落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

頭の中の消しゴム

2008年06月21日 | movie
『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』
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アルツハイマー型認知症を発症したフィオナ(ジュリー・クリスティ)は44年連れ添った夫グラント(ゴードン・ピンセント)と離れ介護施設に入居するのだが、30日の面会禁止期間が明けて見舞いに来た彼のことは既に記憶から消え、足の不自由なオーブリー(マイケル・マーフィ)の世話に熱中していた。
愛しあって幸せに暮して来たはずと信じていたグラントは深く傷つくのだが・・・。

認知症の患者を身内にもった経験のある人なら誰でもわかると思うのだが、この病気は基本的に一度始まったら止めることはできない。記憶がどんどん頭の中から消えていき、やがて暗闇が訪れる。長く時間のかかる別離。
ただ健康な人間にわかりにくいのは、症状が一方的に進行しつづけるわけではなく、たまに正気に戻ったり、失くしたはずの記憶が何かの拍子に甦ったり、不規則な波のようなものがあるところである。この波が介護する親族を徒に翻弄するところが、あるいはこの病気の最も苦しい部分かもしれない。
グラントは初め、妻が自分を忘れ他の入居者と恋に堕ちた事実に混乱する。だが妻を責める気にはなれない。自分も若いころ、妻に誠実でなかったことがあったからだ。その罪悪感ゆえに、今、夫として何をすべきかを迷いながら探りつづける。

若くして不幸な病を抱えたヒロインを演じるジュリー・クリスティが実に美しい。ほんとうに夢のように美しい。こんな奥さんならたとえ認知症でも、誰もがすべてを犠牲にしてかしずいてもいいと思うんじゃないか、ってくらい美しい。看護師役のクリステン・トムソンがすごくよかったけど、この人舞台女優なのね。他にはほとんど映画には出ていない。
現実の介護の現場にはもっともっと苦しい物語がいくらでもあるだろう。あえてそういう不幸な面を強調せず、夫婦の愛の物語を淡々と丁寧に描きたかった気持ちは理解できる。けどやっぱちょっと淡々とし過ぎて、正直、若干退屈なとこもありました。トーンはキライじゃないけどねー。
監督のサラ・ポーリーは本業は女優で弱冠27歳。彼女の出世作である『スウィート ヒアアフター』の監督アトム・エゴヤンが製作総指揮にクレジットされているが、シナリオやカメラワーク、構成などにかなり強く影響を感じる。ぐりはエゴヤン好きだけど、だからってエゴヤンもどきも気に入るわけじゃないってことは観てみないとわかんないもんなのね〜。

おみなえしの恋

2008年06月21日 | play
シネマ歌舞伎『ふるあめりかに袖はぬらさじ』

時は幕末、吉原から横浜へ流れて来た芸者・お園(坂東玉三郎)が親しくしていた花魁・亀遊(中村七之助)が自室で喉を切って死んだのは文久2年、生麦事件のあった年のことだった。
亀遊は楼の通辞・藤吉(中村獅童)と恋仲だったが、病がちで多額の借金を抱えた身では、医師を目指し海外留学を予定している恋人の足を引っぱりこそすれ支えになることはできない。そんな不運をはかなんでの17歳の死だった。
ところが自殺当夜に登楼したアメリカ人客(坂東彌十郎)が彼女の身請けを申し出ていたことから、“攘夷女郎”“愛国烈婦”などと尾ひれのついた噂話が広まり、楼の主人(中村勘三郎)たちは「亀勇は異人に身を任せるのがイヤで自決した」と名前まで変えて噂を煽るようになる。

杉村春子の当たり役だった舞台を玉三郎主演で歌舞伎座で上演した去年12月の公演をHDで収録したシネマ歌舞伎。こういう形で歌舞伎を観るのは初めてだけど、意外といいもんです。結構臨場感あるし。
しかしこの時勢にこの演目を演るって松竹もなかなかやるね。すっごい象徴的。
今の世の中ってなんだか幕末に似たとこあるもんね。とにかく愛国とか国益とかいいさえすればみんな納得しちゃう。国のためなら大抵のことは許されるし、よしんば疑問に思ってもみんな我が身かわいさに黙りこんでしまう。それで結果的に世の中どーなっちゃおうと誰も責任なんかとりゃしない。都合の悪いことはカネなり暴力なりでフタして隠しちゃって見て見ぬフリ。
ヒロインお園は自ら亀遊の死に立ち会っておいて、ろくな葛藤もなく主人に乞われるままに嘘やデタラメを平気でペラペラと喋りまくるようになる。適当なでっちあげを鵜呑みにした客たちも勝手に満足して楽しんでいる。彼女たちに悪意はまったくないから罪悪感もない。こうなったのは誰のせいでもない、自然の成りゆきだと当然のように信じている。
彼女は今の日本人そのものなんじゃないかと思う。無自覚の罪深さ、愚かであることとしたたかであることの相似。

しかしこの舞台は本当に豪華だ。玉三郎に勘三郎、獅童に七之助と勘太郎の兄弟だけでなく、その他大勢の楼の客にも市川海老蔵や板東三津五郎や中村橋之助など映画やTVでお馴染みのスターばっかりうじゃうじゃでてくる。ビックリするわ。
中でもぐりが驚いたのは薄幸の美少女を演じた七之助。ぐりはこの人の歌舞伎はほんの数回しか観たことないんだけど、観るたびにぎょっとする。ホントに「ぎょっとする」としかいいようがない。キレイというかコワイというか、あまりにも可憐で何だか見ちゃいかんモノを見てしまったよーな衝撃度がある。今回も冒頭で玉三郎が屏風をどけて布団から彼が起きあがったとき、軽く息とまりましたもん。
玉三郎と勘三郎の掛け合いはいつも通りおもしろかったし、社会派ブラックコメディとしてもとてもよく出来たお芝居だと思います。機会があればまた観たい。