乗鞍頂上のお花畑を見に行って帰ってきた妻が開口一番「三千メートルもの乗鞍にバスで行けるのも、日本軍のお陰なんだって。」と言う。
「ほんとかい?」と聞きなおすと、ボランティアの地元ガイドさんがそんな事を言っていたのたそうだ。
不思議に思ってネットに「乗鞍スカイラインの歴史」と入れて検索してみた。すると下記のようなことが書かれてあるではないか。
************************
<乗鞍岳への道路建設の歴史>
・旧日本陸軍が山岳航空実験(高空飛行に耐えれるエンジンの開発)を行う施設を建設す るため、 条件に合う場所を日本全国から探した結果、乗鞍を候補地として選んだ。
・昭和14年、本格的調査を開始し、現在の畳平に実験施設を建設することになった。
・山岳航空実験施設への道路を松本側から付けるか、岐阜県側から付けるか検討を行い、最終的に は岐阜県側から付けることになった。
・軍の計画は、平湯峠から畳平まで約10kmを幅3mの自動車道路をつけようとういものだった。
・この計画について協力を求められた高山市では、当時の濃飛自動車(当社の前進)の上嶋社長等加えて協議した結果、せめてバスが通れるよう幅を60cm広めるよう軍へ要望した。
・軍ではこの要望を承諾し、総工費42万円のうち8万円を地元で負担することになった。
・この8万円を濃飛自動車の上嶋社長が一人で引き受けることになった。 (当時、濃飛自動車の月給が従業員40人で350円)
・昭和16年に軍用道路の建設に着工、難工事の末、昭和17年に第1期工事が完工した。
・その後終戦(昭和20年8月)を迎え、地元では軍用道路の県道への編入運動を起した。 ・間もなく軍用道路は県道へ編入され、昭和23年「乗鞍公園道」となった。
・いまや乗鞍スカイラインは、終点畳平が標高2702mで富士スバルラインの2350m、立山有料道路の2450mをしのぎ、日本一標高の高い所を走るバス専用有料道路となった。
・今年(平成20年)で、初めて乗鞍へバス運行を行ってから、60年になる。
(濃飛バスのHPより)
★これを読んで当たり前のことだが、あらゆるものに歴史があり、道などという人間臭いものには色濃く歴史が刻まれいてのだと感慨深かった。
「ほんとかい?」と聞きなおすと、ボランティアの地元ガイドさんがそんな事を言っていたのたそうだ。
不思議に思ってネットに「乗鞍スカイラインの歴史」と入れて検索してみた。すると下記のようなことが書かれてあるではないか。
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<乗鞍岳への道路建設の歴史>
・旧日本陸軍が山岳航空実験(高空飛行に耐えれるエンジンの開発)を行う施設を建設す るため、 条件に合う場所を日本全国から探した結果、乗鞍を候補地として選んだ。
・昭和14年、本格的調査を開始し、現在の畳平に実験施設を建設することになった。
・山岳航空実験施設への道路を松本側から付けるか、岐阜県側から付けるか検討を行い、最終的に は岐阜県側から付けることになった。
・軍の計画は、平湯峠から畳平まで約10kmを幅3mの自動車道路をつけようとういものだった。
・この計画について協力を求められた高山市では、当時の濃飛自動車(当社の前進)の上嶋社長等加えて協議した結果、せめてバスが通れるよう幅を60cm広めるよう軍へ要望した。
・軍ではこの要望を承諾し、総工費42万円のうち8万円を地元で負担することになった。
・この8万円を濃飛自動車の上嶋社長が一人で引き受けることになった。 (当時、濃飛自動車の月給が従業員40人で350円)
・昭和16年に軍用道路の建設に着工、難工事の末、昭和17年に第1期工事が完工した。
・その後終戦(昭和20年8月)を迎え、地元では軍用道路の県道への編入運動を起した。 ・間もなく軍用道路は県道へ編入され、昭和23年「乗鞍公園道」となった。
・いまや乗鞍スカイラインは、終点畳平が標高2702mで富士スバルラインの2350m、立山有料道路の2450mをしのぎ、日本一標高の高い所を走るバス専用有料道路となった。
・今年(平成20年)で、初めて乗鞍へバス運行を行ってから、60年になる。
(濃飛バスのHPより)
★これを読んで当たり前のことだが、あらゆるものに歴史があり、道などという人間臭いものには色濃く歴史が刻まれいてのだと感慨深かった。