「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

進駐軍の”お助け米”で生き延びた1946年の夏

2019-08-05 05:09:07 | 2012・1・1

亡父の日記によると、昭和21年(1946年)夏は"餓死”寸前、進駐軍司令部(GHQ)の”お助け米"でやっと生き延びえた日々であった。7月、8月の日記の補遺欄には”毎日、三度の食事に口にするのはGHQの”お助け米”だけ、内地のものは一粒”もない。”お助け米”がなければ、餓死したのではないかと慄(りつ)然とすると、同じようなことを書いてある。8月配給になったのは、ソーセージ1ポンド、アップルジュース,小麦粉4キロ、玉蜀黍粉3キロで、主食の米の配給はは一回もなかった。

当時、父は61歳だったが、若いころには18貫(67キロ)あった体重が12貫に減り、栄養不足から神経衰弱気味だと日記の隅々に書いている。僕は15歳の育ち盛り、栄養不足と関係あるかどうか不明だが、国立病院で鼻の手術をしている。一番大変だったのは、母であったと思う。三日に明けず、電車に乗って近郊の農家に野菜の買い出しに行き,時には箪笥の奥から自分の着物を持ち出し、いざという時の備蓄米を買っていた。

東京ではどこの家庭も粉食が中心で、ニクロム線を買ってきて即席のパン焼き器をつくり、重曹を入れて膨らましパンを作った。亡父の8月29日の日記には”終日、米、麦、小麦粉なく三食とも玉蜀黍粉が主食とある。都市ガスもなく、薪割りが日課だった当時から73年経っても昨日のように過酷な日々が想い出される。