作家の太宰治は昭和20年4月2日の東京三鷹の空襲のあと、夫人の故郷である甲府へ家族と一緒に疎開したが、7月の”七夕空襲”で再度被災している。太宰はその体験を戦後「薄明」という小編に書いている。その書き出しの部分で太宰は”(甲府に来て)私たちは久しぶりに防空服装を着ないで寝ることができ、寒空、防空壕に飛び込まずにすむようになった”と書いている。
太宰が疎開まで住んでいた三鷹は当時、近くに中島飛行機工場があり、昭和19年11月から20年8月9日までなんと9回も空襲にあっている。当時僕は東京の目黒川沿いの五反田に住んでいたが、元旦に下谷(台東区)の叔母の家が焼けだされた。以来1月、2月はほとんど連日連夜、東京に警戒警報、空襲警報のサイレンが鳴らない日はなかった。亡父は几帳面にも日記の片隅に、警戒警報は青インク、空襲警報は赤インクで発令、解除の日を記録している。ところが3月4日の日記には”久しぶりに警戒警報”とあり、2月28日から4日間は空襲ゼロ。さらに10日の大空襲までも一度も空襲警報は発令されていない。飛来300機という10日の大空襲に備えていたのであろうか。
警報が鳴るたびに僕らは防空服姿になり、足にゲートルを巻き、空襲警報になると頭巾をかぶり防空壕に避難した。夜間は防空服にいちいち変えるのが面倒なので太宰のように防空服姿のまま布団に入った。20年の冬東京は雪の多い日で、2月22日の豪雪(積雪38センチ、史上2位)に次いで26日(亡父の表現では尺余)の豪雪、3月5日にも降雪があった。そのたびに僕らは隣組総出で除雪作業をした。空襲警報のあの断続的なせっぱ詰まったようなサイレンの音は今でも僕の耳に残っている。10万の人がサイレンの音の下、業火に追われながら、犠牲になったことを思うと、改めて戦争の悲惨さを考させられる。
太宰が疎開まで住んでいた三鷹は当時、近くに中島飛行機工場があり、昭和19年11月から20年8月9日までなんと9回も空襲にあっている。当時僕は東京の目黒川沿いの五反田に住んでいたが、元旦に下谷(台東区)の叔母の家が焼けだされた。以来1月、2月はほとんど連日連夜、東京に警戒警報、空襲警報のサイレンが鳴らない日はなかった。亡父は几帳面にも日記の片隅に、警戒警報は青インク、空襲警報は赤インクで発令、解除の日を記録している。ところが3月4日の日記には”久しぶりに警戒警報”とあり、2月28日から4日間は空襲ゼロ。さらに10日の大空襲までも一度も空襲警報は発令されていない。飛来300機という10日の大空襲に備えていたのであろうか。
警報が鳴るたびに僕らは防空服姿になり、足にゲートルを巻き、空襲警報になると頭巾をかぶり防空壕に避難した。夜間は防空服にいちいち変えるのが面倒なので太宰のように防空服姿のまま布団に入った。20年の冬東京は雪の多い日で、2月22日の豪雪(積雪38センチ、史上2位)に次いで26日(亡父の表現では尺余)の豪雪、3月5日にも降雪があった。そのたびに僕らは隣組総出で除雪作業をした。空襲警報のあの断続的なせっぱ詰まったようなサイレンの音は今でも僕の耳に残っている。10万の人がサイレンの音の下、業火に追われながら、犠牲になったことを思うと、改めて戦争の悲惨さを考させられる。