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落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

いちばん危険ないきもの

2007年06月16日 | movie
『ゾディアック』
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おもしろかったー。
158分となかなか長い映画ではある。最近のハリウッド映画ってみんな長いけど、長さぶんの内容がある映画というとそうそうない。けどこれは頭からしっぽまできっちりあんこがつまってて、¥1800出して映画を観たよ!という充足感満点です。
以下ネタバレ気味ですが実在の事件をもとにしているので伏せ字にはしません。それでもいーよとゆー方だけ読んでください。

この映画のモチーフは1968年から74年にかけてサンフランシスコ周辺で5人が殺害されふたりが重傷を負った連続殺人事件(wikipediaゾディアック (連続殺人犯))。原作は作中にも登場する当時新聞社勤務のイラストレーターだったロバート・グレイスミスのノンフィクション小説『ゾディアック』。
この本は今回の映画公開にあわせて初めて訳出されたが、日本では今からちょうど10年前に「ゾディアック」という名が全国の新聞を賑わせていた。1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件、いわゆる酒鬼薔薇聖斗事件の犯行声明文が、あきらかにゾディアックを意識したものだったからだ。いわく「私は殺しが愉快でたまらない」。
神戸の事件はその後犯人が逮捕されたが、ゾディアックは未解決のままだ。
未解決の連続殺人事件を描いた映画といえば韓国クライムサスペンスの傑作『殺人の追憶』(関連書『華城事件は終わっていない』)があるが、こちらのモデルとなった連続強姦殺人事件─犠牲者10名─も去年4月に全ての事件で時効が成立し迷宮入りとなっている。

『殺人の追憶』と同じく、映画では真犯人その人は登場しない。物語に主人公が直接でてこないのだ。
映画は事件から一歩離れて、原作者の周囲、事件を捜査・取材した人々の群像劇として描かれている。イラストレーターのグレイスミス(ジェイク・ギレンホール)、事件記者のエイブリー(ロバート・ダウニー・Jr)、サンフランシスコ警察のトースキー刑事(マーク・ラファロ)、第一容疑者のリー(ジョン・キャロル・リンチ)、その他にもたくさんの捜査関係者、情報提供者や捜査対象者がぞくぞくと画面に登場する。
この映画のおもしろさはその無数の登場人物たちの人物造形のリアルさにある。映画の中では実に22年という歳月が過ぎていく。事件に熱狂するあまり身を持ち崩す人もいれば、諦めて去っていく人もいる。そんななかでたったひとり、本来ジャーナリストでもない一介の漫画家だったグレイスミスだけが最後まで事件を追い続ける。他の登場人物たちが髪の毛や肌の色つやを失い太って衰えていく一方で、グレイスミスだけがいつまでも少年のように若々しいのは、彼の事件に対する情熱が22年間変化しなかったことを象徴しているのではないだろうか。
世間が、人々がゾディアックを忘れても、グレイスミスは忘れはしなかった。映画にはほとんど登場しなかった被害者の遺族にしてもそうだろう。だがグレイスミスはそうした被害者意識や正義感でゾディアックを追いかけたのではない。ただ、「向かいあって目を覗きこんで、『お前は誰だ』と問うてみたい」という好奇心が彼を動かしていた。一見不条理に見える動機だけど、ぐりにはその方が共感しやすい気がする。被害者意識や正義感は人を疲れさせるけど、好奇心は人を興奮させるものだからだ。

映画には60〜70年代という時代が事件解決を阻んでいたこともサスペンス要素として効果的に描かれている。
当時はまだコンピューターはおろかFAXさえ普及していなかったし、もちろん携帯電話などというものは影もかたちもなかった。事件はサンフランシスコ市内だけでなくバレーホとナパという郊外の町でも起きていて、この2件は所轄が違っていた。所轄が違えば担当者も違う。情報を共有しようにも伝達手段は電話と郵便だけという時代、ボーダーを超えて全体を調査できたのは警察ではなくジャーナリストだった。しかしジャーナリストやイラストレーターには物的証拠は手に入らない。
またこの映画には「真実の多面性」もはっきりと描かれる。『殺人の追憶』同様、超有力な容疑者が捜査線上に浮上する。2件めの事件の犠牲者ダーリーン(シアラ・ヒューズ)の取り巻きのひとりだったリーだ。状況証拠は何もかもが彼が真犯人に間違いないことを指し示すが、決定打となる物的証拠がみつからない。警察が期待するデータは全てが容疑を否定し続ける。
つまり「絶対的な真実」などは存在しない。現場に残された指紋や遺留品が犯人のものであるという証拠はどこにもない。犯行声明文から採取されたDNAも同じ。筆跡鑑定にも例外はある。容疑者の住居から凶器や盗品、返り血を浴びた服などがみつからなくても、それで容疑が晴れるわけでもない。かといって状況証拠だけでは犯罪を証明することはできない。

この映画の幕切れは確かにあまり後味のいいものではないかもしれない。
でも現実なんてそんなものではないだろうか。さっくりと誰にでも簡単に説明がつく「真実」にほんとうに信憑性はあるのだろうか。それはもしかしたら、誰かの手でわかりやすく加工されていたりはしないだろうか。
結局、真実は人それぞれの心の中にしかないのかもしれない。
それならば、人はどんな真実に対しても、自分自身の魂をもって向きあうべきなのではないだろうか。

登場人物がものすごく多いのに、キャスティングがよくて一度見たら忘れない面構えばかり揃ってるのも見どころでした。リー役のジョン・キャロル・リンチは『バブル・ボーイ』『グッド・ガール』に続いてジェイク・ギレンホールと3本めの共演。バレーホの担当捜査官役のイライアス・コティーズはアトム・エゴヤン作品の常連。
ヒッチコック映画そっくりのトリッキーなカメラワークとVFXも、「今アナタが観てるのはスリラー映画ですよ!」という演出効果抜群でぐりは好きです。
初日なのに私語する観客が多くて環境が悪かったので、できればもう一度みたいです。

原作レビュー:『ゾディアック』 ロバート・グレイスミス著 イシイシノブ訳

沈黙の仮面

2007年06月15日 | movie
『女帝 エンペラー』
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やっと観れました。
とりあえず、隅から隅まで、豪!華!絢!爛!って感じ。
美術とか衣裳がすんごい凝ってる。墨・紅・白といったキーカラーに絞った色彩設計や、舞踊のように華麗なワイヤーアクションなどヴィジュアルははっきりと『HERO』『LOVERS』を連想させる。ハイスピード撮影やVFXを駆使した超スペクタクルな視覚効果も然り。
つまりは二番煎じ、ということもできる。けどぐりは『HERO』にも『LOVERS』にもいっさい思い入れとかないんで(爆)、「それはそれ、これはこれ」でこのゴージャス感を楽しむことはできる。実際、かなり堪能しました。

映像はとにかく綺麗だし脚本も非常に完成度は高い。頑張ってます。
しかし!長い。そしてくどい。重い。ベッタベタ。
原案が『ハムレット』だからオチは万人に読めてるワケで、だからムダにもったいつけないで構成に緩急をつけてくれないと観ていて飽きてしまう。このあたりの失敗はやはり『ハムレット』の翻案だった『ヒマラヤ王子』と同じ轍を踏んじゃってます。ただし『女帝』の方が練られ方がハンパじゃない。いささか練り過ぎてモチ化しちゃってますけど。全体に演出にも映像にも音楽にもメリハリがなくて「ハレ」と「ケ」の区別がほとんどなくて、後半とくにまだるっこしかったです。編集でもっとさくっとぱりっとできたハズだし、それができない理由はどこにもないと思うんだけど。

出演者ではハムレットにあたる皇太子ウールアンを演じた呉彦祖(ダニエル・ウー)がちょーハマってました。元のイメージ=マジメな王子キャラにもあってたし、武術が得意だからアクションや舞踊の演技が非常にキマる。これで声が吹替えじゃなかったらホントにいうことないんだけど。
この映画の主役は彼とガートルードにあたる皇后ワン(章子怡チャン・ツィイー)なんだけど、彼女も好演だったと思う。けどあの三角眉は似合ってない。お面のようなポーカーフェイスを強調するためのメイクなんだろうけど、それでもいっつもこっつも年がら年中あの顔じゃあねえ。観客が感情移入しにくいったらありゃせんですよ。
皇后といえば、ぐりはあの最後の台詞が納得いかんかったです。オチは規制の多い中国映画だからあれでしょうがないとしても、もっと劇的な幕切れになるキメ台詞が他に絶対あるのに、なんでああなっちゃったのかなー。すんげえ消化不良。

まあ、でも、映像の豪華さだけでも観るに値する力作です。それは間違いないと思います。

ちんくいえ。

2007年06月12日 | movie
『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』
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やぐしぇまーしゅ。
昨日「忙しい」とか書いといて今日こんなおバカ映画のレビューを書くのは気が引けますが。まあええやないですか。たかがBlogですから。

意外とふつーにみれました。
てゆーか去年秋にアメリカで一般公開されて、さんざん話題になってたからねー。もう大概のエピソードはネタバレしちゃってんのよ。鮮度は落ちてる。
だからお下劣っちゃお下劣なんだけど『ジャッカス・ザ・ムービー』ほどのパンチ力は感じなかったですね(ハワイで観た。日本で公開される2年以上前)。ぐりは。もっと毒々しいかと思ったんだけど。つかもしやコレ編集されてません?アメリカで公開されたときに話題になったパートが見当たらなかった気がするんだけど。字幕に訳されてなかったとか?
あとね、思ってたよりフィクションのパートの比重が大きかったです。もっとリアリティパートがメインなのかと思ってたんだけど、ボラット(サシャ・バロン・コ—エン)とアザマート(ケン・デヴィティアン)ふたりのシーンがけっこうしつこい。それほどおかしくはないの?ノ長いし多い。
つーてもあの“全裸で大喧嘩”シーンはまじで笑い死にしそーになったけどねえ。コ—エンがなんかのインタビューで「デヴィティアン?フ股間を顔に押しつけられたときは死ぬかと思った」とかいっててどーゆー喧嘩かもとから知ってても、アレは笑える。あーアホだー。

しかし笑い事でなくこの映画はつくるのハンパなく大変だったと思います。
見た目お金かかってなさそーなチープな雰囲気の映画だけど、実際にはそれなりに手もこんでるしお金もかかってる。さりげに空撮なんかやってるし、動物は出てくるし。
“ヒット・エンド・ラン”方式で撮り逃げしながらのロケとはいえ、途中何度も警察に取り囲まれたりスタッフが逮捕されたりトラブルはつきなかったみたいで(当り前)、それこそ「死ぬかと思った」どころじゃない苦労が忍ばれます。スタッフもコ—エンもムチャクチャ頑張?チてる。一見バカばっかやってるみたいで実はすんごい真剣。けど、真剣にやればやるほど、バカはおもしろくなる。
ちなみにぐりが気に入ったのは自動車教習所の教習員。めちゃめちゃクールでコ—エンがどんだけ暴走しても常に冷静。かっこいい(て?艨[か冷静じゃないと事故るもんね)。ペンテコステ派の集会のシーンはアメリカ人なら笑うか怒るだろーけど、映像で初めて観たぐりにとっ?トはただただ物珍しかったです。

¥1800出して観るほどの映画か?と問われればちょっと他人には薦めづらいけど、うん、大丈夫、誰でも笑えるよくできたコメディだと思います。ハイ。
ぐりが観た劇場はガラガラで、後ろの方の列にアメリカ人の若い男7〜8人のグループがいて、ずうっとゲラゲラ笑いこけてました。ときどきどしどしと床を踏みならすのには閉口したけど、こーゆーバカ映画を観るにはいい環境だったかもです。

Antes que anochezca

2007年06月10日 | movie
『夜になるまえに』
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『バスキア』でデビューし、今年のカンヌ国際映画祭では『潜水服は蝶の夢を見る』で監督賞を受賞したジュリアン・シュナーベルの前作。今作でもヴェネツィア国際映画祭で審査員賞と男優賞を獲得している。
もう7年も前になるのだねー。なんでか今まで観る機会がなかった。
これはいいですよ。スゴイですよ。なんとゆーかまったくハズしてない。
一語たりとも無駄なセリフはなく、1カットたりとも間違った映像は使われていない。パーフェクト。
シュナーベルはこれまで撮った3本が3本とも実在の人物の伝記モノなんだけど、ぐりが知る限りで伝記映画でここまで完成度高い作品をつくれる人って他にいないんじゃないかと思います。『潜水服〜』にも期待しちゃおう。

リアリズムと説得力はべつものだけど、彼の作品ではそこがまさに顕著なんだよね。全体に説明は少なくて、情緒的な、感覚的なシーンの羅列に、ときどき詩的なモノローグが挿入される。この物語の主人公は作家だから、ホントに詩を詠んだりする。言葉も映像も一見抽象的。
そして、空気の匂いや温度、風の音や肌に感じる緊張感が、鋭いリアリティをもって観ているものの身体にまっすぐに入りこんで来る映像美。
ちりちりと背筋を焦がすような性的興奮、青くさい草いきれと虫たちのがさがさした脚の感触が混じった野原の肌触り、皿に盛られたさめたむき卵の湿った冷たさ、夏の太陽に照らされた髪の毛の熱さ、鼻の奥がつーんとしてくるような恐怖感、酒とチーズの匂いと酔いに暖められたはらわたのけだるさ、身体中にまとわりつく塩からい砂のべとつき、そんなものがみんな、映像を観ているだけで、目から耳から鼻から口から毛穴からしのびこみ、直接心臓をてのひらに包んでゆさぶる。
そんなことができるなんてほんとうにすごいことだと思う。

原作は主人公でもあるキューバ出身の作家レイナルド・アレナス(ハビエル・バルデム)の自伝。
同性愛者であり作家でもあることでカストロ政権下で迫害を受け1980年にアメリカに亡命、87年にエイズを発病し、90年に自殺した。
だが映画では具体的にいつどのようにして彼が作家を志しどんな迫害があったのか、どういう経緯でHIVに感染してどんな闘病生活を送ったかといった説明はやはりない。それよりも、アレナスが自分の作品をどんなに大事にしていたか、迫害を受けたことをどう感じていたか、エイズを発病したことをどう受け止めていたかを、ひとりの当り前の人間の皮膚感覚、胸の震え、魂の叫びとして描いている。
そうした「感情」は誰にでもわかるものだからだと思う。作家の芸術精神や社会主義政権化での差別や病気の痛みは、ともすれば当事者以外には共感しにくいものだ。だから、そのインプットはすっとばして、アウトプットとしての感覚・感情の末端部分を、とにかく丁寧にキチンと描くことで、観ている人間の内面に、アレナスという人物を立ち上げようとしているのではないだろうか。
逆に、題材や社会背景の重さのようなものは直接感じられない。アレナス本人にとってゲイであることや芸術家だったこと、迫害を受けたことは他に選びようのない運命だったのだから、実際その場では物事の軽さ重さなど比較できない。だからこそ、最期の孤独のせつなさが悲しい。激動の60〜70年代を投獄までされながら生き抜いて、故郷を捨ててまで勝ち取った自由だったのに。

『バスキア』もめちゃめちゃ感動したけど、これもすごく好きだ。
アレナスの本はこれまで読んだことがないんだけど、この機会に読んでみます。
ところでアレナスは作家のクセに毎度筆記用具を他人に借りてるのがおかしかったです。写真家ならいつもカメラを持ち歩くものだし、画家ならスケッチブックは常に必携、作家なら紙とペンくらい持ってて当り前、なんてのは固定概念にすぎないのかもしれないけれど。たぶん意図した演出なんだと思う。
ジョニデのドラアグクィーンは噂に違わず色っぽかったー。すんばらしー。ヒゲ生えてんのにつけ睫毛ばっちり、ぷりんとしたおしり半分まるだし、オシャレすぎます。完璧。美しー。ステキ。出番は少なかったけど、確かにこりゃキョーレツですわ・・・。

Antes que anochezca

2007年06月10日 | movie
『トゥルー・ブルース』
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1990年のTV映画。14歳で継父にレイプされ、母親に家を追い出され、逃げるように結婚した18歳の夫に3ヶ月で棄てられ、行くあてもなくストリップクラブで踊り子になり、タバコやアルコールを覚えドラッグに手を出し恋に敗れ、殺人犯にまで転落する少女を描いた佳作。
主演はジュリエット・ルイスとブラッド・ピット。ただしルイスはまだ『ケープ・フィアー』でブレイクする前、ブラピも『テルマ&ルイーズ』で注目される前の作品です。ふたりともすごーく初々しい。カワイイ。この共演がきっかけでしばらく交際してたらしーけど、このふたり10歳も年が離れてます。しかしブラピの今の彼女であるアンジーはルイスよりさらに2歳下。年下好きなのね。

TV映画だけあってシナリオの完成度にはかなり怪しいところもある。つるつると調子よく話が展開しすぎ。ヒロインの転落になんのひっかかりもない。アマンダ(ルイス)はまず母に、夫に、そして恋人にと次から次へと信頼すべき相手に裏切られ棄てられ続けるのだが、彼らがアマンダを放り出すまでの経過がかなり段取り的で、それぞれにあるはずの葛藤がろくに描写されていない。
それでもこの作品がこれだけの高評価を得ているのはひとえにルイスの天才的な熱演によるものだと思う。撮影当時16歳とは到底思えないほど卓抜した圧倒的な表現力。純粋で無邪気で、誰もがつい手を差し伸べて抱きしめたくなるくらい愛らしいけど、永く抱えて歩くにはいささか大きすぎるお人形。人々は子ネコでも拾うように彼女をかわいがり、飽きて面倒になればぽいと投げ捨てる。そういう子ネコちゃんのような蠱惑的な淫靡さと、お人形のようなオモチャのような哀れな愛くるしさを見事に体現してます。天晴れ。
ブラピの汚れ役もおもしろいけど、彼女のなりきりぶりに比べたらまだまだただ小器用なだけのレベルに見えてしまう。

17年前の作品だが、この物語に描かれている社会問題はアメリカだけでなく日本でも今なお現実のものだ。
児童に対する性的虐待、ネグレクト、児童ポルノ、性犯罪、ドラッグ、レイプ、子どもが犯罪に奔るためのお膳立ては社会にみちみちているのに、一旦裏社会に飲みこまれた子どもを救い出すための公共システムはまったく未開拓のまま、少年犯罪に対する厳罰化ばかり進んでいる。
子どもの犯罪には社会にも責任がある。誰にとっても他人事では済まされない。それなのに、世の中は「腐ったリンゴ」1コを処分するだけで問題から目を背け続けている。
ぐりは死刑反対論者ではない。それでも、死刑以外にも罪を償う方法はいくらもあるし、犯罪を犯してしまった人にもできる社会貢献の形があるはずだと思う。
感情論や被害者意識だけで犯罪を語るのはとても危険だ。これから裁判員制度が導入されようという今だからこそ、そのことをもっと我々は真剣に考えるべきではないだろうか。