「南京事件」について、今月で70周年になります。書店には関連する出版物がずらりと並ぶようです。さすがに「まぼろし論」は消滅しつつありますが、虐殺人数については「改憲論者」との間に大きな開きがあります。
中国の「侵華日軍南京大遇難同胞記念館」の館長である『朱 成山』氏が「週刊金曜日」の編集者である片岡伸行氏に、虐殺数30万人の根拠と当時の南京の人口との関係について詳細に述べていますので、そのことを紹介します。
◆虐殺数30万人の根拠とは◆
「1つは東京裁判(東京国際軍事法廷)で20万人以上、もう1つ南京軍事法廷では30万人以上という被害者数を認定していて、その数は一致していません。まず30万人以上という虐殺数に疑問のある方は、両裁判の判決文を正確に読んでいただきたい。決してこの数字がわれわれ中国側の誇張ではないことが理解されるはずです。」
虐殺数はそもそも東京裁判および南京軍事法廷の判決によって定められた数字であり、しかも南京軍事法廷の判決(1947年3月10日)および東京裁判の判決(1948年11月12日)時には現在の中国は存在していない。中華人民共和国の成立は東京裁判判決 の翌年(49年10月1日)である。
さらに日本国政府は東京及び南京両法廷で認定された虐殺数を1951年9月8日に米国サンフランシスコで調印された「日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)で受け入れている。同条約第11条にこうある。
第11条【戦争犯罪】
日本国は極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受託し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする・・・以下略)
朱ガ続ける。
“まずは東京裁判について説明します。東京裁判の判決では、『日本軍占領の最初の六週間で、南京およびその付近で虐殺された一般住民と捕虜は、総数20万人以上に達していた』としていますが、これは数々の証言や遺体の埋葬数などを基に算出されたものです。
一方、南京軍事法廷では集団虐殺は28件で合計19万人以上、そのほか分散して虐殺されたのが858件・15万人以上で合わせて30万人以上と認定しています。2つの数字は異なりますが、実は東京・南京の両法廷の認識は基本的に一致しているのです」
さらに、朱は南京陥落後4日間、つまり1937年12月13日から同月17日までの間に、揚子江の畔で集団虐殺された15万の内約を挙げた。燕子磯5万人草鞋峡5万7千人、魚雷営一帯3万人中山埠頭9千人以上、煤炭港3千人以上。
◆東京裁判の判決文B部分◆
「虐殺数20万人以上と認定した東京裁判ですが、判決ではさらに、この数字とは別に、日本軍によって焼かれた死体、揚子江へ投棄されたりその他の方法で処理された死体があると指摘しているのです」
朱はそう言って、米国公文書館で入手したという東京裁判の判決にある記述の一部を示した。表題は「判決/極東国際軍事法廷/B部分/第8章/常軌戦争罪行(暴行)/1948・11・1」その1015ページ。以下はその日本語訳の抜粋である。
〈後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている。
これらの団体はまた死体の大多数が後ろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げ込まれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。
「南京陥落当時、南京第二碇泊場司令部の少佐だった太田寿男が1954 年に撫順戦犯管理所で書いた証言記録が残されています。
それによると太田の所属する第二司令部は南京陥落後の1937年12月16日、死体処理の命令を受けました。運輸兵800人を選抜し、もう一人の少佐である安達少佐とともにトラック10台、船泊30隻を使って連日にわたり揚子江にに死体を捨てる作業を続けます。
死体処理の作業は1938年2月まで続けられ、第二司令部で10万体、その他の部隊でガソリンをかけて焼却したものなどが5万体あり、合わせて15万体の死体が処理されました。
この証言記録は現在、北京中央档案館(資料館)に保管されています。この15万体を含めると、虐殺数は35万人以上ということになります。南京軍事法廷が認定した数字とほぼ同じです。
したがって重複分を除いたとしても『30万人』は妥当であり、われわれはその数字を使っているわけです」
◆首都移転で減少するも人口70万◆
南京大虐殺のエリアと人口の推移について、朱は当時の状況について語る。
「3つのエリアがあるのです。南京安全区3.86平方キロ、南京城壁内約44平方キロ、南京市行政区約466平方キロ。南京安全区は南京市行政区全体の100分の1以下の面積です。
南京安全区国際委員会の委員長であるドイツ人のジョン・H・ラーベが日記に『安全区の人口は20万人、最大で25万人』と書きましたが、一部の日本人はこれを南京市の人口だと勘違いしている。あるいは多くの知らない人々をだます目的で『人口20万人しかいないのに、なぜ30万人も虐殺できるのか』と意図的に言っている人もいるかもしれません。
安全区の人口イコール南京市の人口ではないのです。そうした否定論は悪質な数字のトリックですが、いまだにトリックを信じている日本人がいるとすればこのことは強調されてよいと思います」
では南京市全体の人口は「記録によりますと南京市行政区の1937年5月の人口は101万7千人、同年6月は101万6千人、同年11月には57万人となっています。これはあくまで市民の人数です。
このほか南京陥落時点では南京防衛軍の兵士約11万人がいましたし、上海方面から逃げてきた数万人の難民もいたので、同年12月当時の南京市行政区の人口は70万人近くになります。
11月に44万人も激減した理由は、日本軍が同年8月13日に上海を攻略し南京に攻め上がってくることが予想されたため、お金持ちや南京以外の地に親せきなどのある人たちが次々と避難を始めたのが1つ。もう1つの理由は、当時の国民政府が南京から重慶と漢口への首都移転を決め、10月から11月にかけて南京にいた国民政府の役人や家族、関係業者ら10万人以上が移転地へと移ったためです。
また、安全区20万人のほかに、南京城壁内には難民収容所のあった棲霞山に3万人以上、江南セメント工場に3万人以上、英国人が経営していた食肉加工工場『和記洋行』にも膨大な人数の避難民がいました。
人口20万人などというのがいかに事実と異なるかがお分かりになるでしょう」
◆日中の未来に大事なのは歴史観◆
「恥を知るは勇に近し」
恥を知るかどうか、それが真の勇気を持つかどうかのリトマス紙であると朱は言う。
「歴史事実について、学術的な面からアプローチすることは大切です。しかし大事なのは歴史観だと私は思うのです。ことさら虐殺数を誇張する必要はありませんし、数字の多寡だけを取り上げて大虐殺ではないと言い募る態度もおかしい。たとえ3000人でも3万人でも罪のないむて抵抗の人々を殺害したのなら大虐殺ではありませんか?きちんと歴史の事実を見ることです」
「歴史観」とは何か。
「まず、侵略戦争を認めることです。アジアの解放などが目的ではないということです。次に、加害の事実を認めることる幸存者の証言、元兵士の日記、ドイツやデンマーク、イギリスなど当時の外交官や記者、商人、伝道師などの証言や記録が残されているのですから、これを無視することは許されません。3つ目は日本政府も受け入れている裁判の判決を認めることです。
これを認めないということになると、日本の戦後もまた否定しなければなりません。その上で南京大虐殺について謝罪するのか否定するのか、その態度こそが歴史観なのです。
後世の歴史家任せではなく、これまでの歴史をどう見るのか、その歴史観が未来の中国と日本の関係の基底となります。我々は先ほど言ったように平和と友好の未来を切り開きたいと思っています」
◆『恥辱の記念碑』から70年が経って ◆
被害者の声を無視しての歴史認識はあり得ない。日本はこれまでその被害者の声に、どれだけ耳を傾けてきたのか。歴史と記憶と死者に対する冒涜。忘却や否定は2度目の虐殺に等しい。問われているのは歴史に対する向き合い方なのだ。
当時、日独防共協定を結んでいたナチス・ドイツの一員(南京駐在ドイツ大使館員ローゼン)でさえ「日本はここ南京において自らの恥辱の記念碑を打ち立てた」とする報告書(1938年1月15日付)をドイツ本国外務省に送っている。ユダヤ人を迫害し大量殺戮した、友好国の大使館員から見ても日本軍の所業はさほどに酷かった。
「集団自決」をめぐる軍の強制・関与の事実を教科書から抹殺しようとする国である。事実に向き合うことを「自虐的」と称し、見たくないものから目を逸らし、聞きたくない声に耳を塞ぎ、自らに都合のよい歴史改竄を「愛国的」だと称するものもいる。果たして、そのような国に生まれたことに誇りを持つ人がどれだけいるのだろうか。
歴史に対するそうした態度はこの国の未来そしてこの国を構成する人々の精神構造の深い部分に歪んだ影を落とすことになるのではないか。歴史から学ぶことのない者は同じ過ちを繰り返すのである。
「恥辱の記念碑」から70年。真の意味で「平和・友好の記念碑」が打ち立てられる日は来るのだろうか。
中国の「侵華日軍南京大遇難同胞記念館」の館長である『朱 成山』氏が「週刊金曜日」の編集者である片岡伸行氏に、虐殺数30万人の根拠と当時の南京の人口との関係について詳細に述べていますので、そのことを紹介します。
◆虐殺数30万人の根拠とは◆
「1つは東京裁判(東京国際軍事法廷)で20万人以上、もう1つ南京軍事法廷では30万人以上という被害者数を認定していて、その数は一致していません。まず30万人以上という虐殺数に疑問のある方は、両裁判の判決文を正確に読んでいただきたい。決してこの数字がわれわれ中国側の誇張ではないことが理解されるはずです。」
虐殺数はそもそも東京裁判および南京軍事法廷の判決によって定められた数字であり、しかも南京軍事法廷の判決(1947年3月10日)および東京裁判の判決(1948年11月12日)時には現在の中国は存在していない。中華人民共和国の成立は東京裁判判決 の翌年(49年10月1日)である。
さらに日本国政府は東京及び南京両法廷で認定された虐殺数を1951年9月8日に米国サンフランシスコで調印された「日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)で受け入れている。同条約第11条にこうある。
第11条【戦争犯罪】
日本国は極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受託し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする・・・以下略)
朱ガ続ける。
“まずは東京裁判について説明します。東京裁判の判決では、『日本軍占領の最初の六週間で、南京およびその付近で虐殺された一般住民と捕虜は、総数20万人以上に達していた』としていますが、これは数々の証言や遺体の埋葬数などを基に算出されたものです。
一方、南京軍事法廷では集団虐殺は28件で合計19万人以上、そのほか分散して虐殺されたのが858件・15万人以上で合わせて30万人以上と認定しています。2つの数字は異なりますが、実は東京・南京の両法廷の認識は基本的に一致しているのです」
さらに、朱は南京陥落後4日間、つまり1937年12月13日から同月17日までの間に、揚子江の畔で集団虐殺された15万の内約を挙げた。燕子磯5万人草鞋峡5万7千人、魚雷営一帯3万人中山埠頭9千人以上、煤炭港3千人以上。
◆東京裁判の判決文B部分◆
「虐殺数20万人以上と認定した東京裁判ですが、判決ではさらに、この数字とは別に、日本軍によって焼かれた死体、揚子江へ投棄されたりその他の方法で処理された死体があると指摘しているのです」
朱はそう言って、米国公文書館で入手したという東京裁判の判決にある記述の一部を示した。表題は「判決/極東国際軍事法廷/B部分/第8章/常軌戦争罪行(暴行)/1948・11・1」その1015ページ。以下はその日本語訳の抜粋である。
〈後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている。
これらの団体はまた死体の大多数が後ろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げ込まれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。
「南京陥落当時、南京第二碇泊場司令部の少佐だった太田寿男が1954 年に撫順戦犯管理所で書いた証言記録が残されています。
それによると太田の所属する第二司令部は南京陥落後の1937年12月16日、死体処理の命令を受けました。運輸兵800人を選抜し、もう一人の少佐である安達少佐とともにトラック10台、船泊30隻を使って連日にわたり揚子江にに死体を捨てる作業を続けます。
死体処理の作業は1938年2月まで続けられ、第二司令部で10万体、その他の部隊でガソリンをかけて焼却したものなどが5万体あり、合わせて15万体の死体が処理されました。
この証言記録は現在、北京中央档案館(資料館)に保管されています。この15万体を含めると、虐殺数は35万人以上ということになります。南京軍事法廷が認定した数字とほぼ同じです。
したがって重複分を除いたとしても『30万人』は妥当であり、われわれはその数字を使っているわけです」
◆首都移転で減少するも人口70万◆
南京大虐殺のエリアと人口の推移について、朱は当時の状況について語る。
「3つのエリアがあるのです。南京安全区3.86平方キロ、南京城壁内約44平方キロ、南京市行政区約466平方キロ。南京安全区は南京市行政区全体の100分の1以下の面積です。
南京安全区国際委員会の委員長であるドイツ人のジョン・H・ラーベが日記に『安全区の人口は20万人、最大で25万人』と書きましたが、一部の日本人はこれを南京市の人口だと勘違いしている。あるいは多くの知らない人々をだます目的で『人口20万人しかいないのに、なぜ30万人も虐殺できるのか』と意図的に言っている人もいるかもしれません。
安全区の人口イコール南京市の人口ではないのです。そうした否定論は悪質な数字のトリックですが、いまだにトリックを信じている日本人がいるとすればこのことは強調されてよいと思います」
では南京市全体の人口は「記録によりますと南京市行政区の1937年5月の人口は101万7千人、同年6月は101万6千人、同年11月には57万人となっています。これはあくまで市民の人数です。
このほか南京陥落時点では南京防衛軍の兵士約11万人がいましたし、上海方面から逃げてきた数万人の難民もいたので、同年12月当時の南京市行政区の人口は70万人近くになります。
11月に44万人も激減した理由は、日本軍が同年8月13日に上海を攻略し南京に攻め上がってくることが予想されたため、お金持ちや南京以外の地に親せきなどのある人たちが次々と避難を始めたのが1つ。もう1つの理由は、当時の国民政府が南京から重慶と漢口への首都移転を決め、10月から11月にかけて南京にいた国民政府の役人や家族、関係業者ら10万人以上が移転地へと移ったためです。
また、安全区20万人のほかに、南京城壁内には難民収容所のあった棲霞山に3万人以上、江南セメント工場に3万人以上、英国人が経営していた食肉加工工場『和記洋行』にも膨大な人数の避難民がいました。
人口20万人などというのがいかに事実と異なるかがお分かりになるでしょう」
◆日中の未来に大事なのは歴史観◆
「恥を知るは勇に近し」
恥を知るかどうか、それが真の勇気を持つかどうかのリトマス紙であると朱は言う。
「歴史事実について、学術的な面からアプローチすることは大切です。しかし大事なのは歴史観だと私は思うのです。ことさら虐殺数を誇張する必要はありませんし、数字の多寡だけを取り上げて大虐殺ではないと言い募る態度もおかしい。たとえ3000人でも3万人でも罪のないむて抵抗の人々を殺害したのなら大虐殺ではありませんか?きちんと歴史の事実を見ることです」
「歴史観」とは何か。
「まず、侵略戦争を認めることです。アジアの解放などが目的ではないということです。次に、加害の事実を認めることる幸存者の証言、元兵士の日記、ドイツやデンマーク、イギリスなど当時の外交官や記者、商人、伝道師などの証言や記録が残されているのですから、これを無視することは許されません。3つ目は日本政府も受け入れている裁判の判決を認めることです。
これを認めないということになると、日本の戦後もまた否定しなければなりません。その上で南京大虐殺について謝罪するのか否定するのか、その態度こそが歴史観なのです。
後世の歴史家任せではなく、これまでの歴史をどう見るのか、その歴史観が未来の中国と日本の関係の基底となります。我々は先ほど言ったように平和と友好の未来を切り開きたいと思っています」
◆『恥辱の記念碑』から70年が経って ◆
被害者の声を無視しての歴史認識はあり得ない。日本はこれまでその被害者の声に、どれだけ耳を傾けてきたのか。歴史と記憶と死者に対する冒涜。忘却や否定は2度目の虐殺に等しい。問われているのは歴史に対する向き合い方なのだ。
当時、日独防共協定を結んでいたナチス・ドイツの一員(南京駐在ドイツ大使館員ローゼン)でさえ「日本はここ南京において自らの恥辱の記念碑を打ち立てた」とする報告書(1938年1月15日付)をドイツ本国外務省に送っている。ユダヤ人を迫害し大量殺戮した、友好国の大使館員から見ても日本軍の所業はさほどに酷かった。
「集団自決」をめぐる軍の強制・関与の事実を教科書から抹殺しようとする国である。事実に向き合うことを「自虐的」と称し、見たくないものから目を逸らし、聞きたくない声に耳を塞ぎ、自らに都合のよい歴史改竄を「愛国的」だと称するものもいる。果たして、そのような国に生まれたことに誇りを持つ人がどれだけいるのだろうか。
歴史に対するそうした態度はこの国の未来そしてこの国を構成する人々の精神構造の深い部分に歪んだ影を落とすことになるのではないか。歴史から学ぶことのない者は同じ過ちを繰り返すのである。
「恥辱の記念碑」から70年。真の意味で「平和・友好の記念碑」が打ち立てられる日は来るのだろうか。