百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

父の日 満艦飾

2011年06月19日 | 人生航海
1978年(昭和53年)の6月第3日曜日。

父と一緒に過ごした最初で最後の父の日。

たまたま、船が東京湾に停泊したため、父は、二人の息子に会いに来た。

当時の私は、21歳の大学生。

次兄は社会人兼大学生・・何故か、あの日は連絡が取れず会わずじまい。

結局、私が、背広姿の父を日曜日の東京案内することになった。

当時、日本一高かった池袋のサンシャインビルに上ったり、明治神宮を散策したり、新宿の小田急か京王デパートの屋上で雑談をしたことを思い出す。

アルバイトの報酬があったのであろう・・私は、デパートでカフスボタン買って、プレゼントを贈った。

夕方になり、「俺の下宿家に泊まるか?」と父に訊くと、嬉しそうに「行ってみるか」と答えた。

中央線に乗って、杉並区南荻窪にある私が暮らす下宿家まで行く。

風呂無し、賄い無し、共同トイレ、共同洗濯機、共同洗い場・・父が、大家さんに、そこそこの挨拶をして、私の部屋を案内する。

小さな部屋に万年床のような布団一枚・・「親子一緒にここで寝るよ」と言う。

父は、何一つ表情を変えずに「うん」

親子二人で、近所の銭湯(風呂屋)まで行く。

同じ布団の中で、父と子が、枕を二つにして寝る。

「結婚したい相手がいる」と父に話しかける。

「・・卒業して就職先をみつけて仕事や生活が安定して結婚しろ」と、その程度ぐらいの事を言われると考えていたが・・何も言わない。

「いい女か?」とだけ訊いてきた。

「わからない」と答えた。

翌朝の月曜日、荻窪駅近くにある喫茶店で、モーニングセットを食したあと、父は、職場である船へ。私は、講義のある学校へ・・。

当時、続けざまに三人の息子を東京の私立大学に進学させて、我が家の経済状態は、どれほど逼迫していたのかと想像できる。

翌年、末っ子の私が大学を卒業すると同時に、55歳になった父は、きっぱりと船乗りを辞めて陸に上がった・・仕送りをする事もなくなり、年金を貰える年齢になったからである。

父のいちばん輝いた時期は、30代と60代だったかもしれない。

父は、60歳になってNTTの百島販売代理店を開いた。

ダイヤル電話をホームテレホンやプッシュ電話に切り替えてほしいという営業販売である。

百島だけでは、ごく僅かな顧客数である。

物足りないので、松永局を皮切りに、売り上げがどんどんと伸びたせいか、NTTの情報月刊誌にも紹介されたらしい。

広島支社からも表彰状を受けて、尾道局、福山局エリアも開拓して営業をするようにと依頼があったのである。


(NTT時代の表彰状の一部)

毎日のように、父は、備後地区をバイクに乗って走り廻り営業に出て行った。

まだ、携帯電話が一般化されていない時代である。

70歳近くなった父は、ショルダーバッグのような大きな携帯電話を持ち歩いて、バイクで営業に出かけていたのを思い出す。

だから、百島の我が家は、今尚、電話がたくさんある。

トイレの中まで、電話がある。

70歳になり、父は、NTTの販売代理店を閉じた。

「跡継ぎが、いないからだ」と言っていた。

「電話屋の商売なんて・・」と、我ら兄弟は、正直考えていた。

・・が、まもなく携帯電話の時代に突入したのである。

船乗りにもなれず、父が暗示した道にも歩まず・・。

・・どうにかこうにか生きている。

父が、私の下宿家に泊まった日・・後日、母に言ったそうである。

「子も苦労している」

あの時の父の年齢(54歳)と、私は、同年齢になった。

・・子も親も大事。

親孝行は、親が生きているうちにする事が、誠の親孝行である。

今日は、父の日である。

父が、30代の頃・・である。

船乗りとして、父が、いちばん充実して最良の時期であったに違いない。

船長としての父の見栄であったのだと思う。

正月になると、百島の泊港の波止場に繋船して、国際信号旗を満艦飾で掲げていた。

新年の仕事初めの始発港を、百島にしていたのである。



(写真は、1963年(昭和38年)正月 百島 泊港にて 檜丸)