあ者不倫殺人事件、ろうあ者だけの暴力団、福祉・刑務所・裁判の問題点の7つの章にわけて、犯罪に関わる障碍者たちと社会とを隔てる巨大な溝について述べている。
だがすべての章に共通しているのは、彼ら障碍者が社会から無視され続け、いないもの、いなくてよいものと看做され続けることの理不尽さである。
少なくとも、この本に書かれているようなことは一般のマスコミでは決して触れられることがない。事実なのに、国民に知られる機会がない。知られないということは、存在を否定されているのと同じことだ。

誤解のないようにいっておくが、ぐりは障碍をもつ犯罪者にも健常者と同じように罪を償う義務は当然あると考えている。
だが、今の日本の裁判では障碍者は当事者であるにも関わらず完全に蚊帳の外も同然の状態であり、更生を目的としているはずの刑務所でも入れられているだけでほとんど放置されているようなものである(今年秋に障碍者向けの刑務所がやっと開所する予定)。
それでは何のための裁判かわからない。当事者である被告が裁判についてこれないのに、どうやって真実を明らかにするというのだろう。国民の税金をつかって服役させている受刑者に更生する手段が与えられてないなんて完全に無駄遣いでしかないし、ひいては防犯政策の面でも大きな課題といえるのではないだろうか。

山本譲司氏の著書を読むのはこれが初めてだけど、他にもとても興味深い題材で何冊か出ているみたいなので、今後機会があればまた読んでみたいです。
ふー。