OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

東山明美が好きでした♪

2015-02-18 15:01:05 | 歌謡曲

私の恋人/ 東山明美 (クラウン)

「アイドル」という芸能用語が未だ一般的ではなかった昭和30年代、そのジャンルの人気者は「青春スタア」と称されていたんですが、本日の主役たる東山明美は、ちょうどその端境期の橋渡し的活躍があって、少年時代のサイケおやじには今も強い印象を残している歌手、そして女優のひとりです。

とにかく何時もニコニコしている明るい雰囲気の良さは、まさにスタアの証明であり、同時に少年にも感じられる「女」としてのイメージ、つまりセックスアピールの豊かさは、決して露骨なエロキューションではないところに大きな魅力があったんだと思います。

平たく言えば、彼女のようなおねえさまに優しくしてほしい♪♪~♪

というような感じでしょうか、少なくとも既にして逆ロリ趣味(?)へ覚醒していたサイケおやじには、東山明美がそういう憧れの存在だったという事です。

で、掲載したのは昭和39(1964)年秋に発売された、おそらくは東山明美のデビュー盤と思われますが、特にA面収録の「私の恋人」は作詞:星野哲郎&作曲:川田はじめが提供した、これぞっ! 当時の青春歌謡がど真ん中♪♪~♪

それは明るく、闊達な中にも絶妙の胸キュンフィーリンクが滲む彼女の節回しにはジャストミートの曲調であり、リアルタイムは知らずとも、皆様には一度は耳にしたことがあろう、素敵なヒット歌謡なんですねぇ~♪

うむ、漠とした不安はありながら、明るい未来の希望を信ずることの素晴らしさっ!

時代と世相がそうさせたと言うのは易いですが、東山明美が登場しなければ、こ~ゆ~歌も流行らなかったと思うばかりです。

そして以降、彼女は歌手をメインとしながらも、テレビのバラエティやドラマに夥しく出演する売れっ子として昭和40年代前半に大ブレイクしたんですが、結婚して以降は活動が縮小されたというか、マイペース(?)に歌の世界ではムード歌謡や演歌系のレコードも出していますし、女優としても時代劇~サスペンス作品に幅広く登場し続けているのは、嬉しいところです。

ちなみに何故本日、東山明美を出したのかという真相なんですが、実は先日放送されたラジオ番組「原坂一郎と片山由美子の子供の世界(FM aiai)」で、少女時代の片山由美子が出場したテレビオーディション番組「ホイホイミュージックスクール(日本テレビ)」で一緒だったのが、東山明美!?!

そうした事実が語られたからで、その回の合格者が東山明美だったらしいですよ。

う~ん、またまたタイムマシンが欲しくなりましたですねぇ~~~。

ということで、サイケおやじには、今も忘れられないスタアのひとりが東山明美です。そしてこの機会にネットで調べてみたら、現在でもあれこれの活動はあるみたいですし、纏まった復刻企画への期待とか、今後の楽しみは尽きないのでした。


永すぎた春の思い出

2015-02-17 13:27:40 | 日本のロック

永すぎた春 / バンバン (CBSソニー)

さて、首尾よく高校を卒業し、いよいよ花の学生生活に入れた幸運を活用すべく、サイケおやじは幾つかのサークルに混ぜてもらったんですが、中でも映画鑑賞の会と音楽趣味のグルーブには積極的に顔を出していました。

で、その音楽サークルは言うまでもなくロックの学生バンドであり、勇んでエレキギターを抱えて参加させてもらったものの、当然ながら先輩諸氏は皆上手く、最初っからレギュラーになれません。

しかし、新入りだけでショボショボとパートの練習をやったり、臨編のバンドを組んだりするだけでも、それはそれで楽しくて♪♪~♪

ですから、そうした努力が認められたというか、初めてレギュラーに入れてもらえた時には、足が地につかないような浮かれた気分になりましたですよ。

ただし、だからといって、すぐにバリバリと弾かせてもらえるはずもなく、ほとんどリズムプレイばっかりという丁稚奉公……。

ちなみにやっていたのはブルースロック経由のサザンロックや流行のウエストコーストロックが主体で、だからこそサイケおやじは入れてもらったんですが、そんな日々の中、先輩の奔走により、初めての晴れの舞台(?)が某女子大でのダンパだったんですから、下心は隠しようもありません。

ところが、やらなければならない演目ときたら、その頃に知られていた歌謡フォークなんかの要望ばっかりだったんですから、なんだかなぁ……。

なにがダンパなもんかっ!?!

それでも滅多にないチャンスですから、ムシを殺してとまでは言いませんが、井上陽水やガロあたりのヒット曲を前向きなロックアレンジで練習してはいたものの、案の定、一番に真っ直ぐなギターの先輩のひとりが不貞腐れ、辞めると言い出したから、さあ、大変!?

そこで急遽、サイケおやじが初めてリードを弾くことを許されたのが、本日掲載のシングル盤A面曲「永すぎた春」だったというわけです。

もちろん、件のレコードでお手本を演じていたバンバンとは、昭和50(1975)年発売の「いちご白書をもう一度」のヒットで知られる歌謡フォークのグループなんですが、この「永すぎた春」を出した昭和48(1973)年頃は全く売れていなかったのが実相で、それじゃ~、ど~してアメリカンロックを標榜していた自分達のバンドがコピーカバーするかと言えば、イントロからアップテンポのドゥービーズ系歌謡ロックになっていたからなんですよっ!

これは失礼ながら、前述「いちご白書~」のバンバンしかご存じない皆様には、なかなか違和感があるはずと推察可能なほどに痛快で、作詞作曲:ばんばひろふみ&編曲:木田高介によるそれは、なんとなく吉田拓郎みたいな感じもしないではないんですが、当時のサイケおやじは前向きに取り組んでいましたですよ。

なんたって、ド頭からギンギンにエレキを弾きまくれるんですからっ!

しかしながら、告白すればサイケおやじはバンバンのライブには一度も接したことがなく、このジャケ写に登場している4人組時代の彼等、つまり今井ひろし、ばんばひろふみ、高山弘、高尾稔のそれぞれがどんな楽器を担当していたのかは知る由もありません。

もしかしたら演奏パートには助っ人が参加している可能性も感じられます。

でも、良いんですよ、それでも。サイケおやじにとっては思い出深い1曲になったんですから♪♪~♪

そして結果は皆様ご推察のとおり、気持ちが入り過ぎていたのは言うまでもありませんが、基本的な技量に欠けているサイケおやじの事ですから、当日に録音していたカセットには走ったあげく、1カ所で思いっきり音を外してしまったという大恥が……。

ははははははぁぁぁ、それも青春の迸りと笑ってごまかすしかぁ~、ありませんでした。

ということで、これも結局は売れなかったバンバンが既に述べたとおりの「いちご白書~」でブレイクした時には、ばんばひろふみ&今井ひろしのコンビだけが残っていたという、なかなか世間の厳しさがあるものの、高山弘は後に高山厳と改名し、近年では「心凍らせて」のウルトラなメガヒット歌謡を出す等々の活躍から,ついにはバンバンのリユニオンや当時のフォーク系スタアが集ったスーパーグループみたいなバンドまでやっているのですから、流石に業界で生き残ってきたしぶとさはリアル感がありますよねぇ~。

でも、ばんばひろふみがサイケおやじの大好きな平山三紀と結婚した時は、逆上しそうになりましたけど……。

う~ん、今日はお粗末、すっかり遠くなった、若き日の思い出であります。


刹那の境地ではありません

2015-02-16 15:22:21 | Weblog

とっても悔しいとしか言えませんが……。

本日は医者から不整脈が悪くなっているという御宣託でした。

まあ、ここんとこは仕事に責められ、また家人の重病とか、疲労と心労が積み重なっていたとはいえ、情けないです。

サイケおやじには、まだまだやりたいことがどっさりあるんで、凹んではいられませんよっ!

と、本日は決意表明させていただきます。


シーナに出会えた幸せに感謝

2015-02-15 15:37:28 | 日本のロック

太陽のバカンス / Sheena & The Rokkets (Speedstar)

Sheena & The Rokkets=シナロケのシーナが天国へ召されました……。

昨年の夏頃から重病説の噂が耳に入っていたとはいえ、やはり享年61歳は早すぎる突然の悲報としか言えません。

ご存じのとおり、故人は夫君の鮎川誠と共に結成したシナロケで昭和53(1978)年に公式レコードデビューし、こういう言い方は好きではありませんが、我が国の女性ロックボーカリストとしては最初に売れたひとりとされています。

しかし、これもまた知られているように、シーナにはそれ以前にミュージシャンとしての履歴が無く、如何にもトーシロなボーカルスタイルと強い印象を残すファッションセンス&ルックスがあればこそ、ロックが基本的に持っている分かり易さをアピールするには絶対の存在であったことは確かです。

それはレコードよりもライブの現場における圧倒的なスタア性に殊更顕著であり、イベントに出演すれば、他のバンド以上の盛り上がりを作ってしまうナチュラルな高揚感こそが、シーナの最高の持ち味であったように思います。

それは失礼ながら、何度もシナロケのライブに接したサイケおやじが僭越にも言えることではありませんが、決して歌が上手いとは言い難い彼女のイメージを逆手に活かした鮎川誠のコラボレーションの勝利でもあり、これほど共稼ぎが最良のベクトルを描いていた夫婦は珍しいと羨んでしまいますねぇ~~~。

もちろん鮎川誠についても、所謂スーパーテクニシャンのギタリストではないわけですから、その成果に関しては全くフィーリング優先だと思えば、完全な本物のロックをやれたのがシーナと鮎川誠の神髄と思うばかりです。

さて、そこで本日掲載したのは昨年の夏に大手レコード販売店のタワーレコードが独占企画で出したアナログ盤シングルであり、サイケおやじとしてはジャケットを見た瞬間、いきなりお買い上げモードに入ってしまったという、なかなか素敵なブツであります♪♪~♪

特にシーナの如何にもの佇まいとアンプに直結したレスポールで構えた鮎川誠のツーショットは、シナロケの永遠を表しているに違いないっ!

今となっては、そう思う他はなく、しかし現実的には彼女は冷酷な病魔に侵されていたんですから、涙が滲んでまいります……。

ちなみにA面「太陽のバカンス」は作詞が鮎川誠のサンハウス時代からの仲間である柴山俊之、そして作曲がシーナによるイタリアンツイスト調のハードロック♪♪~♪

故人の冥福を祈りつつ、これから再度、針を落とす所存です。

最後になりましたが、サイケおやじは幸運にもシーナの隣でコーヒーを飲んだことがあります。

まあ、実際は同じ店のフロアの隣のテーブルで通路を挟んで着席していただけなんですが、狭い場所だったことから、素敵な至福の時間を過ごせたというわけです。

ありがとう、シーナ、合掌。


和製カントリーロックは冥途の土産に

2015-02-14 15:38:52 | 日本のロック

冥途イン・ジャパン / ジプシー・ブラッド (日本フォノグラム)

サイケおやじにとってのジプシー・ブラッドは、一度でいいから生ライブに接したかったバンドのひとつです。

ご存じのとおり、ジプシー・ブラッドは1970年代の最初の頃の2~3年しか活動せず、それでもレコードを残してくれたことは大変に喜ばしいわけですが、実はサイケおやじが冒頭に述べた気持ちになっているのは、昭和47(1972)年頃にラジオで放送された彼等の公開録音かスタジオライブでの歌と演奏を聴いてしまったからでして、いゃ~~、本気で上手いんですよねぇ~、ジプシー・ブラッドはっ!

やっていたことは日本語の歌詞によるカントリーロック、あるいはアメリカン&ウエストコーストロックという範疇なんでしょうが、ボーカルもコーラスもなかなか澄み切って、しかも絶妙の湿っぽさを隠し味にしていたあたりは、独特の個性だったように思います。

ちなみにメンバーは中村ひろあき(vo,g)、速水きよし(g,vo,etc)、永井充男(g,vo)、藤井真一(b)、司英一(ds) という5人組らしいんですが、とにかくギターがメインのバンドアンサンブルが抜群で、ヘダルスチールが不在でありながら、似た様なフィーリングのサウンドを出せていたのですから、これは実演が大いに気になるところでした。

そして皆様ご推察のとおり、速水きよしは後に井上堯之のウォーター・バンドや様々なセッションで活躍する凄腕の速水清司であり、また藤井真一もミッキー吉野のグループ等々で十分な働きをした名手であれば、さもありなん!

で、本日掲載のシングル盤は、その昭和47(1972)年に発売された彼等のデビュー盤とされる1枚で、なんとっ! 「冥途イン・ジャパン」とは本場アメリカのカントリー界の大スタアであったバック・オーウェンスが同年に大ヒットさせていた「Made In Japan」の日本語カバーというよりも、その真相はメンバーの中村ひろあきが作詞というか、替え歌にしてしまった、これが刹那の和製カントリーロックですよ♪♪~♪

 死にかけた街に 朝は来ない
 光のない朝が 来るだけだ
 光途絶えた積木の間で
 迷いかけた子どもは メイド・イン・ジャパン

あぁ、ギターのゆったり感も素敵ですが、オルガンも心地良く、また成田賢が参加したと言われるコーラスワークもニクイばかりです。

う~ん、このあたりの感覚はプロデューサーのミッキ・カーチスの良い仕事なんでしょうねぇ~♪

それはB面に収録された同曲のインストというよりはカラオケバージョンが、一緒に歌うには鉄板というあたりにも、仕掛けの妙があるわけです。

ということで、確か近年はジプシー・ブラッドの音源は纏められていますので、気になる皆様は聴いてみて下さいませ。

あぁ~、当時の未発表音源が出ないかなぁ~~~


今の刹那さ、この唄にあり

2015-02-13 14:26:45 | Singer Song Writer

からっぽの唄 / 岡林信康 (日本コロムビア)

時の流れの偉大さのひとつは、分からなかったことが分かってくるという真理かもしれません。

例えばサイケおやじの場合、岡林信康が歌う本日掲載のシングル盤A面曲「からっぽの唄」が現在の心境にジャストミートしているんですが、実はこれが世に出た昭和52(1977)年のリアルタイムじゃ~、なんとも情けない、貧乏ったらしい歌だなぁ……。

と、瞬時に聴くのがアホらしくなったという不遜があり、しかもレコードそのものが業界の知り合いから頂戴したサンプル盤だったという現実に対しても、非常な不義理を重ねてしまったわけです。

しかし、繰り返しますが、アコースティックギターがメインの伴奏で歌う岡林信康が自作自演の刹那のボーカルが、たまらないんですよ、今のサイケおやじには!?!

こんな心持ちになるなんて、当時若かったサイケおやじには思いもしなかったわけで、う~ん、気持ちが弱くなっているのかなぁ……、なぁ~んて自分に言い聞かせる言い訳まで考えてしまう始末をお笑い下さいませ。

ということで、またまた現状が悪い方向へ傾いたもんですから、ど~にもなりません。

まずは、このあたりで、本日も失礼致します。


こ~ゆ~時こそ、好きな音楽が欲しくなる

2015-02-12 15:51:07 | Weblog

久々にお偉方とケンカして、自己嫌悪の真っ最中です……。

もちろん、立場が逆になれば、自分も同じことを決断するでしょう。

それが分かっているだけに、尚更自分が曲げられないというか、引き下がれないんですよ。

今更信義云々、言えた柄ではありませんが、悔しさに首のあたりが熱くなっています。

またまた、失礼致しました。

 


ここにあるショーケン歌謡

2015-02-11 15:31:30 | 歌謡曲

別れの詩 / 萩原健一 (ミノルフォン)

萩原健一=ショーケンのカッコ良さはテンプターズ時代から変わらぬとはいえ、殊更昭和50年代における役者としての存在感は決定的でしょう。

それは単なる二枚目とか、そういうものではなく、時にはカッコワリィ~~立場や心根を見せたとしても、そこには一途な共感を覚えさせられる、まさにショーケンならでは世界がありましたからねぇ~~。

サイケおやじは自らが情けない仕儀を重ねている時、せめてちょっとだけでもショーケンのような、カッコ悪いことがカッコE~~~、そういうものになりたいと憧れては、挫折の繰り返しで今日に至っているわけで、だからこそ、その頃に出していたショーケンの歌が大好きです。

例えば昭和52(1977)年に発売された本日掲載のシングル盤A面曲「別れの詩」もそのひとつで、これは作詞:東海林良に作曲&プロデュース:大野克夫が提供した所謂泣きメロ歌謡でありながら、ショーケン特有の良い意味での居直ったようなショボクレフィーリングが逆にロックを痛切に感じさせしまうという至芸は流石と思うばかり♪♪~♪

正直、この頃は役者業にどっぷりだった所為もあるんでしょうが、失礼ながら決して上手いとは言い難い歌唱は、狙っていたんでしょうか?

個人的には天才的なものを感じてしまいます。

それとサウンドの作り、特にイントロのギターやシンセの使い方が同時期のイーグルスを想起させるあたり、如何にも大野克夫の仕事はツボを外していません。

ということで、実は今日も仕事に苦しめられているんですが、ちっとは光も射しているのを感じてみれば、ショボクレた自分には、ますますショーケンの歌が身に滲みるのでした。


たった今、尋ねられたこと

2015-02-10 15:44:30 | Weblog

苦しめられていた仕事も、なんとか終わりが見えてきて、ただいま移動中です。

で、結果的には、どうにか恰好だけはつけられたんですが、お偉方は、こっちの勝ちだっ!

とか、なんとか言っているわけですよ。

でもねぇ……、サイケおやじとしては、誰とも戦っていなかったという気分なんですよ、気取って言えばですけど……。

それよりも二週間ほどで隣国を三角飛びで4往復というのは、流石に疲れました。

ということで、本日の1枚の休載、そして皆様のコメントへのお返事の遅れ、今しばらく、ご容赦下さいませ。

欲しいのは、お金と時間と心の安逸です、正直。

失礼致しました。

 


ロックは平和を希求する

2015-02-09 15:39:52 | Rock

Gimmer Shelter / Grand Funk Railroad (Capitol / 東芝)

どうにも平和が遠のくばかりのイスラム圏のゴタゴタは、ついに我が国をも巻き込んでの世界的な紛争になりつつありますが、そんな時こそ平和を訴えた歌や演奏が有用と思うのがサイケおやじを含む、1960年代半ばからをリアルタイムで今日まで過ごした往年のロック少年少女でしょう。

もちろん、そんな中で流行って来た多くの楽曲には、戦争という最高にくだらないエネルギーの暴虐を阻止する力は無かったのですが、だからこそ聴き継がれてきた歌の数々は人類共通の遺産だと思いますし、肯定も否定も、正論も逆説も併せて含むところには、ロックがロックであった時代の真剣な前向きさがあったにちがいありません。

本日掲載のシングル盤A面曲「Gimmer Shelter」は説明不要、ストーンズが1969年に発売した傑作アルバム「レット・イット・ブリード」に収められ、以降のライブ演目では定番の人気曲になった反戦歌!?

特に歌詞の中で、戦争は直ぐ傍に来ている、拳銃一発でそれは始まる、しかし逆に言えば、キッスひとつで、平和が訪れるという一節があるかぎり、それは如何にもストーンズの「らしさ」が全開していましたからねぇ~♪

アマチュアバンドからプロが演じたカバーバージョンも天文学的ものになる中にあって、このグランド・ファンク・レイルロード=GFRが1971年に出したパワートリオ版は、なかなか勢いがあって、サイケおやじは今も好きです。

それはちょっぴりお経のようなベースワークを核にした、まさにどっしりとドロドロした感覚が滲み出る目論見が成功したというか、シンプルなビートを刻むドラムスや分かり易いギターの存在感共々、ストレートに訴えかけてくるボーカルも良い感じ♪♪~♪

ちなみにGFRのアルバム「ザバイバル」に収録のバージョンは6分20秒弱でしたが、このシングル盤では3分半ほどに短縮編集され、良く知られているように、その作業はGFRが同年の来日時に東芝のスタジオでGFRのメンバーとプロデューサーのテリー・ナイトが直々に行ったという逸話は当時、世界的な人気の絶頂期にあったバンドが日本を如何に重んじていたかっ!?

というような、些か穿った優越感を日本のロックファンに与えてくれたものでした。

しかし、後に冷静になってみると、だとすれば、このシングルバージョンはオリジナルマスターテープからではなく、日本のレコード会社にあったマスターコピーが使われたのかっ!?

なぁ~んていうマニアックな推測も楽しいわけですねぇ~♪

それと告白すれば、既に「ストーンズ命」の世界に入っていたサイケおやじにしても、混ぜてもらっていたバンドで「Gimmer Shelter」をやる時には、ほとんどGFRのバージョンをお手本にしていたんですよ。

つまり、それほどキャッチーなシンプルさがロックの必要十分条件を満たすほど、GFRは強い存在であったのです。

そりゃ~、確かに初来日を峠にGFRの人気は下降線を辿り、あれやこれやの再ブレイクも果たしてはいますが、やはり初期デビュー期の勢いが眩し過ぎた所為でしょうか、なんとなくGFRが安く見られるのは哀しいものあります。

閑話休題。

ということで、誰もが好きで争ってはいないはずと思うサイケおやじにすれば、こうした歌や演奏が好きだと声高には言えない気持ちがあります。

ところが同時に、そうした楽曲にはノー文句で夢中にさせられる「何か」があるのも、また事実!?

そんな罪の意識(?)よりは素直に熱くなっても許されるのが、音楽の持つ魅力のひとつなのかもしれませんねぇ……。