「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

戦時下の生活の風化 12日間連続停電

2019-06-06 04:52:32 | 2012・1・1

戦争を直接体験した世代の減少から”語り部”がいなくなり伝承者が必要になってきたという。敗戦時、中学3年生だった僕は軍需工場へ勤労動員され、敵機の機銃掃射や空襲下、焼夷弾を消した体験はあるが、実際に敵と対峙した戦争の実体験はない。しかし、僕らが実体験した日常の生活ですら、体験者自身が忘れかけてきた。

74年前の昭和20年(1945年)6月6日の亡父の残した日記帳の記述である。”5月25日(山の手大空襲)以来停電していた電燈がつき、その瞬間、近所一帯から歓声が上がった。気も心も明るくなった。ラジオも聞こえ、心強さを覚ゆ”。戦争末期は極度の電力不足から。僕が動員されていた工場でも日曜日のほか平日に1回「電休日」があり、家庭でも夜間の停電は毎日のようにあったが、12日間も連続して毎夜、真っ暗闇の下で生活していたのは忘れてしまっていた。

山の手大空襲で、当時僕が住んでいた柿の木坂(目黒区)一帯の交通インフラは寸断されたが、父は毎日のように都心(虎ノ門)に通勤していた。電車が通じる区間は利用し、あとはバスで引き継ぎ歩いてであった。その経路が日記に記されているが、毎日のようにコースは日替わりであった。僕も六郷(大田区)の動員先の工場の焼け跡整理に歩いて出かけた。そんな生活の中で、空襲後3日目の27日には新聞が、五社共同で発行されている。都民はやっと最低限の情報を知りえた。

戦時下の物資不足から日記帳のスペースがなく、日常生活の記述が少ないのは残念だが、たった12日間なのに、父は隣家から”貰い湯”を受けている。電気もなく、もちろん都市ガスもなかった。銭湯は湯船に入れない大混雑であった。家湯は最大の贅沢であった。

家に電燈がつき、ラジオが聞こえるようになった2日後、僕は家から離れ、千葉県江戸川運河の拡幅工事に動員された。沖縄がすでに敵の手に落ち、今度は九十九里浜へ敵が上陸してくるという情報が流れていた。それから2か月足らずで敗戦になった。