会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

京都一人旅第4日目ー7 木屋町・先斗町

2010-01-09 20:36:10 | 旅行
1月9日(土) 町内才の神     
 
 10cmくらい積もっていた雪片付けをして喜多方へ。今年も喜多方市中央公民館主催の「知的のんべえの酒づくり講座」に参加。開講式に出て、蔵元「ほまれ酒造」に挨拶に行く。洗米の作業と夜の懇親会は、町内の才の神行事があるので欠席。妻の実家には新年の挨拶に寄る。
 今年は寅年年男。午後6時半 町内で昨年亡くなった方へ黙祷し新年の挨拶をする。そして点火。赤々と燃える炎に身体を温め、餅やスルメを焼き、清酒、甘酒、ジュースを飲み、みかんを食べ談笑する。
 風もなくあまり寒くもなく素敵な時間を町内の方々と共有できた。町内会長とし準備してくれた青壮年会の人々と支援してくれた方々に感謝する一夜であった。
 
 
10日(木)    京都どまんなか
一時仮御所となったことから「栗田御所」と呼ばれる門跡寺院「青蓮院」を後にして宿へ帰る。午後8時過ぎていた。
 宿の近辺は、河原町通り、木屋町通り、先斗町、祇園花見小路と繁華街であるが、夕食は会津若松居酒屋の「籠太」さんに紹介された木屋町通り高瀬川沿いの「魚旬とれとれ」に寄る。
 この店の女将は、「籠太」で修業した方だった。
 店も空いていたので、話し相手になってもらいながら夕食をとる。もちろん晩酌はしっかりと。
 今夜の宿「花屋旅館」の門限は午後10時。雨も降っていたので傘を借り深酒せずに帰った。

 高瀬川沿いに木町通りを南に下ると約20分くらいで今夜の宿の明かりが暗闇の中にぽっかりと見えてきた。人通りはまだまだ多かった。若い時ならもう少し飲み歩いたかもしれないが、約26,000歩も歩いた。疲れた。初めての宿。門限をしっかり守った。
 

京都一人旅第4日目ー6 青蓮院門跡

2010-01-08 18:21:39 | 旅行
1月8日(金) 第3学期始業式     
 
 午前4時起床。パソコン教室の教材研究。午前6時半 資源物回収ステーションに入れ物を設置。忙しい時間を過した。2週間ぶりに豊齢研ITサロン会津のパソコン教室の仲間と会い、新年の挨拶を交わす。午前の部名刺作りの授業を受け持った。午後の部は別な方の授業。ほぼ一日パソコンに関わっていた。少し疲れた。
 
 孫達も長い冬休みを終えて第3学期が始まった。元気に頑張ろうと夜は息子達家族を我が家に招いてすき焼きパーテーをした。
 
10日(木)   国宝 青不動明王 御開帳
午後5時過ぎ宿泊する「花屋旅館」に着いた。女将の出迎えを受け部屋でお茶をいただいた。旅のこと、夕食のことなど話している中で14日までライトアップしている寺があると聞いた。そこは青蓮院。「国宝 青不動明王二童子像」を1144年の創設以来初めて開帳しているという。一人旅をしている重ちゃんとしては絶好のチャンスと思い、計画にはなかったが出かけることにした。
 宿が高瀬川の川べりで西木屋町。青蓮院は歩いて約30分くらいの距離。四条交差点より東へ直進すると八坂神社の丁字路。円山公園の中を通りぬけ智恩院の前を左折して歩くと青蓮院があった。開門まで少し時間があったので近くの喫茶店の入り休む。わらび餅と抹茶がおいしかった。

 拝観料は1,000円。祈願文を書いて納め、お守りをいただいた。
 国宝を拝観できたことはラッキーであった。平安時代より伝え引き継がれてきた青不動を目の前に、その強い力を感じながら、家内安全、無病息災などを祈願した。
 「青不動」は、日本三大不動画の一つとして、極めて強いお力によって平安時代から現在まで、篤く信仰されてきた。
 不動明王は、宇宙のすべてをつかさどる大日如来の使者として登場し、やがて衆生を救うために分恕の姿で現われた。今、時代は政治も経済も混迷を極め、また道徳心は荒廃し様々な事件が後を絶たない。この混迷の時代に、青不動の強い力により、世の中を少しでも良い方向、真に豊かな社会に導きいただきたいと考え、初めてご開帳をした。とパンフレットに書いてあった。











京都一人旅第4日目ー5 下鴨神社

2010-01-07 19:15:00 | 旅行
1月7日(木) 七草粥  雨も時折降るが暖かい   
 七草粥を食べ、お茶を習っている妻を送迎。買い物もつき会う。
 テレビのニュースでは藤井財務大臣の辞任について色々な憶測が報道されるが、素直に健康上の理由ということで大騒ぎしないで、通常国会を開き予算審議をしっかりやってほしい。
 テロ騒ぎで開催が危ぶまれたイエメンとのサッカー試合も平山のハットトリックシュートで辛くも3対2勝った。ほっとする。

10日(木)   下鴨神社へ
仙洞御所の拝観を終えたのが午後2時半。宿に行くには早過ぎるので京都御所の北にある相国寺へ歩いて行く。残念ながら特別拝観は終わっていた。境内を自由に見て回った。雨が少し降りだしたのでタクシーで下鴨神社へ(760円)。

"禅宗京都五山の一つ 相国寺"
足利義満が創建した臨済宗相国派の大本山。豊臣秀頼寄贈の法堂は山内最古の建物で重要文化財。同寺や末寺が所有する宝物は相国寺承天美術館で見ることができる。


 下鴨神社は遅くまで紅葉がみれる所だと運転手さんが教えてくれた。
雨は止んだが、どんよりとした曇り空。あまり期待しないで下車。
世界遺産の表示のある所で写真を撮り、参道を本殿へ進むと木々の紅葉が残っていた。少し落葉はあるがこの時期に見れたのはラッキーである。境内に「さざれ石」があったので写真を撮った。
 晴れた日の午前中に来たかった。参拝して境内を出るころには辺りは薄暗く、写真もよく撮れない。帰り道 「方丈記」の作者鴨 長明 の「梄すみか」がある河合神社に寄った。
 日暮が早く街灯がともりだした。今晩の宿「花屋旅館」の場所がわからないので西木屋町までタクシーに乗った。(1220円)


"京都最古の神社の一つ 下鴨神社"
祭神は上賀茂神社に祀られている祖父神と母神で、正式名は、賀茂御祖神社。平安時代は王城鎮護の神として崇められていた。国宝の本殿をはじめ、重文の社殿が立ち並び厳かなたずまいを見せてくれる。


"国歌「君が代」にうたわれた「さざれ石」"
さざれ石とは、小さな石という意味。火山の噴火により石灰岩が分離集積して凝固した岩石。この石は年とともに成長し、岩となると信じられている神霊の宿る岩石。「古今和歌集」には私たちの遠い祖先から信仰してきた生石(いきいし)伝説の「さざれ石」が詠まれており、国歌の原典となっている。


"鴨長明の住居 方丈"
神武天皇の御母神を祀った神社 河合神社に鴨 長明の方丈はあった。鴨 長明は「ゆく河の流れはたえずしてしかももとの水にあらず」の冒頭の文で始まる方丈記の作者。宮廷歌人であったが50歳で公職から身を引き隠遁。各地を転々とした。移動しやすいように組み立て式の「梄すみか」=方丈を活用。
広さは一丈(約3m四方)。約2.73坪。畳5帖半。間口、奥行も一丈というところから「方丈」と名がついた。土台状のようなものの上に柱が建てられているのが特徴。

京都一人旅第4日目ー4 仙洞御所の内部

2010-01-06 19:50:57 | 旅行
1月6日(水)大雪にならずよかった  
 10日振りにプールへ行き、ストレッチと水中歩行、サウナ、マッサージとやった。美味しい物を食べたらり、酒を飲んだりとして怠けていた身体がぴりっとした。心地よい疲労感。身体を動かすことは大切と改めて実感した。

 塙町から息子家族がラッシュと一緒に帰ってきた。明日からまたいつものような生活が始まる。平々凡々としているがこれが幸せというものである。

10日(木)   仙洞御所の内部案内
仙洞御所の拝観時刻は午後1時半。10分前より受付る。表門より入る。桂離宮や修学院離宮のような厳しさはない。許可証提示で待合所へ。約40人。ビデオを観た後案内人の説明を聞きながら仙洞御所内を回った。約1時間。その一部を紹介します。雨は止んだがどんよりとした曇り空でよい写真は撮れなかった。下記の説明文を読みながら想像してください。

 『深い緑の中に息づく仙洞御所は、修学院離宮造営に情熱を燃やした後水尾上皇の退位後のお住いである。傍らには、生涯睦まじく過した東福門院の女院御所が寄り添うように建っていた。
 優しくさざ波を立てる二つの池を中心に、橋を架け、滝を落とし、奇岩を配し、州浜を広げ・・・・・・ 造営の指揮を取った江戸前期の武将であり茶人だった小堀遠州作庭の面影をかすかに残す庭は、訪れる者の心を伸びやかに和ませる。』
(楽学ブックス 「京の離宮と御所」 発行所 JTBパブリッシング より引用) 


"南池と八つ橋"

南池の中ほどに二つの中島がある。中島の一つに西岸から藤棚に覆われた八橋が架けられ、中島と中島を短い石橋でつなぎ、東岸にかけて反橋が渡させるなど、趣向の異なる橋が渡れるように工夫されている。


  "醒花亭"
庭園の最も南の位置に北面している茶亭である。南池を一望する格好の場所にあり、今はない止止斎、鑑水亭とともに回遊式庭園における三店の一つである。正面の玄関には廂を付け出し、腰高障子を入れ、その(東側)は奥に四畳半の書院、手前に五畳の入側(縁側)を取り、書院と入側の境に建具を入れないところが特異である。鴨居の上には文 微明の筆である李白の詩の拓本の額がある。



"醒花亭から州浜、南池を臨む"
州浜には楕円形のやや平たい粒の揃った11万1千個ほどの石を池の中まで緩やかに敷き詰めてある。その石一個につき米一升の約束で運ばせたと伝えられ、「一升石」の別名がある。京都御所にもあるが、柔らかな広がりを感じさせる点では、ここに勝るものはない。桜の名所で桜浜ともいわれる。


"はっとした紅葉"
醒花亭の近くには氷室の跡や万葉歌人柿本人麻呂を祀った小社があった。桜の名所の州浜にモミジの大木。紅葉がすばらしい。思わずぱちり。

"又新亭(ゆうしんてい)" 明治17(1884)年に近衛家から献上された茶室である。元々この場所には、修学院離宮から移築した茶室止々斎があったが、火災により焼失した。茅葺と杮葺の屋根と大きな丸窓を備えた茶室で、中門より内露地と外露地に隔てられ、四つ目垣で囲むことにより結界を設けている。ここだけは侘茶の小天地を形づくっているようである。亭の門外に外腰掛があり、紅葉山裾野の蘇鉄山と相対している。

京都一人旅第4日目ー3 仙洞御所

2010-01-05 17:46:31 | 旅行
1月5日(火)小寒  
 賑やかにしていた娘家族は早朝高速バスで東京へ帰っていった。息子達家族は今晩若松へ帰ってくる。妻は会合に出かけた。一人ぼんやりと濡れ雪を眺めながら過した。どちらが先かわからないがいつかこんな日がくるのかなとーーーーーー。

10日(木)   仙洞御所
仙洞御所といっても資料もあまりないので、場所がわからない人も多いはずです。。
国民公園の京都御苑の中に、「京都御所」「大宮御所」「仙洞御所」「京都迎賓館」がある。
まず、京都御苑案内図をみてください。


 
 仙洞御所とは、皇位を退かれた天皇(上皇、院などといわれる)の御所である。後水尾上皇の御所として江戸時代の初期の寛永7(1630)年に完成した。それと同時にその北に接して東福門院(後水尾上皇の皇后、将軍徳川秀忠の娘和子)の女院御所も建てられた。古くは内裏のように一定の場所にあったわけでなく、また必ず置かれたわけでもないが、後水尾上皇以来現在の地すなわち京都御所の東側に定まった。後水尾上皇が御存命の間に三度焼失し、その都度再建されてきたが、以後、霊元、中御門、桜町、後桜町、光格の五代の上皇の仙洞御所として使用された。嘉永7(1854)年の大火で京都御所とともに焼失したのを最後に、ちょうどその時上皇も女院もおられなかったこともあり造営されないままとなった。

そのため、現在の仙洞御所には、醒花亭(せいかてい)、又新亭(ゆうしんてい)の二つの茶室以外に御殿などの建物は全くなく、東側いっぱいに南北展開する雄大な庭園が往時の面影を残しているだけである。庭園は、作事奉行であった小堀遠州が寛永7(1630)年、御所の完成に引き続いて作庭したものである。面積は約9万1千㎡。隣接する大宮御所と掘割で結ばれて一体となった回遊式大庭園である。

築地塀は安政2(1855)年、京都御所と共に建造された。

大宮御所の面積は約1万6千㎡。この大宮御所は、現在は、天皇皇后両陛下や外国元首等が入洛された際御宿舎として用いられている。
 

京都一人旅4日目ー2上賀茂神社から社家町へ

2010-01-04 15:33:09 | 旅行
1月4日(月)御用始め  
 暖かい一日。雪もずいぶん融けた。3年生の孫娘は書初めをした。幼稚園児もまねをして書初め。穏やかに過ぎた。

 10日(木)   上賀茂神社と社家
上賀茂神社の正式名称は賀茂別雷神社。賀茂氏の祖先を祀る神社である。創建は天武天皇6(677)年の遷都以前で、松尾大社、伏見稲荷大社と並ぶ京都最古の社の一つに数えられている。
 同じく賀茂氏の祖先を祀る下鴨神社とともに王城鎮護の社として敬われ、伊勢神宮に次ぐ格を与えられた。国宝の本殿と権殿、重要文化財34棟を含む約40の建築物が並び荘厳な趣をみせてくれた。京都三大祭の葵祭(賀茂祭)が有名。
 拝観料を払い特別参拝。先に入った人達の説明が終るまで一室で待機。約15分後案内されて本殿前へ。年配の神官だったので話がくどく、よく聞き取れない。特別参拝せずに境内を自由に見学したほうがよかった。写真の奥の朱塗りの門は桜門。


 拝殿前にある円錐形の立て砂は、神が降り立つ神聖な場所といわれている。


 神社を後にして社家町へ。一の鳥居を真っ直ぐ行くと加茂川へ出てしまい社家町には行けない。一の鳥居を出たらすぐ左折し三叉路を左へと進むこと。間違いやすいので店の人などに良く聞くとよい。社家町は邸内に明神川の水を禊のために引き込んだ池を中心に独特の造りになっている神官の家が並ぶ町並み。土塀は社家の特徴。周辺に漂う空気にも神々しさが感じられた。唯一公開されている西村家も12月8日で公開が終っていた。



近辺には美味しい地元グルメ味わえる店が多いと聞いていたが、雨が降ってきたので通りかかったタクシーに乗り京都府立陶板名画の庭へ(540円)

 ここは屋外で名画を鑑賞できる絵画庭園。安藤忠雄氏が水と光を巧みに用いて設計した庭園。
下の絵はルノアール作「テラスにて」。他にはモネ作「睡蓮・朝」、ミケランジェロ作「最後の審判」、<伝>鳥羽僧正作「鳥獣人物戯画」、レオナルド・ダヴィンチ作「最後の晩餐」、スラー作「ラ・グランド・ジャケット島の日曜日の午後」、<伝>張澤端作「清明上河図」、ゴッホ作「糸杉と星の道」と
世界の名画8点が陶板で色鮮やかに再現されていた。

地下鉄鳥丸線に乗り今出川駅で下車。歩いて仙洞御所へ。拝観時間まで1時間以上もあったので、御苑の休憩所で鍋焼きうどんを食べ休んで待つことにした。明日は仙洞御所をアップします。

京都一人旅4日目ー1上賀茂神社

2010-01-03 18:53:17 | 旅行
1月3日(日)三日とろろ 昼間は久しぶりのよいお天気。  
 お天気がよかったので娘達家族は猪苗代スキー場へ出かけた。年賀状を書いたり、駅伝やサッカーの試合をテレビ観戦。駅伝の東洋大は2連覇。サッカーの尚志高校は準決勝ならず1対0で敗退。残念だが良く頑張った。

 10日(木)   上賀茂神社へ
今朝はゆっくりと寝たので体調はよい。仲間は午後の列車で帰るのでホテルを早く出た。朝食を済ませ、荷物を今夜の宿「花屋旅館」へ送る。夕食、朝食無しなのでホテル代は7,000円。旅行会社を通さずインターネットで予約するのがベスト。

仙洞御所拝観まで時間はたっぷりあるので、上賀茂神社へ出かけた。バスの乗り場を間違えて京都駅まで行ってしまった(定額220円)。時間的余裕があるので昨日のようにあわてない。上賀茂神社行きをしっかり確認して乗車(定額220円)。神社前の停留所で下車。目の前に鳥居がある。上賀茂神社の名前がない。賀茂別雷神社と表示されていた。パンフレトにもバスの表示も上賀茂神社なのにと戸惑った。

参道で園児を連れていた幼稚園の先生にお会いしたので聞いてみた。ここの神社が上賀茂神社。正式には賀茂別雷神社という。京都市民も知らない人が多いという。改めてパンフレットをみたら説明文の中に小さな文字で正式名称が書いてあった。どうして正式名称で京都市の案内板もパンフレットも紹介しないのだろうか。

若松城と鶴ヶ城のようなものかと一人でうなずいた。後でよく調べたい。

京都一人旅3日目ー9 ホテル へ

2010-01-02 18:10:21 | 旅行
1月2日(金)初売り  小止みとなる  
 昨日帰省してきた娘一家は新宿を午後4時の高速バスで発車して、午後10時会津若松へ着いた。雪の影響と事故があったためらしい。それから年賀の挨拶を交わし食事。寝たのは12時過ぎになった。

 今朝は遅く起き朝食は9時。年賀状を書いたりして午前中は過ごし、午後は箱根駅伝の実況放送を観戦。各大学の選手の力走に応援。特に東洋大の往路優勝に貢献した5区を走った福島県いわき出身の柏原選手の奮闘には感激した。その後平塚で開催されている全国高校サッカー選手権の試合を観戦。東北高校と激闘の末、Pk戦で勝って16強に進んだ福島県の尚志高校の活躍に感動した。

 テレビ観戦している時、東京生れの娘の連れ合いと孫建ちは、雪片付けをしたりかまくら造りをして楽しく過ごした。
 午後5時温泉に入りたいと出かけやっと通常の静けさが戻った。
  
   9日(水)   京都国際ホテルへ
源光庵のお内儀が親切な方で色々と説明してくださったのでついながいをした。庵を出たのは午後4時半過ぎ。辺りは薄暗くなっていた。人影もあまり無く、タクシーも通らない。バス停を探し、街中へ出る系統のバスに乗ることにした。

 京都一人歩きも慣れてきたので、京都市内路線図もあまりみず二条城前のホテルだから二条駅前でも大丈夫と考え下車。二条城は見えない。降りた現在地とホテルの位置関係がわからない。慌てた。ローソンに入り、二条城への道を聞き歩いた。行けども行けどもホテルが見えない。途中でホテルに電話して道順を聞く。教えられたとおり堀川通りの交差点へ出た。ホテルの建物がわからない。
焼き鳥やに入ってホテルを聞いたら、目の前の交差点を渡ればすぐですと教えられた。全日空のホテルの影になり見つけられなかたっが、なんとかチェックインできてほっとした。
  二条駅前は千本通り、ホテルは堀川通りにある。事前にしっかりと路線を調べ、ホテルの地図も持ち歩くべきと反省した。

 夕食は昼に大徳寺黄梅院で分かれた仲間とレストランで懇親。

 約25,000歩いた。心身ともに疲れた一日。旅の中間なのでマサージを頼み疲れを取って寝た。明日のメーインの仙洞御所拝観は午後1時なので、朝はゆっくり。

京都一人旅3日目ー8今宮神社から源光庵へ

2010-01-01 18:13:08 | 旅行
1月1日(金)元旦 平成22年の幕開け  
一昨年と同じ大雪の元旦となった。メタボ解消にと朝と夕方雪かきをした。ご近所は高齢者、病気の方だけ。奥まった路地約20メートルの道付けと玄関前、駐車場などの除雪。今晩は娘一家が帰ってくるので少し無理した。明日は若者に頼むことにする。  
   9日(水)   今宮神社から源光庵へ
大徳寺を出てタクシーを拾って今宮神社へ行き、周辺の光悦寺、常照寺、源光庵を拝観した。

今宮神社は、大国主命、事代主命、稲田姫命を祀る古社。平安時代、都に流行した疫病を鎮めるために神殿を作ったのが始まり。疫病退散の奇祭で有名。


光悦寺は元和元(1615)年、本阿弥光悦が徳川家康から拝領した土地に、草庵を結んだのが始まり。光悦は一族や職人を集め工芸集落を営んだ。
境内には7つの茶室が点在しており、随所に芸実センスが光る。光悦没後、明暦2(1655)年寺となった。
とパンフレットには書いてあったが、あたりは薄暗くなり茶室も外観だけだったので早々に退出。
次に、常照寺へ。ここには天下の名妓として一世を風靡し、その才色兼備を謳われた二代目吉野田太夫(松田徳子)が二十三歳の時自ら巨財を投じて寄進した朱塗りの山門(吉野門)と太夫の墓があった。

 最後に、源光庵に立ち寄る。観光案内本にも無かった庵だが、本堂内には、伏見桃山城の遺構の血天井があった。この天井は慶長5年7月(1600年)徳川家康の忠臣・鳥居彦衛門一党千八百余人が、石田三成の交戦したが、武運拙く討死し、残る三百八十余人が自刃して相果てたときの痕跡。

 また、本堂には悟りの窓と名づけられた丸窓と迷いの窓という角窓がある。
悟りの窓は円型に「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表現する。
迷いの窓は角型に「人間の生涯」を象徴し、生老病死の四苦八苦を表している。

 常に迷ってばかりいる重ちゃんは、襟を正して「悟りの窓」前に正座。
 新年のご挨拶を申しあげます。