今から70年前の昭和12年。
日本軍は南京を攻略しました。
皇軍の兵士たちは、陣中日記を書き残していました。
その一部を紹介します。
目黒福治伍長の陣中日記
十二月十三日晴天
午前三時起床、四時出発、南京爆布(幕府)山砲台攻撃ノ為前進ス、
途中敵捕虜各所ニ集結、其ノ数約一万三千名トノ事、
十二三才ノ小供ヨリ五十才位迄ノ雑兵ニテ中ニ婦人二名有リ、
残兵尚続々ノ(ト)投降ス、各隊ニテ捕イタル総数約十万トノ事、
午後五時南京城壁ヲ眺メテ城外ニ宿営ス。
十二月十六日 晴天 南京城外
休養、市内ニ徴発ニ行ク、到ル処支那兵日本兵ノ徴発セル跡ノミ、
午後四時山田部隊ニテ捕イタル敵兵約七千人ヲ銃殺ス、
揚子江岸壁モ一時死人ノ山トナル、実ニ惨タル様ナリキ。
(二三日前捕虜セシ支那兵ノ一部五千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ
機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ後銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス、
自分モ此ノ時バガリト憎キ支那兵ヲ三十人モ突刺シタ事デアロウ。
山となって居ル死人ノ上をアガッテ突刺ス気持ハ鬼ヲモ
ヒヒガン勇気ガ出テ力一ぱい突刺シタリ、
ウーンウーントウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル、
一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ツテ見タ
・・・帰リシ時ハ午後八時トナリ腕は相当ツカレテ居タ
この部分は、黒須忠信上等兵の陣中日記)
十二月十七日 晴天 南京郊外
午前九時宿営地出発、軍司令官ノ南京入城式、歴史的盛儀ニ参列ス、
午後五時敵兵約一万三千名ヲ銃殺ノ使役ニ行ク、
二日間ニテ山田部隊二万人近ク銃殺ス、
各部隊ノ捕虜ハ全部銃殺スルモノノ如ス。
十二月十八日 晴天 南京郊外
・・朝起床シテ見ルト各山々ハ白ク雪ヲ頂キ初雪トナル、
・・・午後五時残敵一万三千程射殺ス。
十二月十九日 晴天 南京郊外
休養ノ筈ナル処午前六時起床、昨日銃殺セル敵死体一万数千名ヲ
揚子江ニ捨テル、午後一時マデ、午後出発準備、衛兵司令服ム。
・・・
年夜 下給品 スルメ 羊カン 梨 リンゴ 酒一合五勺
日本軍は南京を攻略しました。
皇軍の兵士たちは、陣中日記を書き残していました。
その一部を紹介します。
目黒福治伍長の陣中日記
十二月十三日晴天
午前三時起床、四時出発、南京爆布(幕府)山砲台攻撃ノ為前進ス、
途中敵捕虜各所ニ集結、其ノ数約一万三千名トノ事、
十二三才ノ小供ヨリ五十才位迄ノ雑兵ニテ中ニ婦人二名有リ、
残兵尚続々ノ(ト)投降ス、各隊ニテ捕イタル総数約十万トノ事、
午後五時南京城壁ヲ眺メテ城外ニ宿営ス。
十二月十六日 晴天 南京城外
休養、市内ニ徴発ニ行ク、到ル処支那兵日本兵ノ徴発セル跡ノミ、
午後四時山田部隊ニテ捕イタル敵兵約七千人ヲ銃殺ス、
揚子江岸壁モ一時死人ノ山トナル、実ニ惨タル様ナリキ。
(二三日前捕虜セシ支那兵ノ一部五千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ
機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ後銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス、
自分モ此ノ時バガリト憎キ支那兵ヲ三十人モ突刺シタ事デアロウ。
山となって居ル死人ノ上をアガッテ突刺ス気持ハ鬼ヲモ
ヒヒガン勇気ガ出テ力一ぱい突刺シタリ、
ウーンウーントウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル、
一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ツテ見タ
・・・帰リシ時ハ午後八時トナリ腕は相当ツカレテ居タ
この部分は、黒須忠信上等兵の陣中日記)
十二月十七日 晴天 南京郊外
午前九時宿営地出発、軍司令官ノ南京入城式、歴史的盛儀ニ参列ス、
午後五時敵兵約一万三千名ヲ銃殺ノ使役ニ行ク、
二日間ニテ山田部隊二万人近ク銃殺ス、
各部隊ノ捕虜ハ全部銃殺スルモノノ如ス。
十二月十八日 晴天 南京郊外
・・朝起床シテ見ルト各山々ハ白ク雪ヲ頂キ初雪トナル、
・・・午後五時残敵一万三千程射殺ス。
十二月十九日 晴天 南京郊外
休養ノ筈ナル処午前六時起床、昨日銃殺セル敵死体一万数千名ヲ
揚子江ニ捨テル、午後一時マデ、午後出発準備、衛兵司令服ム。
・・・
年夜 下給品 スルメ 羊カン 梨 リンゴ 酒一合五勺