落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

魔の山

2007年06月23日 | movie
『ハリウッドランド』
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1959年、人気TVシリーズ『スーパーマン』の主演俳優が自宅で頭部に銃弾を受けて死んだ。警察は状況から自殺と判断、早々に捜査を打ちきったが事件の背景には・・・という、実話を基にした業界内幕モノ。
昨日書いたブラック・ダリア事件と同じくハリウッドで起きた血腥いスキャンダル。ブラック・ダリアは無名の女優志望の若い女で、公式には未解決だけど非公式には犯人が特定されている。一方でスーパーマンは世界中の誰もが大好きなヒーローで、公式には自殺として解決しているけど実際はそうではない。対照的です。ブラック・ダリア自身には殺される理由がなくて、スーパーマンには殺される理由も自殺する理由も揃ってた、ってとこも。
おもしろかったです。あんまし話題になってないし劇場も空いてたけど、うん、いい映画だと思う。ぐりは好きです。

物語の主人公はスーパーマン=ジョージ・リーブス(ベン・アフレック)の老母(ロイス・スミス)から依頼を受けて事件を調査する私立探偵のルイス(エイドリアン・ブロディ)。
妻子と離れて暮らし無頼を装い、最初は功名心と金のためだけに強引に調査を進める彼のパートと、一介の売れない俳優がMGMの重役の妻トニー(ダイアン・レイン)の愛人になり、スーパーマン役に抜擢されてスターになる生前のリーブスのパートが、同時進行で交互に画面に登場する。
一見するとまったく似ていないふたりだが、不思議なことに物語が進行するにつれて奇妙に重なりあって見えてくる。はっきりとどこに共通点があるというわけではない。孤独だったとか、不運だったとか、コンプレックスに苦しんでたとか、そういう一般論の問題ではなくて、時間や立場を超えて、ルイスとリーブスが人間同士として共鳴しあうように見えてくる。

事実をもとにした物語なので結末はやはりはっきりしない。
だがおそらくこの物語で重要なのはスーパーマンの死の謎などではない。
スーパーマンを演じるスーパーヒーローであっても人は人だし、どんなに多くの人に愛されていても、結局は自分で自分を愛せなければ人間は生きてはいけない。真の孤独とはそういうものではないのだろうか。
ストーリーそのものは他愛のないものだけど、成功すればするほど孤立していくスターを見事に体現したベン・アフレックの熱演には脱帽しました。スゴかったです。こんなにいい俳優だとは知らなんだよ(爆)。ダイアン・レインも素晴しかった。綺麗だし、貫禄も品位もあってものすごく役にハマってました。
エイドリアン・ブロディはこの役の設定にはやや若すぎる気もしなくもないけど、そういえばこないだ観た『ゾディアック』のジェイク・ギレンホールも子持ちバツイチ役だったよな・・・。
史実=生前のリーブスのパートがあくまで淡々としているのに対して、フィクション=ルイスのパートがきりきりにツイストしたミステリー風なのが、メリハリが利いててよかったと思います。

ところで実在のリーブスは1914年生まれ、52〜58年のスーパーマン放送時にはなんと38〜44歳。どっひゃー。
作中にリーブス=ベンアフが某アカデミー賞作品(ホンモノ)に出てるシーンがあるんだけど、合成が不自然でおかしかったですー。

美人薄命

2007年06月22日 | book
『切断 ブラック・ダリア殺人事件の真実』ジョン・ギルモア著 沢万里子訳
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先日観た『ゾディアック』と並んでアメリカで最も有名な未解決事件を描いて去年公開された映画『ブラック・ダリア』
実は当初この映画の監督にはデヴィッド・フィンチャーが予定されていたが、どういう経緯かブライアン・デ・パルマと途中交替している。フィンチャーはその後別の未解決事件を題材に『ゾディアック』を撮りあげた。
ぐりは『ブラック〜』の方は未見です。事前についうっかりレビューを読んで観る気をなくしてしまったのですー。こないだ『ゾディアック』を観て『ブラック〜』を思いだして、そういえばこの事件についてはほとんど何も知らないなと考えついて読んでみた。
ちなみに映画はジェイムズ・エルロイの小説が原作なので基本的にフィクション(エルロイは10歳のとき、パートタイムで売春稼業をしていた母親を何者かに惨殺されるという経験をしている)。今回読んだ『切断』はノンフィクションです。

さて。
ブラック・ダリア事件については映画の公式HPも含めほうぼうで語り尽くされてますが、とりあえず本の内容だけ簡単に説明しときます。
ブラック・ダリアことエリザベス・ショートは、1924年にマサチューセッツの中流家庭の5人姉妹の三女として生まれた。幼いころ大恐慌に巻きこまれた父親が事業に失敗して蒸発、一家は借金を抱えて相当な困窮を強いられたが、厳格でしっかりものの母親は必死に娘たちをきちんとした女の子に育て上げた。
エリザベスは地元では評判の美少女で、デートしたがる相手はひきもきらなかった。やがて彼女は漠然と芸能界に憧れ、有名になりたいと思うようになった。そこへ死んだと思われていた父親から、一家と復縁したいという虫のいい手紙が届く。住所はカリフォルニア。故郷を出ていくいい口実だった。
だが10数年ぶりの父娘の再会は数ヶ月で破綻。両者に親子の情などというものが初めから存在していなかったのが不幸の始まりだった。
もっとエリザベスを不幸にしたのは、彼女が「有名になりたい」という幻をいいわけにして定職に就かずいつまでも自立しようとしないのに、無責任にも同情や下心から彼女に食事や酒や宿や生活費やなんかをほいほいと差し出す輩がごろごろいたことだった。
そのようにして、エリザベスは糸の切れた凧のようにハリウッドやらフロリダやらシカゴやらサンディエゴを、友人から友人へ、宿から宿へとふらふらと渡り歩いた。
女優志望だったのは事実で、演技の指導をうけたこともあったし、ちゃちなモデルのアルバイトをしたこともあった。プロモーション用の写真も撮っている。素人ながら歌も上手だったし、なにより美人でオシャレで垢抜けていて、それ以上に独特に人を惹きつける魅力をもっていた。娼婦まがいの生活をしていたと書く人もいるが、それは正しくない。少なくとも、彼女はセックスの相手から報酬を受取るといった仕事はしていなかった(というか物理的にそれは不可能だった)。毎日のように別の相手とレストランやバーやカフェを徘徊しドライブをし、そのうちの幾人かから不定期的に経済的な援助を受けていたことも事実だが、彼女に戻ってくるあてのない金を貸したのは男たちばかりではなかった。

1947年1月15日の寒い朝、エリザベスはロサンゼルス市内の空き地で全裸の死体で発見された。遺体は腰の部分でふたつに切断され、耳から耳へ口が裂けたように顔を斬られていた。この他に首を絞めた痕や打撲傷のあざ、切り傷が無数にあった。ほぼ完全に血液が抜き取られ、遺体は洗浄されていた。
顔は腫れ上がっていたが指紋が軍の記録に残っており、夢みるような瞳とつややかな黒髪で“ブラック・ダリア”と呼ばれた美人であることがすぐに判明。10日後には犯人と思われる人物が投函した小包からエリザベスの所持品がみつかるが、指紋は出てこなかった。1月9日にビルトモア・ホテルをひとりで出ていくのを目撃されて以降の足取りもまったくわからなかった。
その後、現在に至るまで真犯人は逮捕されていない。

ということになってるけど、この本には実際には真犯人がほぼ特定されてたことが書かれている。
逮捕される前に死んでしまったので「未解決」ということにはなってるけど、著者ギルモアの実父がロサンゼルス市警の警官だったことを考えれば、このニュースソースはじゅうぶん信憑性が高いといえる。
真犯人とされる人物は「ある人から聞いた話」、つまり伝聞のかたちで犯行を微にいり細にわたって告白してるんだけど、これって最近O・J・シンプソンが妻殺しを告白?したときと同じだよね。人格的に未発達な人や、あるいはなんらかのショックで人格が退行した人に現れる症状で、現在の自分と過去の自分が分離してしまい、自分でしたことなのに誰か別の人物の仕業と決めつけて信じこんでしまう。

一方のエリザベスは今から考えたら典型的なアダルト・チルドレンだねこりゃ。
父親の愛情に飢え、4人の姉妹に挟まれて母親の愛情を独占することもできない。ただ美人だというだけで年端もいかない娘をちやほやすることがどれほど教育に悪くても、母親は彼女を世の中からかばいきるには忙し過ぎた。
しかもエリザベスがちょうど花も恥じらう年頃のとき、時代は第二次世界大戦のまっただ中だった。彼女と同じように年端もいかないのに親元を離れていて小銭はもっている愛国青年=出撃前の若い志願兵が繁華街に溢れかえっていた。彼らがいつ最後になるかもしれないデートの相手にこぞってエリザベスを選ぶのに何の不思議があろうか。「国のために命をかけて戦う若者に優しくしてあげるワタシ」という自画像に酔わない娘もそうはいなかったのではないだろうか。おまけに婚約者が軍務中の事故で死ぬなんとゆー悲劇までくっついている。決定的。
要するに、親の監督がいささかゆるんだ娘が、その日限りの刹那的な恋愛ゲームに取り憑かれ身を持ち崩すのに、時代がしっかりとお膳だてしてくれていたということだ。

この本を読んでも、事件のどこがそれほど特異なのかは正直な話よくはわからない。
確かに遺体発見時の状況は猟奇的かもしれないけど、エリザベス自身は特別な被害者といえるほどの女性ではなかったし、結果論からいえば真犯人もだいたいわかっている。謎とかミステリーとかいうほどのことははっきりいってあまりない。
エリザベスには女優になる見込みがまるでなかったわけではない。殺されるべくして殺されたというほどのことも何もしていない。この本には生前エリザベスと交流のあった人々が大勢登場するが、彼らの目にはエリザベスは一様に─真犯人を除いて─「依存心が強く目的意識や自立心に欠けていて、何かというと他愛もない嘘をつくという些細な欠点はあるものの、そんな危うさも魅惑的な若い美貌の女性」としかみえていなかった。
ごく乱暴にいえば、不運な女がたまたまめぐりあった異常者に殺されただけの事件でしかない、ということもできるのだ。

それなのに事件が伝説化しているのは、ひとつには事件が当時全米の新聞業界を席巻していた、センセーショナルでスキャンダラスな報道合戦による熾烈な部数争い─すなわち悪名高きイエロー・ジャーナリズムの格好の餌食になってしまったことと、第二次世界大戦直後、アメリカの犯罪捜査方法が近代化する過渡期に起きたという時代性によるものではないだろうか。
もしかしたら、「もしかしたらエリザベスを助けられたかもしれないのに」というアメリカ人の良心の呵責が、事件を忘れられないものにしているのかもしれない。
かもしれない。

映画好きのつぶやき

2007年06月18日 | book
『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』太田直子著
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いやーおもしろかった。サイコー。
ここんとこ上手く読書に集中できなくて挫折ばっかしてたんだけど(セレクトに問題がある)、これは量的にも軽くて内容もおもしろくて、ひさびさ「本を読んで声をたてて笑う」くらい楽しめました。ユーモアたっぷり、ブラックジョークてんこもり。

ぐりが年間100本程度観ている映画の9割は外国作品。そのほとんどを字幕で観ている。
ぐり自身には語学力はまったくないけど、英語作品で内容がそれほど複雑でなければ、そしてタランティーノ作品クラスの超大量&早口台詞でなければ、ある程度まではなんとなく何をいってるかくらいはうっすらわかる。だから「おっとそう訳すか!」という言い換えにはときどきビックリすることもある。
そうでなくても外国語映画を観ていて字幕の訳に「?」となることはしばしばある。たとえばかのカンヌ・パルムドール作品である大作中国映画に出て来た「ロウソクに照らされた初夜」という字幕、観客の大多数が無言で「それは“華燭の典”やろがっ!!!」とツッコミをいれたことは、おそらくぐり日記をご覧の方の多くはご記憶なのではなかろーか。この作品の字幕翻訳者は大御所T女史。中国語は門外漢のはずだから、英語からの重訳である。にしてもせめて中国語ネイティブの校閲さえいれてればこんなド間抜けなミスは犯さずに済んだのではないかと思う。この作品は後年別の訳者(中国語作品専門の翻訳家では超メジャー)による北京語対訳シナリオが出版されたので、ビデオやLDやDVDに満載されたミス字幕の数々が、映画ファンの面前に永久に赤っ恥を曝し続けることになってしまった。くわばら。

現在は北京語も広東語も含め英語を介さずとも中国語作品の翻訳ができる人材も増えてるみたいだし、こういうことはおいおい少なくなっていくんだろうけど、それでもほとんどの字幕が英語台本を重訳している。だから先日も触れた『永遠の夏』のように、その言語ならではの記号的ニュアンスさえごっそりと抜け落ちるなどということが起きてしまう。
ただでさえ映画の字幕には字数制限と放送コードという厳しいルールがある。翻訳者の苦労がじゅうじゅう想像できるだけに、ネイティブの校閲がもっと一般的にしっかりと行われるようになってほしいと思う。
逆に、あえて贅沢をいわせていただくなら、できれば字幕翻訳家の方々にはなるべく広いジャンル・地域の映画に対する知識を身につけておいてもらいたいと思うこともときどきある。とくに香港・中国・台湾・韓国映画はハリウッド映画や日本映画の影響を強く受けているので、それら他地域の映画に関して知識が足りなかったり偏見があったりすると作品の理解度が低くなり、字幕の質にもそれなりに影響が出てくる場合があるからだ。

字幕といえば、去年は『ブロークバック・マウンテン』の最後の台詞もかなり激しい議論になった。
中年を過ぎてひとりぼっちになった主人公イニス(ヒース・レジャー)が、クローゼットにかけたジャック(ジェイク・ギレンホール)のシャツにこう語りかけて、物語は終わる。
“Jack, I swear... ”
この時の字幕は「ジャック、永遠に一緒だよ」。
ちょっと待てい!「永遠」って単語はどこ?「一緒」って単語はどこ?みたいな。
ちなみにswearとは「誓う、宣誓する」という意味で、神や聖書など神聖なものにかけて誓う、あるいは固い約束をする場合にも用いられる言葉である。直訳すれば「ジャック、オレは誓う」。これでなんでダメなのかと。飛躍にもほどがあろーがと。
確か『BBM』公開時はこの最後の台詞だけじゃなく字幕全体のクオリティが批判されてたと思うんだけど、そうでなくても中西部という独特の風土と日本人には縁遠いカウボーイ文化が濃く反映された脚本でもあり、翻訳者は相当に悩んだだろうということはわかる。そのまま訳したのでは日本人にはわかりにくい。かといってあまりに意訳してしまうと台詞のワイルドな風味が失われてしまう。
こういうときに登場するのが、配給会社の字幕担当者。太田氏によれば、彼らはとにかく「わかりやすさ」を強く要求してくるのだそうである。固有名詞の置き換えはもちろん、話の前後を説明するためにある台詞を要約してない台詞をつっこむ、なんて荒技も当り前。そうなると観客は完全に騙されていることになってしまうが、彼らはわかりやすくなければ映画は売れないと決めつけているから、劇場内に座って画面を観ている観客が騙されることは二の次になるのである。

この本にはこうした字幕仕事につきものの苦労話が満載されている。
配給会社との言い換えバトル、言葉の壁、差別用語、「泣ける」流行の波・・・字数制限や〆切については映画好きなら誰でも想像がつくけど、いやはやどんな仕事にも理想と現実のギャップはあるものだ。字幕翻訳者は脚本家や監督など制作者の意図をなるべく損なわずにかつ観客にわかりやすい良質の字幕をつくるために日夜努力しておられるのだが、そこに立ちはだかる障害は数限りなく存在している。なぜなら字幕翻訳はビジネスだからだ。クリエイティブではあるけどアートじゃない。制作者と観客と配給会社の板挟みの苦悩。全然ジャンルは違うけど、クリエイティブだけどアートじゃない仕事に就いてるぐりにとっては身につまされる話だ。

外国映画が好きで字幕翻訳家に憧れてる、なんて若者は必読の書です。つかもうみんな読んでるね。間違いなく。
とりあえずぐりは、映画を観てて「なんだこの訳は?」という字幕にぶつかったら、字幕翻訳者だけでなく配給会社のセンスも疑うべきだってことはわかりましたです(笑)。
ところでこの『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』ってタイトルは明らかに最近の「泣ける・純愛・不治の病・感動映画ブーム」に対する痛烈な皮肉だよね。ナァァァ〜イス!(byボラット

余談ですが。『永遠の夏』の主人公3人の役名は、主人公:正行=惑星、主人公の幼馴染みで片想いの相手:守恆=恒星、転校生で守恆のGF:慧嘉=彗星に因んでいるそうだ。それがジョナサン、シェーン、キャリー。…………。
※慧嘉を「惠嘉」と表記してる日本語サイトが多いけど、正確には「慧嘉」と書きます。念のため。

追記。『永遠の夏』の字幕、一般公開時は東京国際映画祭上映時の字幕が使用される予定だそうです。

クロサワまつり

2007年06月17日 | movie
『七人の侍』
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映画史に燦然と輝く大傑作。前回観たのはもう20年くらい前かな?TVで観ました。確か。
今日はお昼前に上映館に着いたんだけど、その時点で7時開映のこのプログラムの残席はなんとたった3。それも全部最前列。午後には立ち見チケットも完売。さすが〜。
3時間半という超長尺の大作だけど、ぜんぜん長さを感じさせない。ホントにおもしろかったです。
いろんな映画に影響を与えただけあって今から観れば「7人のつわものが弱者のために戦う」というプロット自体はシンプルに感じるけど、実際には、闘うとは具体的にどういうことか、守るとはどういうことかを非常に丹念に丁寧に描きこんでいて、なおかつアクションだけでなく、価値観の違うふたつの身分階級─武士と農民─の交流や、戦争の残酷さや虚しさについてもしっかりと余すところなく語られている。あらゆる意味で驚異的な映画ってことを改めて痛感しました。
サルみたいな菊千代(三船敏郎)はサイコーにおもしろかったけど、三船敏郎のセクシーな魅力が全開で、同性愛的な意味ではなく「男が好きな男」ってこーゆーのかなあ、としみじみ思い(爆)。
島田勘兵衛(志村喬)の最後の台詞─ 「勝ったのはあの百姓どもだ。我々ではない」─が重い。このひとことで、この作品はただの時代劇娯楽アクションじゃなかったんだ、と一気に現実に引き戻される。

クロサワまつり

2007年06月17日 | movie
『生きる』
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死期を知った人間がこれまで目的もなく漫然と生きていた自分に気づき、苦闘しながらも進むべき道を模索するというヒューマンドラマ。初見です。
主人公の渡邊勘治(志村喬)が口下手で事なかれ主義という性格もあって、最初は観ていてものすごくまどろっこしいし、テーマの割りにコミカルな印象が強い。でもそのぶん、前半にカフェだバーだダンスホールだストリップだと遊び歩くシーンが連続していて、昭和20年代の風俗を存分に堪能できるのでまったく飽きない。おまけにそのあと、男やもめの渡邊が市役所の部下・小田切とよ(小田切みき)とデートするシーンまである。
一見感動物語にみせかけておいて、後半では煩雑で不条理にみちた非効率的きわまりない役所の機構と官僚主義と、戦後民主主義の偽善を痛烈に皮肉ってもいる。かなり文学的で政治色も強い映画。今はこういう日本映画はほとんどつくられてないよね。技術だけは進歩してるかもしれないけど、自由さとメッセージ性いう意味では後退してんのかも。