桜の散った、この季節になると、75年前の帝都初空襲を想い出す。昭和17年(1942年)4月17日の白昼、帝都、東京の上空に太平洋上の空母から発進した米機動部隊のB25爆撃機25機のうちの数機が現れ、爆弾を投下した。亡父は日比谷の大審院前で市電に乗ろうとして空襲警報にあっている。日記には”折から散歩中のサラリーマン動揺めく。各所の高射砲が花火が打ち上げれ、逃げ去る敵機の爆音を遠くに聞く。爽快な光景だ”と記してある。僕は国民学校(小学校)6年生だったが、その日は土曜日で半日で帰宅しており、ほとんど空襲の記憶はない。しかし、この空襲の後、教室に椅子、机を高く積み上げ、毎日、とってつけたように、防空演習をしたことを憶えている。亡父は”帝都初空襲”としているが、実際には横須賀工廠や横浜、名古屋などにも飛来し被害を受けている。
この本土初空襲を機に、国防意識が高まり、銃後では隣組を中心に定期的な防空演習が行われるようになった。女性はモンペ姿に目だけ出した防空頭巾をかぶり、国防団長の命令で、消火のバケツ.リレーに励んだ。各家ごとには、コンクリート製の防火用水を置くことが義務づけさせられた。中学生だった僕は、学校で教師の指導で防空壕づくりをした。
この本土初空襲から僅か3年後の昭和20年4月16日の亡父の日記には”昨深夜、200機のB29、京浜西南地区を襲い、各所火の海と化し始めて戦火の脅威を感じる”と書いている。3年前には”爽快な光景”などと、ノホホンなことを言っていた父だが、実際に空襲にあって、戦火の怖さを知った。教室に机や椅子を積み上げて防空演習したり、防火リレーなどまったく意味がなかった。
この本土初空襲を機に、国防意識が高まり、銃後では隣組を中心に定期的な防空演習が行われるようになった。女性はモンペ姿に目だけ出した防空頭巾をかぶり、国防団長の命令で、消火のバケツ.リレーに励んだ。各家ごとには、コンクリート製の防火用水を置くことが義務づけさせられた。中学生だった僕は、学校で教師の指導で防空壕づくりをした。
この本土初空襲から僅か3年後の昭和20年4月16日の亡父の日記には”昨深夜、200機のB29、京浜西南地区を襲い、各所火の海と化し始めて戦火の脅威を感じる”と書いている。3年前には”爽快な光景”などと、ノホホンなことを言っていた父だが、実際に空襲にあって、戦火の怖さを知った。教室に机や椅子を積み上げて防空演習したり、防火リレーなどまったく意味がなかった。