戸の口堰の水
昨日 飯盛山隧道の洞門をくぐった。現在は改修されて、底や周りはコンクリート固められ、高さも1.8mくらいあった。水門を止めたので水は流れていない。真っ暗で懐中電灯の明かりを頼りに歩いた。約150mくらい。写真は洞門の入り口。
ここを流れる水は、猪苗代湖から引いている。戸の口堰は、元和元年(1623年)八田野村肝煎り内臓之助が計画着手し、元禄年間まで工事が続けられた。その後、会津藩士佐藤豊助が藩命により、飯盛山の山腹約150mを人工的に穴をあけ、水田2500ヘクタールの潅漑に供し、使役人夫5万5千人7と3ヶ年の歳月を費やし遂に完成させた。先人の苦労のお陰で、農業用水、水道用水、発電と利用できている。白虎隊士中二番隊が通った隧道は、水が流れ、低く、真っ暗で苦労したことだろう。やっと洞門を抜け、飯盛山の中腹から城下をみれば火の手があがっていた。落城。自刃。悲しい話しである。
昨日 飯盛山隧道の洞門をくぐった。現在は改修されて、底や周りはコンクリート固められ、高さも1.8mくらいあった。水門を止めたので水は流れていない。真っ暗で懐中電灯の明かりを頼りに歩いた。約150mくらい。写真は洞門の入り口。
ここを流れる水は、猪苗代湖から引いている。戸の口堰は、元和元年(1623年)八田野村肝煎り内臓之助が計画着手し、元禄年間まで工事が続けられた。その後、会津藩士佐藤豊助が藩命により、飯盛山の山腹約150mを人工的に穴をあけ、水田2500ヘクタールの潅漑に供し、使役人夫5万5千人7と3ヶ年の歳月を費やし遂に完成させた。先人の苦労のお陰で、農業用水、水道用水、発電と利用できている。白虎隊士中二番隊が通った隧道は、水が流れ、低く、真っ暗で苦労したことだろう。やっと洞門を抜け、飯盛山の中腹から城下をみれば火の手があがっていた。落城。自刃。悲しい話しである。