「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

       大東亜戦争が始まった日の真珠湾の新聞

2011-12-08 07:24:11 | Weblog
70年前の昭和16年12月8日、僕は小学校5年だったが、鮮明にあの日の朝のことを覚えている。ラジオの臨時ニュースが米英両国に宣戦布告をしたことを伝え、ついで真珠湾、グアム、ダバオ、シンガポール、香港を次々と爆撃し、マレー半島東海岸のコタバルに敵前上陸に成功したと報じた。大人たちはみな興奮のルツボに包まれていた。

当時僕らは銃後の小国民と呼ばれていたが、皆、戦争はハワイ真珠湾への攻撃で火蓋がきられたと思っていた。そして、その攻撃の中でも真珠湾内に深く潜行し、敵艦を魚雷攻撃して爆沈させた五隻の特殊潜航艇の九人の乗組員の勇敢な行動に驚嘆した。九人はその功によって二階級特進し「軍神」と崇められた。

先日、僕は知人から「Honolulu Star Bulletin」という当時オハフ島で発行されていた新聞の1941年12月7日付けの号外(1st Extra )を入手した。号外には大きな活字で”War Oafu Bombed by Japanese Planes"と報じている。爆撃は時差の関係で、日本より一日早い7日(日曜日)の午前7時55分(日本時間8日午前2時55分)であった。号外には現地の混乱ぶりと共にサンフランシスコ発AP電で、ルーズベルト大統領の発表として、日本の飛行機が真珠湾とマニラを爆撃したと報じているが、日本軍が香港やシンガポールを爆撃し、コタバルに上陸したことには、一切触れていない。

しかし、後日判ったことだが、時間的経過で行くと戦争はコタバル上陸作戦で開始されている。上陸作戦に従事した第18軍の記録には"8日0215”(日本時間)上陸に成功す”とい電文が残っている。つまり真珠湾攻撃より40分も早く戦争の火蓋はきられていたわけだ。コタバル上陸作戦では、敵の猛反撃にあい320名もの尊い生命が失われているが、一般にはよく知られていない。