昨日は、百島の泊で潮干狩りがあったようだ。
母と長兄も、少しの間・・潮干狩りを楽しんだようである。
小生が、子供の頃までは、ホントにうじゃうじゃとアサリが獲れたものである。
そして・・漁協(浦島漁業協同組合)による制限もなく、いつでもどこでも自由に潮干狩りが楽しめた・・生活の一部だったのである。
大きな鍋にいっぱいに、あふれるぐらいの貝(きゃぁ)を食べては、貝の殻を捨てていた。
ホントに美味しかった!
「百島の貝(きゃぁ)は、日本一美味(うま)いんですよ!・・」
・・とテレビの画面の中から絶賛した方がいた。
百島の福田地区出身の内外衣料(シルバーオックス)の創立者 西崎保三氏である。
1982年(昭和57年)頃、地元広島県の新春テレビ番組「広島県出身の経済人 故郷を語る」・・そんなタイトルのテレビ番組で、百島の貝(きゃぁ)を絶賛紹介していたのを憶えている。
小生、至極当然同感共感を覚醒したものである。
以来、小生・・グンゼでもなく、ずっとシルバーオックスの下着衣料を買っていた。
残念ながら、二代目の経営になって・・内外衣料は、昨年か一昨年に倒産した。
(因みに、グループサウンズの「オックス」という名は、テレビ番組のスポンサーだったシルバーオックスから採られたものである。田宮二郎や山口崇が司会していた「クイズ・タイムショック」のスポンサーも内外衣料(シルバーオックス)であった時期もある。)
小学生の頃、西崎保三氏が、母校の百島小学校、中学校にグランドピアノを寄贈している。
あの眩しいぐらい大きかったピアノは、どうなっているのだろう?
さらに、日本一美味い百島貝は、健在なのだろうか?
小生の父も「百島の貝は、日本一美味い」と言っていたのを思い出す。
写真は、父が描いた油絵「汐干狩り」1982年(昭和57年)頃の作品。
「百島はその昔、五十鈴島と言われていた。其の頃は島が二つあって、両方とも此方が五十鈴島だと言ってきかなかったそうな・・。両方の島の長が相談した結果、二つの島が仲直りをして手を結び、五十鈴を二つ合わせて百島にしようと名前が百島になった。という。そう言えば福田姓と泊り姓は極端に姓名が異なる事も、二分されていた根拠が無いわけではないですね。私の姓が旗手で泊りには1軒しか無いことも、福田の分家である事もうなずけます。」由来も真相も不明です・・しかし、何故か頭の片隅にいつも残っているのです。
更に百島あさり〔きゃあ〕は本当に美味しかったです。私は夕時になると、味噌汁の煮出しにアサリを掘る役目を与えられていた時期がありました。幼少の頃には島全体の食糧事情が非常に悪かったため、誰もが毎日毎日掘り返すものだから、最後には小指の爪のようなものまで持ち帰ったことも記憶に残っています。
今でもこのあさりの栄養価のお陰で身体の組織が出来ているのかもしれません。何故なら肝臓は非常に強靭だからそう思うものです。
お父さんの絵を拝見しまして、素晴らしいと思います。色彩を巧みに表現できる人を、私は尊敬します。何故なら私の知る限り、上手に色を重ねる事ができる人は、皆さんが頭脳は明晰な人が多いからです。ちなみに私は絵が下手です。
身近にこんなに優れた船長が居たものが、一度も同じ船に乗船する事も出来ず、話すことも無かった事は不思議であり不幸であったと悔やんでなりません。
その後「ふさと兄さん」と言う人を思い出しました。彼とは北海道の釧路港でよく出会うことがありました。多分、広三さんの叔父さんだと理解をするようになりました。
百島をこよなく愛されている思い出の数々を有難う・・まるで浦島太郎になり、過去と未来を行ったり来たりする懐かしさです。
貴方のように力強い表現の筆力は出来ませんが、なんとなく居ない弟に話しかけているような気分にもなります。
おすそ分けは・・書き込む時間が足りなくてそのまま丸裸で封書に入れました。初めての送付にしては、随分と失礼であったと思いますが、お許し下さい。
それでは今日も元気にスタンバイ・・錨を巻け・・帆を揚げろ・・。
百の名の由来に関して・・:
私の考えですが・・百島の名の由来は、はじめに磯島と五十鈴島と隣りあった二つの島の両方に「桃」の樹が沢山あって、二島あわせて「桃島」ではなかったのではないのか?・・と考えるのです。・・と言うのは随分昔に読んだ尾道の歴史テキストに中国大陸に押し寄せた倭寇に桃島出身の北浦何某という名が活躍した、とあります。
活躍とありますが、倭寇海賊でしょうね。
加えて、芸予諸島を普く代表の島にしたいという想いを込めて、百島の先人のどなたかが「百」と字を選んだのではないかと考えています。
当時は、「桃」とか「百」という漢字概念は、永久幸運活性のようなイメージがあったと思います。
また百姓という言葉は、もともとどんな仕事をもこなすという意味もありました。
ともかく・・めでたき「百」という文字言葉です。
信州には七笑、美濃には百笑というお酒もあります。
百寿の如き島となることを先人は、百島の子孫のために祈願したのではないかと考えます。
百島の貝(きゃぁ)に関して・・:
ほんとうに美味しかったですね。
砂地の利、潮の利・・あの味覚は日本国宝もしくは世界遺産レベルのものだったかもしれませんね。(笑)
父の絵に関して・・:
父は、書いたり画いたりするのが好きだったのでしょう。
子供の頃から漁師をさせられたせいか、魚料理作りも魚釣りも嫌いな父でした。(笑)
父は、船乗りを辞めて陸に上がった途端に油絵を始めました。
確か、絵のまち尾道四季展にも応募して入選もしております。
何十枚の油絵を描き残しています。
NTTでの営業廻りの仕事で油絵の話題も持ち出したのでしょう。
福山のある病院のロビーにも飾られていました。
叔父に関して・・:
父の弟であるフサトおっさん・・長崎で暮らしておりましたが、父よりも早くポックリと逝ってしまいました。
馬鹿なことばかり言う面白い叔父・・その笑いの陰で百島に堂々と帰れなかった時期もあり、金銭、色欲のトラブルの結末を身を持って教えてくれたような気がします。
でも最期は看取ってくれた方もおり、ある意味・・幸せな人生だったかもしれません。
父は、百島を離れた兄と弟に苦労させられたと思うのですが、そのお陰様で最期まで百島で踏ん張ったのかもしれません。(笑)
出版に関して・・:
ところで、現在の出版業界の経営事情ですが、非常に危ない部分があります。
「売れる本作り」路線を営業戦略を基本とするのは昔からの出版業界の大勢であり、これは仕方の無い事だと思います。
ただ最近は個人出版という形で、ともかく多くの出版物を世に送り出して、その後のフォーローは全くないというのが現実です。
売れ行きが悪ければ、その責任は、すべて依頼主(著作者)になります。
売れ行きが良ければ、出版社の功績となります。
旗手のおじさんの作品は、とても好いものだと思います。
だからこそ、文芸社さんの執筆アドバイザーの調整能力と今後の編集責任と営業努力が、今ひとつ・・気にかかります。
でも、考えても仕方ないこともあります。
「売れる本」にするのか、「自分の記念本」とするのか・・自己満足の領域になりますからね。
今日は、七夕です。
いつものように、笑顔で、朗らかに、強い気持ちで!
天谷 感謝 早々。