3.11から10年…宮城県内で被災した体験談と今思うこと(船木誠勝)
冒頭に共有掲載させていただいたのは昨日の続篇として、件の「CHONO Network」に登場した現役レスラーの船木誠勝が語る「3.11」のリアルな体験談であります。
説明不要かもしれませんが、船木誠勝は初代タイガーマスクに憧れ、中学卒業直後の昭和59(1984)年春に新日本プロレスに入門! ちなみに同期の新弟子には天才・武藤敬司、黒のカリスマ・蝶野正洋、破壊王・橋本真也という闘魂三銃士の他に個性派・野上彰、また1年先輩には後に獣神サンダーライガーに変身して大ブレイクする山田恵一という俊英が揃っていた中にあって、船木誠勝は常にピュアな気持ちでプロレスに取り組み、過酷なトレーニングに耐え、新弟子としての修業を重ねた結果、翌年に若干15歳でプロレスラーとしてデビューしたほどの逸材でしたから、会社側も将来を嘱望し、プロレスマスコミからのウケも相当に高かったのですが、それに本人は決して満足していたわけでは無さそうで、常に「自分自身のプロレス」について考えていたと後に語っています。
そして、そのひとつの答えが、その頃ブームになりつつあった関節技と打撃をメインした戦いを見せる「UWF」スタイルで、新日本プロレス育ちながら、古巣から独立する形で設立されたプロレス団体「UWF」に所属の前田日明、高田延彦、山崎一夫、そして前述した初代タイガーマスクの佐山聡! 等々がやっていたシュートスタイルのプロレスだったもんですから、船木誠勝も自ら率先して「骨法」と称される打撃系日本武術の習得修業に夜の出稽古で勤しんでいた事は有名な逸話でしょう。
実際、新日本プロレスの若手前座時代から、トリッキーなプロレスのムーブと実践的な「骨法」をミックスさせたファイトスタイルは今も新鮮! それはネットでも接する事が出来ますので、ぜひともご覧くださいませ。
こ~して船木誠勝は若手プロレスラーの育成定番コースでもある海外武者修行を終えた平成元(1989)年春、帰国するとUWFへ移籍加入したのですが、本人は前述したとおり、「シュートスタイルのプロレス」をやるつもりが、既に団体の方向性は「格闘技」だと、リーダー格の前田日明から説明され、それならばと「格闘技」スタイルで本気の「骨法」を使った打撃も交えたファイトを見せれば、それも前田日明から疎まれるという……。
結局、「UWF」も「プロレス」も、所謂ショウスポーツ的な要素が高いプロのエンタメという、新日本プロレス入門当時から船木誠勝が気に病んでいた「八百長」という世間の目から逃れられないものならばっ!?
そんなこんなの紆余曲折を経て、ついに立ち上げたのが自らの団体「パンクラス」であり、基本姿勢は「相手の技を受けないプロレス」でしたから、「完全実力主義」を標榜する緊張感の高い試合は「秒殺」という流行語まで世に広めたほどのインパクトがありましたですねぇ~~。
ちなみに船木誠勝はUWF入団後のリングネームであり、新日本プロレス時代は本名の船木優治(ふなきまさはる)と名乗っていましたですねぇ。
閑話休題。
こ~してリアルな格闘技を実践した船木誠勝は、あのヒクソン・グレイシーと一騎打ち!
敗れはしたものの、常勝の強者をギリギリまで追い込んだ試合は正に名勝負であり、結果として負けた船木誠勝は格闘技者として引退するほど、つまりはリアルファイトの極みを実践披露したのですから、流石です。
以降、リングから降りた船木誠勝は俳優業に転身したのですが、後にプロレスに復帰し、10年前の大震災当時は全日本プロレスに所属し、東北地方へ巡業に旅立った日が「3.11」だったのですから、語られる内容には迫真以上!
ということで、共有掲載させていただいた動画の元ネタは船木誠勝が運営する公式チャンネルからものですから、他にも興味津々のネタが満載されているのはいわずもがな、皆様にはチャンネル登録を強くオススメする次第です。
あぁ……、あれから……、10年の時が流れ、当時を体験していない子供達も大勢生活している現在、何を伝えるべきは様々ありますが、ネットの活用が最も有効なのかもしれません。
被災された皆様には、あらためてお見舞い申し上げます。
そして亡くなられた方々……、衷心よりご冥福をお祈りいたします。
合掌。