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100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

大阿闍梨~無始無終~

2013年09月26日 | 千伝。
再び昨今、「食べてはいけない」という戒めを忘れてしまいます。

朝、お腹が出っ張って、「ここはどこ? 今、何時?、俺は誰?」・・?

意識がはっきりするまで、こんな状態です。

・・認知症?

・・京都の大学で、今一緒に学ぶ同年齢のNさんからメールが届きました。

この方は、しまなみ海道100キロマラソンを走破、山も谷も駆け抜けるくらい元気のある方で、メールには、比叡山の千日回峰行の「荒行」を二度走破された比叡山大阿闍梨(あじゃり)の酒井雄哉さんが亡くなられたことが書かれてありました。

メールには、地元新聞のコラム記事も抜粋記載してありました。
「遷化とは、この世の行を終え、他の世に教えをうつすこと。生き仏の役割を全うし、再び自由な足腰を得た白装束の笑顔を思う。仰ぐ比叡に酒井さんはいる。「今日の自分は今日でしまい。明日の自分はまた新しい」と励まし続ける。

比叡山の千日回峰行とは・・?
酒井雄哉さんとは・・?

下記にインターネットから=阿闍梨誕生=を抜粋させていただきました。

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○比叡山の修行の一つに千日回峰行と呼ぶ荒行がある。山中の峰々や谷を巡拝し、修行することである。延べ千日にもわたる修行の中では、病気になっても、一日たりとも休むことを許されず、失敗したら「死ね!」という不文律のある荒行である。
〇酒井雄哉師は、大正十五年九月五日生まれ、百日回峰行を行ったのが、四十六歳のとき、千日回峰行を始めようと決意したのが、昭和五十年四月七日、四十九歳のときであった。戦後この千日回峰行を満了した僧は七人。そのほとんどが、三十代にこの修行を行っている。千日回峰行は、何月何日から何月何日まで回峰をおこなうと、その時期が細かく決められていて、一、二、三年目は毎年百日間、四、五年目は二百日間、六年目は百日間、最後の7年目は二百日間と延べ七年にわたって千日回峰行を行う。
〇行者はさらしの腹巻をしめ、白い帯をその上にしめ、白麻の淨衣を身につけて、小五条けさをさげ、白い経袋を肩からかける。わらじをはき、蓮華をあらわす笠をかぶり、小田原ちょうちんを左手にさげ、右手に2mをこす杖を持つ。
 この回峰行者の姿は、不動明王をかたどっているという。左手に大きな数珠を、腰には降魔の剣をつける、万一回峰の途中で歩けなくなったら、自害しなさいという意味である。
○毎日巡り歩く比叡山一山の全長は、四十キロに達する。山あり谷ありの行者道を八時間余りで歩くのである。途中、定められた礼拝所が二百六十ヵ所もある。この回峰を、のべ千日の間続けるのである。毎日の睡眠時間は三時間余り。食事は一日二食、少量の精進料理を取るだけで、この一年、米のご飯を食べていないという。お膳の上には、冷やしうどん、じゃがいもの塩蒸し、豆腐の胡麻味噌あえそれだけがのっている。毎日二食、変わらず同じ献立という。「今年の秋、七百日を歩き終えると堂入りを迎えます。そうなれば、九日間、飲まず食わずですごさなければなりません。この一年はそのための準備期間。
○昭和五十三年十月二十六日、回峰七百日目を迎えた。行者は回峰七百日を満行すると、すぐその日から無動寺谷・明王堂に篭り、九日間、断食・断水・不眠・不臥の行に入らなければならない。行者は、この期間中、飲まず、食わず、寝ずに一心に祈りつづけ、不動明王と一体になることを願うのである。
〇「恭しく大聖不動明王の本誓を仰ぎ、謹んで回峰行門始祖建立大師の冥加を被り、行道七百日を満じ、来る十月二十六日、堂入の厳儀を相迎えますことは、無上の喜びで御ざります。ここに愚鈍の行者雄哉、畢生の悲願を凝らし、九日間断穀断水、心身を清めて明王の心地に到達せんことを期す覚悟をいたしております。」と堂入りに先立つ案内状を送っていた。
〇堂入りに先立ち、座奉行と呼ばれる僧が、酒井師に代わって挨拶した。「北嶺行者酒井雄哉は、これまで利自行を行ってきたが、もし不動明王が利他行を赦すとおっしゃるなら、生きて再び皆様方とあいまみえることができるでしょう。しかし、その要がないと判断されたら、今日が永遠の別れです」
〇午後一時合図の梵鐘が鳴った。酒井師は、明王堂への急な石段を一段一段踏みしめるように登り始めた。
 「嚢莫三曼駄縛日羅赦。戦陀摩訶路灑拏。・・・」周囲に詰めかけた信者の間からいっせいに不動真言の合唱が湧き上がる。お堂に入った師は、真言を唱えながら三百三十回の五体投地の礼拝を続け、別れに集まった一山の僧が、一人また一人と堂内から姿を消し、堂内には酒井師一人残った。正面の扉が閉められた。これからは、眠ることも、体を横にすることもできず、一切の水、食物を口にすることができない。ただ、不動明王と対座して、十万遍の真言を唱えるだけである。「九割九分九厘九毛、生きて再び堂から出られる可能性はありません。しかし、そのわずかな、糸のような細い望みをお不動さんに託したのです」堂入りの前、酒井師はそれにのぞむ気持ちをこのように語っていた。
〇明王堂の内部は、内陣と外陣に仕切られ、行者は、午前三時、午前十時、午後五時とそれぞれ一時間弱ずつ、内陣でお勤めを行い、あとは外陣の一隅にある籠り所に退く。ここで禅定の形に坐って、十万遍の真言を唱えるのである。真夜中の午前二時一日に一度だけ行者は閼伽井まで小さな桶をさげて、仏に供える水を汲みに出る。信者が師の無事な姿を確認できるのはこのときしかない。
〇昭和五十三年十一月三日午前一時、明王堂の周りは、酒井師の出堂の姿を一目拝もうと徹夜でつめかけた人で埋まっていた。真言の唱和が始った。午前二時、裏堂の木戸が開けられ、師が最後の取水にあらわれた。頬は削げ落ち、青白い顔に見開かれた目が異様に目立つ。取水をおえた酒井師は、最後のお勤めに入った。そして午前三時、本堂横の扉が開かれ、人々は堂内に出堂の儀を拝もうと入っていった。堂内では、誉田執行が、堂入りの行が終った旨を読み上げた。「ほおの湯」を一口つけて、不動明王を礼拝しながら、堂内を三回回った。阿闍梨誕生!

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・・凄いですね!

一日一生・・?

「今日の自分は今日でしまい。明日の自分はまた新しい」

感謝 合掌。