落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

環境保護の罪

2008年06月27日 | diary
「私のこころはすごく悲しいです」 ブログ炎上に高樹沙耶が綴る

こないだ学生時代の同級生と話していて、在学中にふたりでやってた再生紙の話になった。
ぐりと彼女は同じ工房に所属していて、カリキュラムとは関係なく、自分たちで勝手につくった紙を使って作品制作をしていた。
原料は近隣の工房で余った紙の耳や牛乳パック、新聞紙。集めて来た材料はまず、手で大雑把に裂いて苛性ソーダか市販の漂白剤を溶かした水に浸けて柔らかくする。数日浸けておいて充分にふやけたら、それを3〜4センチ大まで手で裂いて木綿の枕カバーに詰め、洗濯機でぐるぐるまわす。いよいよゲロ状(爆)になった紙を、今度はジューサーにかけて繊維状に砕き、それを漉く。漉いた紙は濡れたまま厚ボール紙に挟んで重しをする。1日1回厚ボール紙を交換して、生乾きまで水分がとれたら型をプレス、再度厚ボール紙に挟んで乾燥させて出来上がり。
所要日数は最低でも夏場は10日、冬場は2週間以上かかった。ぐりと彼女は大学卒業の年の1年間ずっと、毎日毎日ひたすら紙をつくり続けた。続けないことには作品の制作が追いつかなかったから。スケジュール帳には常に、紙を漉くタイムテーブルがびっしり書きこんであった。
この工程を読めば誰でもわかると思うけど、再生紙をつくることはそれだけでも相当な環境破壊になりえる。大量の水を汚すし、防カビ処理に揮発性の化学薬品を使うので空気も汚れる。ぐりと彼女はいつも、ゴーグルとガスマスクをかぶり両手にはラテックスの手袋をはめて作業をしていた。見た目にはムチャクチャ怪しいけど、防カビ処理をした濡れ紙はとても目も開けていられない、まともに呼吸も出来ないほどの刺激臭を発するし、手の皮膚も凄まじい勢いで荒れる(発ガン性もある)。工房に所属してた同級生が彼女とふたりきりだったから許されてたんだよね、あの暴挙(爆)。我々も確信犯だったなあ。

何がいいたいかっつーとつまり、エコだ環境保護だっていっても、なんだって物事には多面性があるってことなんだよね。絶対正しい正解なんてこの世の中には存在しない。
紙でもペットボトルでもなんでも、リサイクルはいいことだ。ひたすら木を伐り続けたり石油を汲み上げ続けたりするよりはマシだ。けど正解はそれだけじゃない。リサイクル以前に、買物袋(エコバッグなんてかっこよく呼ばんでもいいと思う)を持ち歩いたり簡易包装を心がけたり、ムダな消費を控えるのも答えのひとつだ。何につけてもムダ遣いをしないという精神はもともとは環境保護とは関係がない。意味のない消費なんてそもそも必要ないし、モノを大事にするなんて人としての基本的な倫理観の問題ではないか。
だから、環境保護をお題目に唱えさえすればそれで一事が万事すべて善、な雰囲気の最近のエコブームもちょっと現実的じゃないよと思うし、ぶっちゃけていえば気持ち悪いです。エコがひとつのブランドかなんかみたいになっちゃってる。

リンクした記事中の高樹沙耶さんのボランティア募集記事はふだん読んでる某ブログで読んで知ってたけど、炎上するほどの問題はなんにもない。まあ言い方はちょっと微妙かもしれない。ボランティアって聞こえはいいけど要するにタダ働きってのは事実だし、最近はやけに気軽に何の必然性もなくボランティアを募集するイベントやら団体が増えて、少し前からほうぼうで反発が起きてるのも耳にはしてたから、あるいは高樹氏側がちょっと無神経だったのかもしれない。同じ説明でも、表現ひとつで印象全然変わるからね。たとえばボランティア側のメリットが初めから明確に提示されてれば反響はちょっと違ってただろうし、逆に、食費や宿泊費などの参加費が明示されてればわざわざ“ボランティア”なんて誤解を招く言葉を使わなくてもよかったかもしれない。
でもこの炎上の原因のひとつは、もしかしたら、ここんとこやたらにかまびすしいエコエコエコの大合唱に対する不快感の反動ともいえるのかも。ここまで一方的にうるさくなったら強制的で説得力も何だかなって思う人もいて当り前。エコでも動物保護でも人権活動でもなんでも、正義=諸刃の刃ってことを自覚して活動するのはすごく難しいことなんだけど。

けどいちばんハッキリしてるのは、ブログを炎上させて楽しむ人種ってのがいることだったりしてね。


待ち犬。スーパーにて。

セックス免許

2008年06月26日 | diary
先日に続きまして某SNSの話。

HIV関連のコミュにいくつか参加しているのだが、そこで最近ちょくちょく、「これこれこういうことがあってこんな症状が出たのだが、自分はエイズ/HIVに感染したのか?」という質問トピがたつようになった。
コミュの参加者はもともと医療従事者や陽性者、支援団体関係者、ぐりのようにHIVをとりまく社会環境に関心をもつ者など、あらかじめそれなりに知識のある人が多く、これまではトピ内容もHIVに関連する新情報やシンポジウムやフォーラムなどのイベント告知が主だったのだが、ここ数ヶ月は様子が変わって来たようだ。
まあネットなんて誰がどう使おうが自由なので、コミュがどう変わろうが誰がどういうトピをたてようが、運営者でもないぐりが文句をいえる立場ではない。

それでもぐりが呆れてしまうのは、質問をする人々のあまりの認識の甘さである。
感染が疑われるような行動をしてしまったことは今さら責めても意味がないし、責めようとも思わない。だがネット上で無知をさらす前に自分で検索かけるとか本を読むとか、情報を集める努力をなぜしないのか。大体、彼らはHIVとエイズの区別もよくついていない。あまりにも緊張感のない(緊迫感はある)文面に、陽性者の参加者がどんな気持ちを抱くか、どうもまったく想像がつかないらしい。完全にHIV以前の問題である。

少し前にHIVに関するミーティングに出席して20代の若者たちと話す機会があったのだが、彼らの受けて来た性教育の貧しさに唖然としたことがあった。
以前にも何度か書いたことがあるが、80年代に中高生だったぐりはそれなりにまともな性教育を受けたと認識しているし、HIV/エイズを含む性感染症についてもひととおり基礎的な授業があったように記憶している。だが現在の20代の子のなかには、「セックス」「コンドーム」などという単語が学校で禁句とされていたという子や、まったく性教育の授業がなかったという子もいるのだ。
ありえねえ。だって生まれつきカラダに備わったひと揃いの性器の扱い方くらい、学校で正しく教えるなんて当り前のことでしょう。親は教えらんないし、教えられる子だって親相手じゃムリっすよ。
それでホイホイとフーゾクやらハッテン場で無防備にセックスしまくって、「やべ、オレ/アタシ感染したかも」ってそりゃねーぜ。アホか。

コミュを介して、ぐりのところにも見知らぬ相手から「感染したのか教えてくれ」的なメッセージが来るようになった。
ぐりは医療従事者でもHIVの専門家でも何でもない。いくつか資料をみて、本を読んで、トークイベントに参加して、陽性者の話を聞いて、それでも備わった知識はせいぜい常識程度でしかない。その範囲で答えられることは返信はする。最後に「保健所で検査しろ」と付加えることも忘れない。
でも本当は、「何をどーしたらHIVに感染するかも知らないでセックスなんかしてんじゃねーよバーカ!!」と、大声で叫びたい気持ちである。
やってらんねえよ。


銃身の長さが2メートル40センチもある鉄砲。名古屋城にて。

どこいくねん

2008年06月25日 | diary
毎日新聞が謝罪、関係者処分 「低俗過ぎ」英文記事への批判で
「変態」記事に漫画家が抗議 毎日側の対応にネットで批判

ぐりは問題のMainichi Daily News自体を読んでないのでなんともいえないんですがー。
けどこの手のほぼフィクション的おもしろバカ記事って、けっこう他の新聞や雑誌でもよくありますよねえ。そーゆーの全部けしからんってことにしちゃったら、新聞・雑誌そのものがツブれちゃたりするんじゃないかなあ。大体、こんなの真に受けてる読者がいるとは思えませんし。いたからどないやっちゅーの。
毎日はMainichi Daily Newsが英語サイトだから処分したのかな?そこんとこ実際どーなんでしょーね?もしそーだったら笑えるわー。だって日本語サイトと英語サイトの間に壁なんかないもんねえ。海外のネットユーザーでも日本語で日本のサイトみてる人、いーっぱいいるもんね。日本語サイトをみてるのは日本文化を解する日本語ネイティブだけって思いこみが未だにあるみたいだけど、その発想戦前から止まってますて。
まあどっちにしても、ジョークの通じん世の中ってサムいわー。


マスコミの歪曲報道をただした市民メディア 報道に疑問感じたら自分で調べることが大事
報道に疑問感じた毎日新聞社にも電話取材 マスコミの歪曲報道をただした市民メディア(2)

本文中にとりあげられてる記事はこちら。
不適切発言:「9・11テロは米の自作自演」中学教諭、発言 神奈川・藤沢

この記事のどこがおかしいかってのは上のリンク先でもわかるんだけど、大雑把にまとめると
1)学校がPTA役員に謝罪した事実はない。
2)抗議の電話をかけたのは生徒とは無関係の第三者。
3)記者は当該中学、校長、担当教諭、授業に出席した生徒のいずれにも取材をしていない。
の3点ということになる。
つまりー、授業内容をほとんど把握もせず、どっかの誰やらのタレこみと市教委のコメントだけで記事をデッチアゲたってワケ。

いちばん笑えるのは、問題の授業のテーマが「マスコミ報道を鵜呑みにするのではなく、自分で情報収集し自分で考える“メディアリテラシー”」だったのに、それをネタにしてさらに「マスコミ報道は鵜呑みにできない」事実を自ら上塗りしちゃってるってとこですね。
爆笑してもええんとちゃいますかね、これ。
しかし一般市民が学校に電話して校長にウラとってんのに、それすら毎日の記者はやらずに堂々と記名入りの記事にしちゃってるのも意味不明なり。
いちいち威張る前にやることちゃんとやりなよってカンジっすー。


薔薇空間展にて。

壁の迷宮

2008年06月24日 | book
『累犯障害者─獄の中の不条理』 山本譲司著
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以前読んだ『福祉を食う―虐待される障害者たち』という本に書かれていた、犯罪の被害者となる不運な障碍者たち。
健常者はつい忘れがちだが、障碍を持つ人々も人間であるからには、ただただ善良で従順な人ばかりとは限らない。彼らにも当り前に欲望があり、憎悪という感情もある。犯罪に巻き込まれる人もいれば、逆に自ら罪を犯してしまう人ももちろんいる。
だが日本のマスコミでは彼らの存在は決して報道されない。スポーツや芸術など才能を問われる分野などで努力して活躍する障碍者たちのあたたかい話題は、時に美談として時にメロドラマとしてもてはやされそこすれ、社会から転落し刑務所か閉鎖病棟かヤクザ以外に行き場を失った障碍者の存在など、マスコミにとっては扱い難く厄介なだけの代物に過ぎない。差別を助長するからなどというもっともらしい理由をつけられて黙殺されつづける日本の障碍者たち。
著者は衆議院議員だった2000年に発覚した秘書給与流用事件で服役した際に、刑務所内で刑務官の補助を担当するなかで多くの障碍者受刑者と知りあった。その経験を活かして取材したのが本書である。

読んでいて何度も、あまりの悲しさと怒りで身体が震え、涙がこみあげ、猛烈な吐き気を催した。
いったいこれは何の話だ。ひどすぎる。悲惨すぎる。どうしてこんなことが、文明国家といわれるこの国で起きるのか。全然理解できない。ありえない。信じられない。
うまくまとめられそうにないので、要点を箇条書きに列挙する。

・日本の知的障碍者のうち8割ほどが障害者手帳を取得しておらず、従って福祉行政の支援をほとんど受けていない。存在自体が国に把握されていない。このため障害者年金や生活保護などの制度を知らない障碍者が非常に多い。

・日本の全受刑者中3割弱が知的障碍者といわれ、そのうち7割以上は再入所者。そのまた2割が10回以上服役を繰り返している。罪状は置き引きや万引き、無銭飲食、住居侵入などの軽微な犯罪が多い。

・知的障碍者には自らが犯した罪の重さがほとんど理解できないうえ、服役中にも矯正教育や社会復帰のためのプログラムなどはいっさい課されていない。

・にもかかわらず、いったん犯罪を犯した障碍者を受け入れる福祉施設はほぼ皆無に近い。仮釈放中の保護観察も満足に機能していないため、ホームレスになるか、再び犯罪を犯して刑務所に舞い戻るか程度の選択肢しかない。

・引取り手のない重度の知的障碍者は精神科専門病院の閉鎖病棟に入院する場合がある。刑務所によく似た環境だが、刑務所で禁止されている拘束用具がここでは公然と使用され、薬物漬けにされる患者も多い。こうした病院を監視する国家機関は存在しない。

・日本では古来、知的障碍を持つ女性に売春をさせるのが社会習慣と化している。売春をしていた知的障碍者の母から生まれた知的障碍者の娘がまた売春をする、などというケースも多々ある。

・知的障碍者に覚醒剤をうつなどして売春を強要するのも、障碍者を幾人も養子にして障害者年金を巻き上げているのも健常者であり、暴力団に関わりを持つものも少なくない。

・先天的聴覚障碍者がつかう手話と聴者がつかう手話には互換性が乏しく、取調べや裁判の際につく手話通訳の精度は非常に疑わしい。実際、本人が主張しているのとはまったく違ったニュアンスで訳されてしまうことも多い。

・学校教育を受けておらず、手話も口話もいっさいできない聴覚障碍者も少数だが存在する。もちろん他者とコミュニケーションをとることそのものに非常な困難がある。

・口話教育にカリキュラムの大半を割かれる日本の聾唖教育では、社会生活に必要なだけの教育程度がカバーされない。このため聴覚障碍者と聴者との世界観には言語の壁以上の齟齬があるものと考えられるが、その事実はまったく認知されていない。

(本文とは直接関係ないが、ぐり的に追記。
聴覚障碍者、視覚障碍者といっても障碍の程度は人それぞれで、まったく何も聞こえない人もいれば、音は聞こえるがそれを言語として解することができない人、補聴器や人工内耳で相応の聴覚を補完できるというレベルの人もいる。視覚においても、明るさは感知できてもモノの形はわからない人から、まったく何も見えない人まで「見えない」レベルの範囲は意外に広い。このため障碍ゆえの孤独さにおいても、障碍があるというだけでひとくくりにはできない)

いかがですか。

本書では下関駅放火事件浅草・女子短大生刺殺事件『自閉症裁判』)、宇都宮・誤認逮捕事件、知的障碍者の売春、浜松・ろうあ者不倫殺人事件、ろうあ者だけの暴力団、福祉・刑務所・裁判の問題点の7つの章にわけて、犯罪に関わる障碍者たちと社会とを隔てる巨大な溝について述べている。
だがすべての章に共通しているのは、彼ら障碍者が社会から無視され続け、いないもの、いなくてよいものと看做され続けることの理不尽さである。
少なくとも、この本に書かれているようなことは一般のマスコミでは決して触れられることがない。事実なのに、国民に知られる機会がない。知られないということは、存在を否定されているのと同じことだ。

誤解のないようにいっておくが、ぐりは障碍をもつ犯罪者にも健常者と同じように罪を償う義務は当然あると考えている。
だが、今の日本の裁判では障碍者は当事者であるにも関わらず完全に蚊帳の外も同然の状態であり、更生を目的としているはずの刑務所でも入れられているだけでほとんど放置されているようなものである(今年秋に障碍者向けの刑務所がやっと開所する予定)。
それでは何のための裁判かわからない。当事者である被告が裁判についてこれないのに、どうやって真実を明らかにするというのだろう。国民の税金をつかって服役させている受刑者に更生する手段が与えられてないなんて完全に無駄遣いでしかないし、ひいては防犯政策の面でも大きな課題といえるのではないだろうか。

山本譲司氏の著書を読むのはこれが初めてだけど、他にもとても興味深い題材で何冊か出ているみたいなので、今後機会があればまた読んでみたいです。
ふー。

カビカビ

2008年06月23日 | diary
家の中のものすべてがカビくさい。
ぐりのうちは築40年の木造家屋。相応にボロい。この季節になると越したくなるけど、済んだらそんなことは忘れてしまう。
そして1年後の梅雨時にまた「越すべき?」と思う。


名古屋のドラッグストアで発見した脂取り紙。
他にも下着シリーズでバンドエイドとか携帯ストラップとか、意味不明なグッズがいろいろあった。