先日の小ブログ「先人を偲びインドネシア独立式典に参加」に対して未知の方からコメントを頂戴した。インドネシアのマルク州に住んでいる方のようで、戦争中同地にあった日本軍の慰安所についてどう思うかという内容であった。直接独立式典には関係していないし、マルク州の慰安婦について、それほど知識を持ち合わせていないので、すぐにでのコメントは控えさせて貰っていた。
マルク州とは戦争中、日本軍関係者の間ではオーストラリアの北部という意味で豪北と呼ばれていた。その中心はアンボンという小さな島だが、ここに海軍第25軍根拠地隊が駐屯していた。一方、他のマルク(モルッカ)諸島には陸軍第5師団隷下の部隊が守りについていた。先日東京のインドネシア大使館の独立式典に参加された今沢栄三郎さん(98)は、このうちの一つ、セラム島の給水部隊に所属していた。
今沢さんは言下に”セラム島には慰安婦はいなかった”と言い切った。前に小ブログでも書いたが、司令部から”慰安所か饅頭かどちらがよい”との問い合わせに対して、全員”饅頭”と回答した。それほど兵士は飢えに苦しんでいた。今沢さんはアンボンには短い月日しかいなかったが、アンボンには慰安所がいくつかあった、と次のように証言した。
アンボンには一時海軍の第2南西艦隊司令部が置かれたほど豪北の守りの中心だった。それだけに、変な言い方だが慰安所の数も多かったが、昭和19年9月、戦争の激化とともに日本から来ていた慰安婦は全員帰国させた。その代替として現地人女性が働き始めたが、海軍の特別警察隊(憲兵)の出先の中には強制的に女性を集めようとした。これに対してアンボンに従軍牧師としていた加藤亮一氏(故人)が強く反対し、阻止した話が「東南アジア文化協会」の機関誌に載っている。アンボンはキリスト教徒が多いため加藤氏は従軍していた。戦後帰国した加藤牧師は東京池袋に「東南アジア文化協会」を立ち上げ、戦地で日本人と現地女性との間に生まれた子供を日本に呼び教育していた。前記、現地女性の強制連行阻止の話は、同協会の現理事長、大野克己氏の原稿の中にも出てくる有名な話だ。
戦後生まれの世代には、いわゆる「従軍慰安婦」の実態が誤解されている。ぜひ「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦著 新潮新書 1999年)を一読されることを望みます)
マルク州とは戦争中、日本軍関係者の間ではオーストラリアの北部という意味で豪北と呼ばれていた。その中心はアンボンという小さな島だが、ここに海軍第25軍根拠地隊が駐屯していた。一方、他のマルク(モルッカ)諸島には陸軍第5師団隷下の部隊が守りについていた。先日東京のインドネシア大使館の独立式典に参加された今沢栄三郎さん(98)は、このうちの一つ、セラム島の給水部隊に所属していた。
今沢さんは言下に”セラム島には慰安婦はいなかった”と言い切った。前に小ブログでも書いたが、司令部から”慰安所か饅頭かどちらがよい”との問い合わせに対して、全員”饅頭”と回答した。それほど兵士は飢えに苦しんでいた。今沢さんはアンボンには短い月日しかいなかったが、アンボンには慰安所がいくつかあった、と次のように証言した。
アンボンには一時海軍の第2南西艦隊司令部が置かれたほど豪北の守りの中心だった。それだけに、変な言い方だが慰安所の数も多かったが、昭和19年9月、戦争の激化とともに日本から来ていた慰安婦は全員帰国させた。その代替として現地人女性が働き始めたが、海軍の特別警察隊(憲兵)の出先の中には強制的に女性を集めようとした。これに対してアンボンに従軍牧師としていた加藤亮一氏(故人)が強く反対し、阻止した話が「東南アジア文化協会」の機関誌に載っている。アンボンはキリスト教徒が多いため加藤氏は従軍していた。戦後帰国した加藤牧師は東京池袋に「東南アジア文化協会」を立ち上げ、戦地で日本人と現地女性との間に生まれた子供を日本に呼び教育していた。前記、現地女性の強制連行阻止の話は、同協会の現理事長、大野克己氏の原稿の中にも出てくる有名な話だ。
戦後生まれの世代には、いわゆる「従軍慰安婦」の実態が誤解されている。ぜひ「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦著 新潮新書 1999年)を一読されることを望みます)