OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

虚心坦懐に聴くべきクイーン

2015-02-24 15:33:46 | Queen

手をとりあって / Queen (Elektra / ワーナーパイオニア)

ロックは、そのルーツたるR&Rの時代から、若者特有の反権力意識を刺激する表現技法を持ち合わせていましたから、甘っちょろい連帯意識を歌おうとすれば、それは失笑されていたのが1970年代の実相でありました。

この点については皆様にも多くのご意見があろう事は重々承知しているつもりですが、例によってサイケおやじの独断と偏見に基づけば、本日掲載のシングル盤A面曲「手をとりあって / Teo Torriatte」は、これが世に出た1977年当時のサイケおやじにとっては噴飯物でした。

何故ならば、演じているクイーンこそが、その頃は必殺の「Bohemian Rhapsody」を以て世界最高のロックバンドに駆け上がっていましたからねぇ~~。

その彼等が何が悲しくて堂々の日本語歌詞で、

 手をとりあって
 このまま行こう 愛する人よ
 静かな宵に 光を灯し
 愛しき 教えを抱き

なぁ~んて歌わなければならないんだぁ~~~!?!?

もちろん、世界的に有名なポップス歌手やロックバンドが日本語バージョンのレコードを少なからず発売してきた事は言うまでもありませんが、それは本来の原曲を日本側の要望に沿う形で再レコーディングされたものなのに対し、クイーンの「手をとりあって / Teo Torriatte」は最初っから意図的に日本語で歌っていたというあたりは当時、彼等がブレイクする契機のひとつであった日本での爆発的な人気に感謝の意を込めて!?

等々と喧伝されたのですから、いやはやなんとも、ようやく堂々とクイーンが好き! と言えるようになっていたサイケおやじの胸中は複雑でした。

しかし、逆に言えば、日本のファン層の大部分が婦女子であったクイーンが、ここまでやったのは結局、クイーンもアイドルバンドだったんだなぁ~~~♪

そんな的外れな安心感を抱いていたのがサイケおやじの本音でもあったんですよ、恥ずかしながら。

ところがクイーンの創作意思はもっと大きいっ!?!

ご存じのとおり、この歌は英語詞がほとんどで、日本語の部分は少ないのが本当のところであって、それなのに曲タイトルを日本語の発音にしているというのが、ギリギリのあざとさ!?

一説によると、これを書いたのはブライアン・メイとされていますが、その日本語訳(?)に拘ったのはフレディ・マーキュリーだったそうですからねぇ~~~!?▲■◎? 一応はオリジナルの英語詞に沿っているとはいえ、ここまでやってしまうのは、ひとつの問題提起かもしれませんよ。

以下は全くサイケおやじの妄想なんですが、既にロックにとっても優良なマーケットとして確立されていた我が国の音楽産業に対し、英語が基本的に理解出来ない日本人ファンに更なる浸透を図るには、予め日本語で歌うという姿勢を示すことで、ひとつの優越感を与えるという手段であったのでしょうか。

もちろんそこには前述したとおりの感謝の気持ちがある事も確かだと、思いたいわけです。

そして東日本大震災のチャリティーオムニバス盤に収録されたのもムベなるかな!

しかし、ここまで書いても、当時のサイケおやじには未だ違和感が残っていたのは天邪鬼の証明なのでしょう。

ところが最近になって、ようやくこの歌の持っている役割がなんとなく納得出きるようになってきました。

それが例のイスラム国とか、そんなこんなのテロ事件や報復暴力の連鎖による各地の戦争・紛争の不条理性で、なんとか解決しようと話し合い、妥協点や相互理解のポイントを探りつつも、ほとんどそれが機能していない実態の中では、案外とクイーンの「手をとりあって / Teo Torriatte」が有用な気がしてきたんですよ。

明らかに楽観的志向なのは自覚しておりますが、こういうシンプルなものほど、縺れた事情には効果があるんじゃ~ないでしょうかねぇ~。

なによりも素直に物事を受け取るという基本姿勢が、様々なトラブルには効果的かもしれないという、灯台下暗しのような真相を提示しているのかもしれません。

そして最後になりましたが、この「手をとりあって / Teo Torriatte」は傑作アルバム「華麗なるレース」の大団円を演出していたところから、このシングルは日本独自のカットという特筆すべきものであった事実が、クイーンの最初の黄金期ピークと重なっていた事を忘れてはならないと思うばかり!

それは素直に認めています。

コメント (2)
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