落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

千言萬語

2008年08月11日 | movie
『1000の言葉よりも 報道写真家ジブ・コーレン』

いつ終わるとも知れない民族問題を抱えたイスラエルで活動するフォトジャーナリスト、ジブ・コーレンに密着したドキュメンタリー。
こないだ『闇の子供たち』を観たときも思ったけど、ヴィジュアルのインパクトってほんとうに「百聞は一見に如かず」なんだよね。児童買春や臓器売買について多少なりとも聞いたことがあっても、フィクションであれ実際に映像で犠牲者を見せられる衝撃はそんなものと比較にならない。
イスラエルでは毎週のように自爆テロで市民が犠牲になり、日々パレスチナ人が虐げられていることなんか周知の事実で、そんな現状に誰もが慣れきってしまっている。イスラエル人だけじゃない、世界中の誰もがイスラエル/パレスチナの悲劇的なニュースに「またかよ」とため息をつくだけ。ぐりも含め。
だがジャーナリストとしてコーレンはいつも新鮮な視線で最前線をとらえ続ける。被写体は兵士、テロの犠牲者、パレスチナ人、デモ隊などさまざまだ。そしてそれらとコーレンの距離は常に一定である。なぜなら彼はプロだからだ。

フォトジャーナリストの仕事に要求されるタフネスにはまったく舌を巻く。
コーレンの仕事場─事件現場─には程度の差こそあれ毎度のごとく危険がつきまとう。コーレンも警戒はする。命の保証もない場所での仕事上のノウハウも駆使するが、覚悟もしている。ファッションモデルの妻も同様である。
それは彼らが長いキャリアの間に積み重ねてきた不文律でもあるのだろう。死ぬことになるかもしれないけど、決定的瞬間は逃したくない。でも死ぬのはただの間抜けだと。死ぬのが怖くないわけじゃない。死の恐怖をコーレンはおそらく誰よりもよく知っている。だからこそ自らと死の距離を無意識に測りながらシャッターをきっている。あまりに凄惨な現場ではファインダーを覗かない。覗いたら自分がどうなるかわからないから。
そんな彼の仕事が映画の中ではまるでダンスを踊っているかのように華麗に描かれている。まるでミュージッククリップのようにファッショナブルに編集された映像と音楽のせいかもしれない。

コーレンも奥さんもかっこよすぎるのがどーなん?と初めは思ったけど、こんな題材だからこそ彼らを“ナビゲーター”としてとりあげたことに意味があるのかもと思う。
ひとくちにイスラエル問題、パレスチナ問題といってもそこに住む人々の生活も思いもそれぞれに違う。ユダヤ人が全員ユダヤ教徒というわけではないし、イスラエルにはユダヤ人・パレスチナ人以外の住民もいる。紛争ひとつとってもそれに対する感じ方はみんな同じじゃない。
モザイクのように複雑なイスラエルを多角的にとらえつつ決して目を逸らさない、コーレンの“ダンス”はこれからどこへ行くのか。あるいはどこへも行けないのか。
まったくイスラエルはどこへ行くんだろう。ただひとついえることは、コーレン含めジャーナリストたちが発信する悲劇に、われわれが「慣れ」てはいけないということだろう。それは無関心という名の敵意と同じだ。殺される人、尊厳を踏みにじられる人、家を奪われる人、彼らも自分と同じ「人」なのだということを、絶対に忘れるべきではないのだろう。
それってけっこー難しいんだけどね・・・。

関連レビュー:
『パレスチナが見たい』 森沢典子著
『パレスチナ1948 NAKBA』 
『ビリン・闘いの村』 
『パラダイス・ナウ』 

空にダイヤモンド

2008年08月11日 | movie
『アクロス・ザ・ユニバース』

1960年代、リバプールの造船所労働者ジュード(ジム・スタージェス)はアメリカにいるという父を訪ねて大西洋を渡り、偶然知りあったマックス(ジョー・アンダーソン)の実家で妹ルーシー(エヴァン・レイチェル・ウッド)と恋に堕ちる。やがてベトナム戦争が始まり、ニューヨークでジュードと共同生活を始めたマックスにも召集令状が。ルーシーは反戦運動に参加しデモ活動にのめりこんでいくのだが・・・。

ぐりが生まれたころビートルズはもう解散していて周りにもビートルズを聴く大人はいなかったから、初めて音楽として彼らの作品に触れたのはピアノのレッスンだったと思う。最初に弾いたのが「レット・イット・ビー」だったか「ヘイ・ジュード」だったかはもう覚えていない。他には「イエスタデイ」や「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」なんかも弾いた記憶がある。高校生になってバンド活動をしたころはベースの練習でやはりビートルズを弾いた。
残念ながらぐりには音楽センスというものがさっぱりなくて、ビートルズの音楽の素晴らしさを自分のものとして消化することはまったくできなかったけど、それでも彼らの音楽には子どものころから親しんだ友だちのような感覚は持っている。聴くときどきによって歌詞やメロディから伝わるエモーションは少しずつ違う。でもすごくわかる、知ってる、って感じ。懐かしいというのとは違う、いつもふつうにそこにいる、って感じ。

それが映画になるって観る前から不安だったよ。そりゃ不安でしょう。あのビートルズの名曲がミュージカルに!って、えー?みたいな。けど音楽は間違いないし。不安半分期待半分。
実際観てみて、やっぱね〜難しかったね〜って感じかな?映画としてはよくまとまってると思うよ。ミュージカル映画としての完成度は非常に高い。音楽に負けないだけのサイケデリックなヴィジュアルワールドはがっちり堪能できる。映像は綺麗ですハイ。
でもねーそれだけなのよねー・・・。ストーリーがね〜中身なさすぎー。登場人物にも誰ひとり感情移入できずー。こざっぱりまとめりゃーいいってもんじゃないわね。結局映画ってストーリー、テーマだからさ。これミシェル・ゴンドリーが監督してればキャラクターに奥行きが出てまだよかったかも。全員見事にペラッペラ!ですからー。
まあ、どこって欠点はない。長いプロモーションビデオって感じでしょーか?っちゅーかこれ、この後いろんなPVにパクられんだろーなー。そーゆーネタはたんまり詰まってます。ぐりもそれに近い職業だから「このシーンはあれをこーしてこれをあーして」とかいちいちしくみ考えながら観てしまったよ。病んでるなー。
しかしわざわざそんなもん初日に観とうないです。自分で自分の貧乏性がイヤになってしまったよ。

侯孝賢の赤い風船

2008年08月11日 | movie
『ホウ・シャオシェンの レッド・バルーン』

7歳のシモン(シモン・イテアニュ)は声優の母スザンヌ(ジュリエット・ビノシュ)と二人暮らし。忙しい母に代って雇われたベビーシッターのソン(ソン・ファン)は中国から来た留学生で、パリで映画の勉強をしている。スザンヌは人形使いだった祖父の8ミリフィルムをソンに頼んでDVDにしてもらう。よみがえった映像には幼い日の娘ルイーズ(ルイーズ・マルゴラン)が映っていた。
アルベール・ラモリス監督の名作『赤い風船』へのオマージュ作品。

つーてもぐりはラモリス版を観てないんですがー。観た方がよかとですかね?単にあのー、侯孝賢が好きでそれだけで観ちゃったんですが。
侯孝賢にとっては『珈琲時光』に続いて2作目の海外作品。『ミレニアム・マンボ』も後半の舞台は日本だけど、出演者は台湾人だからね。スタッフは毎度の侯孝賢組だそーですが。
だから映像もトーンもまんま侯孝賢ワールドなんだけどー。ごめん、ダメでした。全然入りこめなかった。ぐりジュリエット・ビノシュ苦手なんだわ。そーいえば。フランス映画もここんとこちょっと苦手。侯孝賢ならいっかと思ったんだけど。
何がダメなのかはよくわからない・・・なんでしょーね?これそっくり舞台を東京とかソウルとか上海とかシンガポールとか、とにかくアジアに持ってきたらたぶんもっと楽しんで観れると思う。それはするっと想像できる。フランスで、ジュリエット・ビノシュってのがムリなんだけど、それがどーしてなのかは我ながら謎だ。どーしてだー?

ところで劇中に出てくる中国風の人形劇、あれは布袋戯だよね?侯孝賢で布袋戯といえば『戯夢人生』。他の作品にもときどきチラホラ登場してますが。今回はフランス語でナレーション(ジュリエット・ビノシュ)がついていた。フランス語で布袋戯ってなんか新鮮ー。あれって欧米の人が観てもわかるもんなんかな?
布袋戯そのものはちゃんと観たことないけど、『聖石伝説』なんかは正規版がネットで観れるんだよね。今度機会があったら観てみよっと。

これはこの作品とは直接関係ないんですが。『赤い風船』『白い馬』の予告編、アレなんでしょーね?『この自由な世界で』とか『長江哀歌』とかもそーなんだけど、最近ミョーにクッサいナレーションでいらん説明ごってごてな予告編がやたら目立つんですがー。ウザいっす。あのナレ聞くと観たかった映画も「やっぱええわ」って気分になる。これから映画観るんだぜーってテンションも思いっきり下がる。
あの暑苦しい能書きはなんなん?中高年層狙いなんかなー?
すいませんね。ココロ狭くてさ。けどあんなにくどくど説明されて「おもしろそう」「観たい」って気分になるもんなの?実際?わからん・・・。