「勘次は自分の壁ぎわには薪がいっぱいつまれてある。その上に開墾の仕事に携わってなんといっても薪はだんだんふえて行くばかりである。さらにその開墾に第一の要件である道具が今は完全して自分の手に提(さ)げられてある。彼はこういう辛苦をしてまで些少な木片を求めている人々の前にほこりを感じた。彼は自分の境遇がどんなであるかは思わなかった。またこういう人々の哀れなことも思いやる暇(いとま)がなかった。そうして彼は自分の技量(うで)が愉快になった。彼は再び土手から見おろした。万能を持っているのは皆女で十三四の子も交じっているのであった。人々の掘り起こした跡は畑の土を」
みみずがもたげたような形に、湿った砂のうねうねと連なっているのが彼の目に映った。
彼は家に帰るとともに唐鍬の柄を付けた。鉈(なた)の刀背(みね)で鉄の楔(くさび)を打ち込んでそうして柄を執って動かしてみた。次の朝からもう勘次の姿は林に見いだされた。
主人から与えられた穀物は彼の一家を暖めた。彼は近来にない心の余裕を感じた。しかしそういうわずかな彼に幸いした事がらでもいくらか他人の嫉妬を招いた。他の百姓にももがいている者はいくらもある。そういう仲間の間にはわずかに五円の金銭(かね)でもそれはふところに入ったとなればすぐに世間の目に立つ。彼らはいくらずつでも自分のためになることを見いだそうということのほかに、目をそばだてて周囲に注意しているのである。彼らは人が自分と同等以下に苦しんでいると思っている間は相互に苦しんでいることに一種の安心を感ずるのである。しかしその一人でもふところのいいのが目につけば自分はあとへ捨てられたようなひどくせつないような妙な心持ちになって、そこに嫉妬の念が起こるのである。それだから彼らは他のつまずきを見るとそのひがんだ心の中にひそかに痛快を感ぜざるを得ないのである。」
(長塚節(たかし)『土』、1970年月16日第1刷発行、1978年12月10日第9刷発行、岩波文庫、99-100頁より)
明治43年(1910年)6月12日から11月17日まで『東京朝日新聞』に掲載され、明治45年5月に単行本として出版された、作者ただ一つの長編小説。(『大草原の小さな家』は1935年)。
「かれは小学校の教室の一隅を執筆場所に借り、児童用の小さい固い椅子で毎日執筆して持病をこじらせたばかりでなく、この勉励を通して健康状態そのものをそこねるにいたった。作中の地主一家がかれ自身の家の一面を写したものであるばかりでなく、勘次一家をはじめとしてすべて歴然たるモデルがあり、火事だけがフィクションだとまでいわれている。」(解説 小田切秀雄)
長い間積読本のままになっていた一冊、物語としては単純ですが描写が長く、方言が難解で、読み通すのは非常につらい本でした。なんとか読了しました。貧しさのあまり、他所の豊かな畑の作物を夜な夜な少しずつ盗んだり、世間に知られないよう自分の手で堕胎した時の破傷風がもとで女房が死んだり、貧困にあえぎながら生きる明治時代の農民生活が淡々と描かれています。爺の女房が死んだあと棺に蛇が出てくるところなど、背筋がぞっとするような場面も淡々と筆は進んでいます。日本の陰湿なムラ社会の特質がよく出ていると思います。気持ちが持っていかれると陰鬱になりますが多くの人に読んでほしい作品。気がつけばコロナ騒動で日本全体が集団ヒステリーのムラ社会、よく言えば東日本大震災の時には粛々と耐える辛抱強さが世界から称賛されていると報じられた日本人の耐久性、辛抱強さはマスク警察なる言葉まで生まれた相互監視社会。マスクをしていないと不安になる、マスクしていない顔をみられなくたい、マスクをしていない人をみると不安になるのはもはや強迫神経症。行き過ぎたアルコール消毒と手洗いも同様。日本全体がもう後戻りできないところまできてしまっているのかもしれません。読みながら考えさせられました。二度は読みたくありませんが、一度は読むべきことが描かれています。