OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

歌謡フォークのカルメン・マキも別格

2011-12-24 16:01:10 | 歌謡曲

時には母のない子のように / カルメン・マキ (CBSソニー)

昨日はお伝えしたとおり、劇場版映画「ワイルド7」を鑑賞♪♪~♪

まあ、書きたい事は思い入れがある分だけ多すぎますんで、結論だけ言えば、すっかり「その気」にさせられましたよ。観客の目的意識を喚起する意味においては、成功作だったんじゃないでしょうか。

今は、それだけでご容赦下さいませ。

で、映画館を出てからは、これまた予定のあった宴会に出たんですが、そこには場違いとしか言いようの無い、某与党の女代議士先生が来ていて、世迷い言で嘘の上塗りをホザくんですから、いやはやなんとも……。

よくもまあ、ヤジが飛ばなかったもんだっ!

もちろん、サイケおやじは、そこに「非礼」という言い訳を用意しての腰ぬけ状態なわけですが、その場の辟易感は実に濃厚でしたよ。

そして、そういうムードですから、当然ながら二次会は気の合う者同士で流れまくり、ついには定番の昭和歌謡カラオケ大会と相成り、本日のご紹介は、そこで辿りついた店のチイママがハートウォームに歌ってくれた大名曲♪♪~♪

今となってはロックシンガーのカルメン・マキが昭和44(1969)年のデビュー時に大ヒットさせたアンニュイな歌謡フォークとして、時代と共に日本の社会状況には染み込み過ぎた感もあるんじゃないでしょうか。

その無気力となげやりなムードで歌うカルメン・マキは当時17歳でありながら、日米ハーフという生い立ちに起因する、なかなかディープな美貌が圧倒的な個性を放っていた事は、リアルタイムをご存じない皆様にも、掲載したシングル盤のジャケ写によって充分に納得いただけると思います。

う~ん、この「つけ睫毛」の凄さも、彼女のナチュラルな美しさのひとつかもしれませんねぇ~♪ それほどカルメン・マキは雰囲気ありましたですよ♪♪~♪

ちなみに彼女は本来は女優であり、前年に寺山修司が主宰の「天井桟敷」に入団していた履歴があるんですが、直ぐに業界からスカウトされる経緯も含めてのレコードデビューには寺山修司の作詞、田中未知の作曲という「時には母のない子のように」が用意されたのですから、既にヒットは確定的だったと言われています。

ただし、詳しくは書くことが出来ませんが、歌詞の問題云々は残酷性も確かに認められることから、別の角度からの話題もありましたですねぇ……。

まあ、そのあたりは、当時はガチガチに固かったNHKにも出演が可能だった現実によって霧散したわけですし、続く同路線では「山羊にひかれて」とか「私が死んでも」等々のヒットを放った事で結果オーライ!?

ところがそんな人気絶頂時、カルメン・マキが突然のロック転向表明という、今では歴史の事件(?)があり、しかし何故か業界も世間一般も、それには大して驚かなかった記憶もあるんですが……。

というか、その頃の日本のロックなんてものは完全にマイナーな世界であって、まともに生活出来ない事象の代名詞でもありましたから、最初からアングラ劇団出身の彼女が元の世界に戻ったという受け取り方があったように思います。

しかし皆様が良くご存じのとおり、カルメン・マキは大成功を勝ち取り、まさに日本のロックを作った偉人のひとりになったのですから、このデビュー曲を歌謡フォーク云々として軽んじることも出来ないでしょう。

つまり「時には母のない子のように」があってこそ、日本のロックの大名曲「私は風」が残されたんですよねぇ。

尤も正直に告白しておけば、サイケおやじはロックシンガーとしてのカルメン・マキにはライプも含めて何度も接していますが、結果的に歌謡フォークを演じていた時の方が好きなんですよ。

それは時代性という事もあるんでしょうか、ギスギスにリアルな情感をちょいとオブラートに包んだようなプロデュースに好感が持てるのかもしれません。

ですから、何時までも歌謡フォーク期のカルメン・マキが忘れらず、事ある毎に和んでしまうのでした。

そう言えば書き遅れていましたが、確か篠山紀信が撮影した彼女の18歳のヌードも良かったなぁ~~♪ 残念ながら今は手元に無いんですが、そのイメージは今もサイケおやじのスケベ心に焼きついています。

コメント (2)
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