『1000の言葉よりも 報道写真家ジブ・コーレン』
いつ終わるとも知れない民族問題を抱えたイスラエルで活動するフォトジャーナリスト、ジブ・コーレンに密着したドキュメンタリー。
こないだ『闇の子供たち』を観たときも思ったけど、ヴィジュアルのインパクトってほんとうに「百聞は一見に如かず」なんだよね。児童買春や臓器売買について多少なりとも聞いたことがあっても、フィクションであれ実際に映像で犠牲者を見せられる衝撃はそんなものと比較にならない。
イスラエルでは毎週のように自爆テロで市民が犠牲になり、日々パレスチナ人が虐げられていることなんか周知の事実で、そんな現状に誰もが慣れきってしまっている。イスラエル人だけじゃない、世界中の誰もがイスラエル/パレスチナの悲劇的なニュースに「またかよ」とため息をつくだけ。ぐりも含め。
だがジャーナリストとしてコーレンはいつも新鮮な視線で最前線をとらえ続ける。被写体は兵士、テロの犠牲者、パレスチナ人、デモ隊などさまざまだ。そしてそれらとコーレンの距離は常に一定である。なぜなら彼はプロだからだ。
フォトジャーナリストの仕事に要求されるタフネスにはまったく舌を巻く。
コーレンの仕事場─事件現場─には程度の差こそあれ毎度のごとく危険がつきまとう。コーレンも警戒はする。命の保証もない場所での仕事上のノウハウも駆使するが、覚悟もしている。ファッションモデルの妻も同様である。
それは彼らが長いキャリアの間に積み重ねてきた不文律でもあるのだろう。死ぬことになるかもしれないけど、決定的瞬間は逃したくない。でも死ぬのはただの間抜けだと。死ぬのが怖くないわけじゃない。死の恐怖をコーレンはおそらく誰よりもよく知っている。だからこそ自らと死の距離を無意識に測りながらシャッターをきっている。あまりに凄惨な現場ではファインダーを覗かない。覗いたら自分がどうなるかわからないから。
そんな彼の仕事が映画の中ではまるでダンスを踊っているかのように華麗に描かれている。まるでミュージッククリップのようにファッショナブルに編集された映像と音楽のせいかもしれない。
コーレンも奥さんもかっこよすぎるのがどーなん?と初めは思ったけど、こんな題材だからこそ彼らを“ナビゲーター”としてとりあげたことに意味があるのかもと思う。
ひとくちにイスラエル問題、パレスチナ問題といってもそこに住む人々の生活も思いもそれぞれに違う。ユダヤ人が全員ユダヤ教徒というわけではないし、イスラエルにはユダヤ人・パレスチナ人以外の住民もいる。紛争ひとつとってもそれに対する感じ方はみんな同じじゃない。
モザイクのように複雑なイスラエルを多角的にとらえつつ決して目を逸らさない、コーレンの“ダンス”はこれからどこへ行くのか。あるいはどこへも行けないのか。
まったくイスラエルはどこへ行くんだろう。ただひとついえることは、コーレン含めジャーナリストたちが発信する悲劇に、われわれが「慣れ」てはいけないということだろう。それは無関心という名の敵意と同じだ。殺される人、尊厳を踏みにじられる人、家を奪われる人、彼らも自分と同じ「人」なのだということを、絶対に忘れるべきではないのだろう。
それってけっこー難しいんだけどね・・・。
関連レビュー:
『パレスチナが見たい』 森沢典子著
『パレスチナ1948 NAKBA』
『ビリン・闘いの村』
『パラダイス・ナウ』
いつ終わるとも知れない民族問題を抱えたイスラエルで活動するフォトジャーナリスト、ジブ・コーレンに密着したドキュメンタリー。
こないだ『闇の子供たち』を観たときも思ったけど、ヴィジュアルのインパクトってほんとうに「百聞は一見に如かず」なんだよね。児童買春や臓器売買について多少なりとも聞いたことがあっても、フィクションであれ実際に映像で犠牲者を見せられる衝撃はそんなものと比較にならない。
イスラエルでは毎週のように自爆テロで市民が犠牲になり、日々パレスチナ人が虐げられていることなんか周知の事実で、そんな現状に誰もが慣れきってしまっている。イスラエル人だけじゃない、世界中の誰もがイスラエル/パレスチナの悲劇的なニュースに「またかよ」とため息をつくだけ。ぐりも含め。
だがジャーナリストとしてコーレンはいつも新鮮な視線で最前線をとらえ続ける。被写体は兵士、テロの犠牲者、パレスチナ人、デモ隊などさまざまだ。そしてそれらとコーレンの距離は常に一定である。なぜなら彼はプロだからだ。
フォトジャーナリストの仕事に要求されるタフネスにはまったく舌を巻く。
コーレンの仕事場─事件現場─には程度の差こそあれ毎度のごとく危険がつきまとう。コーレンも警戒はする。命の保証もない場所での仕事上のノウハウも駆使するが、覚悟もしている。ファッションモデルの妻も同様である。
それは彼らが長いキャリアの間に積み重ねてきた不文律でもあるのだろう。死ぬことになるかもしれないけど、決定的瞬間は逃したくない。でも死ぬのはただの間抜けだと。死ぬのが怖くないわけじゃない。死の恐怖をコーレンはおそらく誰よりもよく知っている。だからこそ自らと死の距離を無意識に測りながらシャッターをきっている。あまりに凄惨な現場ではファインダーを覗かない。覗いたら自分がどうなるかわからないから。
そんな彼の仕事が映画の中ではまるでダンスを踊っているかのように華麗に描かれている。まるでミュージッククリップのようにファッショナブルに編集された映像と音楽のせいかもしれない。
コーレンも奥さんもかっこよすぎるのがどーなん?と初めは思ったけど、こんな題材だからこそ彼らを“ナビゲーター”としてとりあげたことに意味があるのかもと思う。
ひとくちにイスラエル問題、パレスチナ問題といってもそこに住む人々の生活も思いもそれぞれに違う。ユダヤ人が全員ユダヤ教徒というわけではないし、イスラエルにはユダヤ人・パレスチナ人以外の住民もいる。紛争ひとつとってもそれに対する感じ方はみんな同じじゃない。
モザイクのように複雑なイスラエルを多角的にとらえつつ決して目を逸らさない、コーレンの“ダンス”はこれからどこへ行くのか。あるいはどこへも行けないのか。
まったくイスラエルはどこへ行くんだろう。ただひとついえることは、コーレン含めジャーナリストたちが発信する悲劇に、われわれが「慣れ」てはいけないということだろう。それは無関心という名の敵意と同じだ。殺される人、尊厳を踏みにじられる人、家を奪われる人、彼らも自分と同じ「人」なのだということを、絶対に忘れるべきではないのだろう。
それってけっこー難しいんだけどね・・・。
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