九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

フランスの週刊誌の記事の紹介 ①   らくせき

2016年08月05日 09時17分00秒 | Weblog
LA FACE CACHÉE DE SHINZO ABE(安倍晋三の隠された顔)
と題された VINCENT JAUVERTさんの記事を翻訳したものの紹介です。
 

経済改革者のイメージと程遠く、日本の総理大臣は、帝国への回帰を称える極右団体に関係している。
それは国際政治で、大幅に無視されているとはいえ、主要な事実だ。
世界第三の経済大国である日本は、数か月前から、(総理大臣、安倍晋三も含めて)
閣僚の4分の3が、歴史修正主義で権威主義の極右団体、「日本会議」と呼ばれる、
目立たないが影響力のある団体に属していることだ。
 
  2012年12月に政権に復帰したとき、安倍晋三が、新自由主義的であると同時に
戦前に郷愁を抱く強硬な右翼出身の政治家であることを知らない者はなかった。
プーチンやインドの国粋的指導者モーディを称賛していることも知られていた。
安倍が近かった、祖父の岸信介が1932年に大日本帝国によって併合された満州のナンバー2であり、
次に戦争中に東條内閣の一員であったこと、そして結局、1945年の敗戦の後、
A級戦犯として投獄されていたことも、誰もが知っていた。
しかし明らかに、反動的で反民主主義的なイデオロギーへの安倍晋三の
政治的根強さは過小評価されていた。
「数か月前まで、安倍の最終目的は有名なアベノミクスによって日本経済を立て直すことだと多くの人が考えていた」、
上智大学‘国際教養学部)教授の中野晃一は分析する。
「今日、安倍が本心を隠さないで行動しているのか、戦後に採択された平和的で自由で民主的な憲法の根本的な改変を
日本人により容易に”売り込む“、という目的のためだけに
経済的成功を追及しているのではないかと疑問視されている。
そうして、彼が1997年の創設時から加入している団体、
日本会議に特有の、帝国主義に憧れを持つ、古い秩序への回帰を押しつける目的でも。」
 
  「逆説的だがこの非常に重要な団体は日本では未だに真価を認められていない」、
日本版『リベラシオン』ともいえる『東京新聞』に昨年夏、日本会議に関する初めての長い記事を書いた佐藤圭は言う。
「その出発から、日本会議はレーダーに現れないようにあらゆる注意を払ってきた。
広告も出さないし、テレビにも出ない。戸別訪問的な活動をしながら、視線の及ばないところで前進していた。
その集会はメディアに開かれていない。そして、会員たちには会談の間も、写真を撮る権利もない。」 
この信じられない「ステルス性」にはもう一つの理由がある。
「日本会議は、より反動的な、地方で発展してきた」と、日本の右翼運動の専門家である法政大学の政治学者、山口二郎は説明する。
「大手メディアは、元々ローカルだったこの団体を見下していた。
2012年12月の安倍内閣の指名と、さらに昨年秋の内閣改造後、日本会議所属の閣僚の数がさらに増えて、その強大さに面食らうまでは。それまでは田舎の、片隅のものと見なされていたこの極右団体が、日本の政治の中心にいたのだ。」
 
  日本会議は1997年、一つは満州侵略を率いた帝国軍元司令官によって、
もう一つは主に神道の宗教団体によって設立された、二つの極右団体の合併により生まれた。
「反動的で1930年代に郷愁を抱くこれら二つの集団は、日本が戦争中に行った残虐行為の過ちを告白することに耐えられなかった。
彼らによれば、日本人は帝国に誇りを持たなければならなかった」と、山口二郎は説明する。
「分裂したままではイデオロギー闘争に敗北しつつあったと理解したときに、合併した。」
 彼らの自覚は1995年8月15日に起こった。村山首相が有名な謝罪宣言を述べたときである。
その日、世界は第二次世界大戦終結の50周年を記念していた。
この機会に、日本が1930年代と1940年代に、「植民地支配」を押し付けるためにアジア諸国を「攻撃した」ことを、
日本の政府のトップが初めて、公に、そして公式に認めたのだ。
この認識は、帝国軍が政敵奴隷に頼っていたと1993年に認めた、内閣のナンバー2、河野洋平の宣言の後に来たものだ。
婉曲に「慰安婦」と呼ばれた女性たちは、朝鮮やフィリピンの村で誘拐され、強制的に軍の売春宿に住まわされた。
反動主義者と超国粋主義者には、もう我慢できなかった。反論し、新しい運動、つまり日本会議を建設することが急を要した。
新しい団体の事務総長職は、1970年代の極右学生のリーダーで、今も強大な力を持つ、椛島有三なる人物に委ねられた。
そしてこの団体は今、3万5千の会員と200の支部を数える。
 
289人の議員メンバー
 
10年前に祖父が亡くなった安倍晋三は1997年に国会議員になる。
お友だちと一緒に、直ちに「日本会議」に、次いで日本会議を支持する議員団体に加入する。
「当時彼らは、保守のジミントーでも周辺的だった」と、中野晃一は言う。
「20年近く経った今日、彼らはジミントーと内閣を席巻している。
そして日本会議は、国会の40%に相当する、289人の議員を集めている…」
 彼らのスローガンとは? 戦後の日本、「アメリカに押し付けられた」制度と生活様式から決別することだ。
彼らは、「勝者の正義」、戦争犯罪人を裁いた東京裁判の正当性を認めない。
彼らは歴史を自らの味付け、敗者の歴史を書き直したがっている。
 
日本帝国はアジアの民衆を「解放した」と声高らかに断言したい。
1938年の日本軍による南京大虐殺は作り事であり、最悪でも、民間人に変装した数百人の中国兵が死亡しただけだ
(日本人も含めてまともな歴史家は少なくとも数万人の民間人が拷問された後に殺戮されたと考えているのに)。
日本会議の歴史修正主義者らは、「慰安婦」は勇敢な日本兵を慰めて月末に手取りを増やして喜ぶ、
単なる自発的な売春婦だったと断言する(この主題に関して帝国軍に反対する証言が圧倒的であるにもかかわらず)。
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随筆紹介  生々流転    文科系

2016年08月04日 19時34分01秒 | 文芸作品

  生生流転   S・Yさんの作品です 

 母が体調を崩して病院へ運ばれた。九十二歳なので身体が衰えるのはいたし方がない。
 駆けつけると救急治療室で寝かされていた。入れ歯が外されているせいか驚くほど顔は小さくて皺くちゃ、白髪頭も山姥のよう。呼びかけると皺が動いて薄く目が開いた。「来てくれたの。ありがとう」弱弱しいがはっきりと聞こえた。母に付き添うこと数時間、その間、様々な検査をした結果、そう問題はないので帰宅してもいいということになった。
「ご本人も入院はイヤだと言われてますし、入院すると寝たきりになる可能性もありますからね」。しかし、嫂は頑として入院させるという。私は逆らえなかった。哀しかった。
 その後、私は片道二時間かけて病院へ通うのが日課となったが嫂は一度も顔を見せない。病院側から再三の退院してほしいとの催促に私も困惑しているのだが、母と同居しているのは兄夫婦。彼らが忙しいと突っぱねるのに私は反論できない。自分の弱さが歯痒い。
 兄は誰もが認める暴君である。兄には世間一般の常識は通用しないどころか、彼自身が法律なのである。対等に話し合いなどどだい無理なこと。それでも暴君なりに情の深いところもあったが、ところが近頃、これまた誰もが認める薄情な嫂にどうやら感化されている節がある。やっかいなことだ。こうなると気がかりなのは老いた母のことばかり。
「長く生き過ぎた。今が死に時かねえ。でも人には定まった寿命があるのか、なかなか死ねないんだよ」病院のベッドでそう繰り返す母の顔を見ながら、私は奥歯を噛み締めた。

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「よたよたランナーの手記」(167) 癌治療薬を飼い慣らす?   文科系

2016年08月04日 18時14分44秒 | スポーツ

 7月3日以来しばらく書かなかったのは、前立腺癌治療薬の様子を見ていたからだ。12月から陽子線照射治療に入る前の半年間に、毎日1回の飲み薬と、月一回の注射をやっているのである。強い薬である注射の方は6月20日から既に2回打った。女性ホルモンとか、男性ホルモン抑制とかの作用があるらしい。
 これらの影響について、前の7月3日にはこう書いた。

 『先ず、ウオームアップがなかなか深まらず、時間がかかる。その間に、時速8キロで走っていても心拍数が160近くになることがあるし。やがて、心拍数が140を切るように落ち着いてきても、なかなか速度が出せない。10キロ時で走れはするが、後で猛烈な疲れが残ることが分かっているから、特にそうだ。「汗が出る」とか「身体がだるい」とかが、薬の注意書き本に書いてあるのだから、自然なことなのだろう』
 
 さて、手帳の記録を見ると治療開始前の4月4日、9.9キロ(/1時間)以降、どんどん下がっている。注射を打っていなかった5月未までは10キロ近くまでのスピードで走っていたが、6月以降今日まで9キロ台はない。ウオームアップに時間がかかって、前半30分が4キロちょっとしか走れないのだから。前半に無理をするとその疲れが後に残って、後半に歩き出すことも何回かあった。それで、通院、投薬などでばたばたした新しい環境に慣れてきた今のやりかた、目標は、こんな風に構えている。

  9キロに最も近かったのが7月19日の8.9キロ。さし当たって、これを越すためにちょっと力を入れてみている。そして、8.4、8.5、そして今日8.6まで来た。今の問題は、筋肉よりも心臓なのだ。ウォームアップが長く要るようになったのも、冒頭に書いてような心臓の変調が原因であって、注意して鍛えている筋肉には何の問題もないのだから。心臓不調はホルモン剤の影響なのだろうと、これに慣れる走り方、その日の心臓の上げて行き方が要チェックなのだろうと、そんな風に考えている。注射薬の副作用(これを解説した冊子をもらった)に、こんなことも書いてあるからだ。
『動悸、息切れがする・・・・』
『汗が出る、熱が出る、からだがほてる・・・』

 これでも走り、こんなふうに自分を駆り立てるのは、これが僕の長年のやり方、生き方だから仕方ない。30歳前に椎間板ヘルニアの手術をしている身体でも、不整脈からやがて心房細動・心臓カテーテル手術をしても、今これだけ走れているのは、こういう「弱点を逆に叱咤激励するやり方」できたからなのである。でも、不整脈がありながら心拍計を付けて走っていたから不整脈関連のことが学べて慢性心房細動からいち早く命を救えたのだし、不整脈対策の血液検査から前立腺癌マーカー・PSA値を定期検査していくことにもなったのだから、2度命が救われたのは走っていたお陰とも言えるのである。攻撃は最大の防御なりではないが、「ただ身体を大事にして守るのではなく、逆に攻めてこそ守れる」という結果が、僕の今の走りなのだろうと振り返ることが出来るのである。

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随筆  日本人男女、文化度の差    文科系

2016年08月02日 14時42分24秒 | 文芸作品

 同人誌仲間のHさんがある日僕に言う。「脚が軽くなったなと、夫に驚かれたよ!」。そう言えば、傍らを歩いている八〇近いこの女性、歩き方がこれまでとはだいぶ違うと、既に僕の目が感じ取っていた。ベターッとした歩き方が消えて、どういうか、腿が上がって足が利き、そもそも歩幅が大きくなっている。「片足つま先立ち・脚裏ストレッチなんかもやってきたんだよね!」、目を輝かせて続ける。二か月前の月例会後だったかに皆でいろいろ話し合っていた下半身強化法を早速実践してみた成果というわけだ。昔痛めた腰のせいでくの字型を右に倒したような彼女には特にこれが不可欠だろうとは、そこで皆が述べたこと。ちなみに、「腰の怪我・前曲がり」は僕の母のトレードマーク。明治生まれで二一世紀に入って亡くなった彼女は、脳内出血で倒れるまで下半身強化には励んでいた。

 ここ一〇~二〇年ほど、僕は三つの人間集団に濃く関わってきた。そこでつくづく感じたことなのだが、日本人高齢男女の生活差違はことのほか大きい。このことで最初に目を見張ったのは、僕の壮年期に父母と同居して観察できたこと。二人とも完全共働きというこの年代では珍しいカップルだっただけに、感得できたことのようだ。
  僕の父は、老後が即余生だった。一言で言えば、一人で居るときに熱中できるものがなく、こういう人は早く老いて早く死ぬ。そんな徴表の一つなのだが、好きなテレビ番組を観ていてもドラマの途中で眠っているというように早くからなっていた。他方母の方は、同じ職業人を通しながら、退職後に一言で言えば文化的生活を送った。その内容は、身体のケアと、三味線、俳句である。身体のケアは体操グループを作り、日常では一日八〇〇〇歩が目標。三味線は師匠について八〇歳直前まで発表会に出ていたし、俳句はよくNHKで入選した。

 さて、この父母を基準として三グループの人々を区分けしてみると、同じことに気付く。同人誌は僕以外は女性グループだし、高校同級生飲み会は逆に一人を除いては七人の男グループだった。そして、ギターのグループは男女ほぼ半々である。そこで観た男の文化度を中心に、ちょっと箇条書きしてみよう。
一、飲み会の男たちは一般に父に似ているが、父よりもほんのちょっと文化度が高い。その内容は身体のケア志向が第一で、芸術も含めたいわゆる文化系は弱い。
二、ギターグループの男たちは、ほぼすべて文武両道である。今の日本ではかなり珍しい男性が集まっているグループと思うが、ギターという文化系の男が身体ケアにも熱心なことが興味深いのである。

 三、さて、同人誌の女性たちだが、これも見事にバランスが取れていて、面白いのである。
 六五前後から八〇歳までの同人誌女性のほとんどがこの三年ほどで順にパソコンを覚えた。文字入力だけの方もいらっしゃるがとにかく、一人を除いて全員である。八十に近いある女性がパソコンを買い込んで先陣を切ったのを機に、吾も吾もとばかりのことだった。そして、この先端女性こそ、作品冒頭のお方なのだ。こういう女性群に較べると、高齢男性には「一念発起」ということが圧倒的に少ない。なぜなんだろうかと訝っていたら、二つの事に思い至った。難しい言い方になって恐縮だが、こうだ。

 一つは、文化系でしか扱えないものに対する感性の不足。今一つは、これの裏面として、目に見え手で触れるような物事にしか興味を持てないこと。一例を挙げれば、同じ文章系でも男は歴史、文学は女というような。お喋りの話題が少なく、友達も少ないようだ。要するに今後はオタクも増えるだろうなと予想されるような、ちょっと歪んだリアリズム。そんなふうに、僕は理解してきたが・・・・はて?

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新聞の片隅に載ったニュースから(233)  大西五郎

2016年08月01日 09時35分25秒 | Weblog

被爆70年 続く手帳申請 昨年8月以降303件に交付68件(16.7.31 毎日新聞)

 広島、長崎で原爆に遭ったとして被爆者健康手帳の交付を求める申請が、被爆から70年となった昨年8月以降の1年間で303件に上ることが、47都道府県と広島、長崎両市への取材で分かった。いまだに多くの申請がある背景には、被爆者が自身や子供への差別を恐れ長年申請をためらってきたことや、高齢になり医療援護の必要性が強まってきたことなどがあるとみられる。

 申請は21自治体にあり、うち広島市134件、広島県64件、長崎市37件、長崎県11件と被爆地が8割を占めた。他に多かったのは、大阪府12件、福岡県9県、東京都7件など。

 厚生労働省によると、申請数は2013年度719件、14年度582件、15年度436件と減少しているが、被爆者の平均年齢が80歳を超えた今もなお、申請が続いている。広島市の担当者は「差別があって申請できなかったという話や、体が弱ってきたので申請したという声をよく聞く」と説明。福岡県の担当者も「家族や子供への影響を考え踏み切れなかった人や被爆事実を証明する証人が探しだせないなどの理由であきらめていた人もいる」と話す。

 一方、審査結果が出たうち交付は68件、却下は100件、審査中が129件で、却下が交付を大きく上回った。取り下げなどが6件あった。国は被爆当時の罹災証明書や第三者2人以上の証明などを申請者に求めているが、高齢化した被爆者が自力で探し出すのはほぼ不可能な状態になってうる。

 長崎市は申請37件のうち6割超の25件を却下し、交付は1件にとどまる。同市の担当者も「できるだけ客観的なもので被爆事実を証明してもらわなければならず苦労している」と語った。

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 国がある一定の基準で手帳を交付するかどうか(医療費などに国の援助がえられる)を決めるのに一定の基準を設ける必要があることは理解できますが、実情としては行政の処分が、できるだけ与えないようにしていると受け取られるような印象があります。

毎日新聞の別の記事では、長崎で被爆した73歳(当時2歳)の女性は証人が1人しか見つからず、役所から「1人ではダメだ」と言われ、申請を諦めていました。しかしその後もう1人の証人が見つかりました。しかしその証言が「お寺に女の子がいたと聞いたことがある」という伝聞証言だったため、証拠として採用されず、支給されませんでした。

被爆問題に詳しい広島大学の田村和之名誉教授(行政法)は「おおむね10歳以上で被爆し、体験をよく覚えていた世代は高齢化で記憶があいまいになり、逆に若年被爆者には記憶がない人もいる。証拠や証人がなければ認めないという姿勢を行政がこのまま続けると、救済されるべき人が切り捨てられる可能性がある。知恵を出し合って解決策を考える必要がある」と指摘されています。 田村教授がおっしゃるように「救済されるべき人が切り捨てられることがないよう、解決策を考える必要があると思います。被爆者の人たちに残された時間は少ないのですから。                               

                                         大西 五郎

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