「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          「鳩山最低」 「菅最悪」 「野田最?」

2012-06-12 05:52:27 | Weblog
社会保障と税の一体改革の集中審議の模様を昨日テレビの国会中継で拝見した。判ったことは野田総理が15日までに法案のメドを付け国会最終日の21日までに衆院で採決する決意が固いことだ。自民党の額賀福志郎議員が、質問の中で「鳩山最低」「管最悪」「野田最弱」という識者の言葉を紹介していたが、野田総理が一体化法案の採決に失敗すれば、文字通り史上最弱の総理として名を残すことになろう。

寡聞にして知らなかったが、自民党のあべ俊子議員によれば、民主党議員の中には公然と党の消費増税に反対して街中で集会を開いているグループがあるとう。ネット情報では反対集会用ののぼり旗150枚も作ったそうだ。このグループが小沢派なのかどうかこれも寡聞にして知らないが、政府与党の中にこんな分派が存在すれば、野党も真面目に審議する気にもなれないだろう。

国会中継で見る限り、野田総理は終始低姿勢で、両党間の修正合意も今のところ歩み寄りが見られる。問題は一体法案の採決にあたって民主党内の反対派がどうでるかである。野田総理は反対派に対しては党議拘束によって毅然たる態度をとるとしているが、反対派の数によっては、党が分裂する危機にもなる。「鳩山最低」「管最悪」の後を受けて野田が「最弱」になるか「最強」になるかは一に持って野田総理の政治力にかかっている。政治生命をかけて臨んでいるのだから、ここは乾坤一擲、党が分裂しても勝負に出るべきであろう。

              僕の知っているシリア人

2012-06-11 06:28:19 | Weblog
シリアのアサド政権を巡る国内の騒乱は極限に近く、内戦模様になってきたようである。これまでアサド政権が完全に制圧していた首都ダマスカスにも、反対派から砲弾が撃ち込まれ始めてきた。一方、アサド派の民兵組織は依然、地方都市で住民の虐殺を続けている。国連は人道的見地から、即時虐殺を中止し、アサド大統領の退陣を要求しているが、ロシアなどの反対で足並みがそろわず、情勢は泥沼化してきた。

半世紀前の1962年、僕はシリアを取材で訪れたことがある。シリアは1958年から3年間ほど当時のエジプト.ナセル政権との間で「アラブ連合共和国」を合邦していたが、それが失敗した直後であった。翌63年、シリアはバアス党のク―データが発生しているが、これを指導した一人が現在のバッシャール.アサド大統領の父親,ハーフェーズ前大統領であった。ハーフェーズはロシア(ソ連)で教育を受けた飛行隊長であった。

時代は下って1986年、僕はJICAの集団技術研修で1年間、S君と知り合った。集団研修というのは途上国からの研修員が一緒に研修するもので、僕が面倒を見た年は、シリア、エジプト、スーダン、ザイール,インドネシア、フィリッピンの6か国であった。1年の長期にわたって、違った国の若者が時には寝食を共にしての研修は大変である。この年の研修での最大の問題点はシリアのS君が仲間から爪はじきにあったことであった。

S君は6人のうちで最年長で技術も一番高かったが、それを鼻にかけるため、いつも仲間外れにされた。中でも同じアラブの回教徒のエジプト、スーダンとの仲が悪かった。S君は毎週金曜日のイスラム礼拝にも参加していなかったようだ。僕との関係はよく、日本人がチグリス.ユーフラテス文明のことを知っているのに驚いたと得意げに話していたことが今でも思い出される。

ダマスカスは4000年の歴史を持つ世界遺産の街である。戦乱が拡大して街が破壊されないよう、一日も早く騒乱が収まることを望む。

        梅雨入り 「あした天気になれ」の頃への郷愁

2012-06-10 05:49:52 | Weblog
首都圏も昨日梅雨入りした。平年より1日遅く、昨年に比べれば13日も遅い。そうだった。昨年は5月27日と史上2番目に早い梅雨入りだった。そのためなのだろうか、今年はなにか”ようやく”という感じがしないでもない。しかし、季節の移り変わりは正直である。玄関先の鉢植えの額紫陽花がいつか色付き始めてきていた。(写真)

気象庁が桜の開花や梅雨入り宣言などを始めたのはいつ頃からであろうかー。戦前昭和の時代にはなかった。僕の記憶の中には子供の頃、梅雨の季節の夕方、道の上で下駄を空に蹴り上げ”あした天気になれ”と節をつけて歌った想い出がある。下駄が鼻緒を上にして着地すれば晴れ、ひっくりかえれば雨という他愛のない遊びだ。軒下にテルテル坊主をつるして好天を願ったこともあった。

この根拠のない、のどかな遊びは今やない。だいたい日常的に下駄をはく習慣が日本にはなくなった。今や子供はおろか大人でも下駄を履いたことがない日本人が増えてきた。戦前昭和の時代には”隠れん坊””鬼ごっこ”とならんで”下駄かくし”という遊びが子供たちに間で盛んだった。下駄をどこかへ隠し、相手に探させるという単純なものだった。

梅雨時、雨は降らないと思って傘を持参しなかった子供たちを迎えにお母さんたちが傘を持って学校の校門まえに並んでいる姿が今でもすぐ目に浮かぶ。共稼ぎが増えた今ではどうなのだろうか。ピッチピッチ チャブチャブ ランランの「あめふり」(北原白秋作詞中山晋平作曲)の蛇の目でお迎えの世界は今はどうなのだろうか。

               老人の”非常識”病

2012-06-09 05:50:05 | Weblog
先日の昔の集まりに参加した11人の仲間のうち2人までが奥さんが認知症だった。80歳を過ぎるといつ認知症にかかるのではないかと心配だ。僕ら老夫婦の日常的な会話の中にもちょくちょく認知症のことが出てくる。昨日もNHKテレビで認知症とたんなる老人の物忘れとの違いをテスト方式で放送していたが、幸い僕ら夫婦は認知症ではなかった。

馬齢を重ねると認知症だけではない。年寄り独特の”非常識”病患者もでてくるようだ。集まりの世話役をして見て僕はつくづくそう感じた。参加と言いながら、当日になってドタキャンをしてくる者がいた。世話役は開催場所の下見までして料理の細かい打ち合わせまでしている。出られないなら、せめて前日に連絡するのが常識だ。

これなどまだ序の口である。集まりの後、体調が悪く参加できないからと自分の近著を寄贈してくれた旧友の本を、まったく僕の善意から、同じく参加できなかった仲間に送ったら、電話がかかってきて”なぜ勝手に送りつけるのだ”と怒鳴られた。僕は事前に本は旧友からの寄贈である旨断ってある。その男の言い分は、家の中の書籍を処分し始めているのにまた余計な手間がかかるというのだ。小学校の教師をやっていた男の言葉である。

また、別の男は”売れないから本を寄越したのだ”という。70年前の子供時代ならいいが、傘寿を過ぎた老人の言葉とはとても思えない。現在の出版事情を知らない非常識な発言である。寄贈を受けた本がそうであるかどうか知らないが、タレントの本とか“きわもの”を除いて今出版されている本の大半は自主出版、自分でおカネを出して出版しているのを、この男は知らないのだ。

こわいことである。年寄りになると、このような非常識な言動が出てくる。これも一種のボケなのだろうが、自分も気をつけなくてはいけないことだ。

       ジャカルタ日本大使館女性臨時職員殺人事件

2012-06-08 05:26:27 | Weblog
在ジャカルタ日本大使館の臨時職員岩田せつ子さん(66)が自宅で惨殺された。犯人はスピード逮捕されたが、岩田さん宅の補修工事に出入りしていた塗装の職人だった。岩田さんの銀行カードなど盗んでおり、カネ欲しさの犯行とみられるが、殺され方があまりにも残酷である。犯人は警察に対して、岩田さんから仕事のことで強く叱られた恨みからだと言っているという。

岩田さんは学生時代、日本に留学していたバリ出身のインドネシア人と知り合い結婚した。インドネシア国籍を取り、お子さんもいるが、数年前ご主人に先立たれ、お子さんも成長して独立、今はジャカルタで一人暮らしをしながら週に3回大使館の領事部で働いていた。その前は戦後インドネシアに残留した日本人軍人軍属の組織「福祉友の会」の仕事を手伝っていた。

もう10年以上も前になるが「福祉友の会」の理事長もしたことがある元大手商社の役員だった樋口修さんが自宅で殺された事件があった。犯人は雇っていたお手伝いの手引きで押し入った男たちであった。この時もお手伝いは、ふだん樋口さんから厳しく言われるその恨みが動機であると警察に語っていた。

インドネシアでは年に一回ぐらいの割で日本人が殺されている。2009年には東ジャワで真珠養殖会社の社長が仕事上のことで雇人から恨みを買い殺さている。同じ年、バリ島に観光で来ていた女性が強姦されて殺されている。さらに2010年にはジャカルタで日本人学校の元コーディネーター夫妻が殺害されている。

インドネシア人は普段はおとなしいが、アモック(狂乱)になると怖いと昔からいわれている。それにソンボン(高慢)な人間には一倍恨みをもつようだ。日本人が殺される背景にこれらがあるとすれば、気をつけなければならない

           未成年者の喫煙と「大東亜共栄圏」

2012-06-07 06:04:24 | Weblog
日本軍がジャワを占領した直後(昭和17年3月)のスラバヤの模様を中心に書いた「新生ジャワ」(高橋和也著愛国新聞社)を古本屋で買ってきて読んだ。その中に「未成年者喫煙」という一項があった。当時の現地の模様と、これに対する当時の日本人の「大東亜共栄圏」建設構想の一端が伺えて面白い。少し長いが引用させてもらう。

「ジャワでは子供でもタバコを喫う。甚だしいのは5,6歳から始めるという。ダバオ(フィリッピン)あたりでもその様で、上陸した私たちに手を差し出してタバコを呉れといった。今日(17年5月10日)の新聞をみると、マディウン(中部ジャワ)では、日本の子供がたばこを吸わない事を見習ってインドネシアも未成年者はを禁煙させてはどうかという運動が始まった。日本の良いことを見習って、どしどしやろうということは頼もしい。こうしてアジアから未成年者の喫煙者を駆逐してアヘン吸引者を一掃できればその意義は大きい。やがては大きなアジアの運動として発展するように祈ってやまない」

一昨年だったと思うが、インドネシアでは2歳の男の子がプカプカとタバコを喫っにる姿が写真や動画で世界中に流れた。この坊やはその後病院で治療を受けて今はもう喫煙しないそうだが、WHO(世界保健機構)によると、インドネシアでは3歳から15歳までの子供の25%が喫煙歴があるという。4人に1人とは信じられない。「新生ジャワ」の著者が70年前祈ってやまなかった子供の喫煙はまだ成果があがっていないみたいだ。

インドネシアはWHOのタバコ規制に関する条約を依然批准していない。国内のタバコ産業からの圧力があるみたいだが、そのせいか昨年旅行した時もいまだに公共機関でも禁煙でなく悩まされた。

            お米離れとホームベーカリー

2012-06-06 06:35:07 | Weblog
日本人一世帯当たりのパンの年間購入額が、お米のそれを上回ったという。これは総務省の家計調査で判ったものだが、わが家の場合はどうなのかー。老妻に聞いてみたら、わが家では月に7キロ、3千円ぐらいお米を買っているが、パンは週に2回ほど食パンを買っている程度だから、せいぜい2千円だ。老夫婦と娘3人だけの生活で、あまり参考にならないが、わが家では依然お米のほうが多い。

たしかに日本人のお米離れは、昔に比べれば月とスッポンである。戦時中、僕の友人が作った「二合三勺」という詩がある。”僕らは一日二合三勺の配給米で生きている。大豆や豆粕を炊きこませて一日二回のメシを三回分に増やして、なんとか飢えをしのいでいる”。二合三勺は今風にいうと、約200グラム、月に直すと約6キロである。今の日本人はとうてい一人月6キロのお米は食べてはいない。

戦後すぐの昭和21年から22年頃にかけて自家製の電気パン焼き器が流行した。木箱の中にニクロム線を通し、ジュール熱で粗末なパンを焼く装置だった。当時はお米不足から、お米に代って小麦粉が配給されることが多く庶民の知恵として生まれたものだ。しかし、小麦粉の配給量が少なく、たいていの家は小麦粉のほかにサツマイモの粉などを混ぜてパンにしたものだ。

階下に住む娘一家でも遅ればせながらホームベーカリーを手に入れた。昨日もそれで作ったパンの”おすそ分け”に預かった。なかなかの出来で、市販のものと変わりがない。作る手間閑もそれほどではないらしい。ホームベーカリーがどこまで普及するか判らないが、電気釜にとって変わるような時代がくるのだろうか。食生活が多様化してきている。TPP交渉はもちろん、これを見据えて行うと思うが、難しい時代だ。(写真はおすそ分けのホームベーカリのパン)

               野田総理の巧言令色

2012-06-05 05:05:37 | Weblog
野田総理は昨日、第二次内閣改造人事を発表した。参院で問責決議された田中防衛、前田国土交通の二大臣を含む五大臣の更迭だ。就任してから僅か九か月の間に二度目、それも国会開会中の改造、極めて異例なことだ。今国会での成立をめざし、自分の政治生命をかけて断行しようとしている総理の意気込みは感じられる。が、果たして成立できるのであろうか。

改造後の新閣僚は民間人か起用した森本防衛大臣を除いてあまり変わり映えしない。期待もしていない。むしろ、また問責の対象者が出てくるのではないかと心配だ。平成二十一年九月、民主党内閣が発足してから二年九か月だが、なにかいつも閣僚の入れ替えをやっているような印象である。鳩山、菅、野田三代の内閣でなんと五十人近くの大臣が誕生している。

野田総理は発足にあたって「黙々と仕事をする”ドジョウ”内閣だ」と自ら言っていたが、僕にはそう見えない。つい最近も小沢一郎元代表との会談に当たって「乾坤一擲」だとか「一期一会」だの古めかしい言葉で大言壮語していたが、二回も話し合って平行線のまま結論が出ていない。今回の内閣改造に当たっても「全知全能」とか「誠心誠意」とか四字熟語を駆使しているが、どうも僕には、その裏腹のように見えてくる。

野田総理に求められるのは「不言実行」である。”ドジョウ”からくる印象は寡黙だが、野田総理は大言壮語しすぎる。昔から「巧言令色鮮仁」という言葉がある。野田総理の最近の言動は”ドジョウ”ではなくて“ナマズ”みたいに見えてきた。

         落ちてきたB-29の発動機と搭乗員の死

2012-06-04 06:01:29 | Weblog
僕の消えかかった遠い記憶の中に昭和20年5月24日の山手大空襲のあと東京の久が原(大田区)の住宅街で見た大きな穴がある。たしか空襲の翌々日だったと思うが、動員先の蒲田の工場から徒歩で家に帰る途中、B-29の落ちた穴があるというのでわざわざ遠回りして見に言った記憶がある。その時の住民の話では、穴はB-29の胴体が落ちてきた跡で、搭乗員は憲兵隊に捕まって連行されたという話であった。

戦後、僕はすっかりこの話を忘れかけていたが、数年前「太平洋戦争の学校生活」(岡野薫子著新潮社1990年)の中で、空襲のさい撃ち落とされたB-29の搭乗員が落下傘をつけたまま塀に寄りかかって死んでいるのを久が原で見たという目撃談を読んだ。搭乗員は死んでいたが、久が原にB-29の機体が落下してきたのはやはり間違いなっかことを確認した。

先日、勤労動員時代のクラス会で久しぶりに旧友B君に再会した。B君が当時久が原に住んでいたことを想い出し、空襲時について聞いてみたところ驚いた。B君の家にもB-29の積んでいたプロペラ付の発動機が轟音とともに落下してきて飼い犬が破片に当たって死んだのだという。もちろん、B君も搭乗員の遺体を見ているが、岡野さんの本の記述とは違って、死体は落下傘をつけずU字溝の中にあったという。

戦時期の空襲の全容については判らない。防諜上のこともあって当時政府は具体的な被害状況を発表していない。体験者の断片的な記憶から戦後になって空襲時の記録が編纂されている。久が原で発見されたB-29の機体のことも搭乗員についてもはっきりした記録は残っているのだろうか。



            「健康寿命」70歳は現代版厄年

2012-06-03 06:03:17 | Weblog
「健康寿命」というあまり聞きなれない言葉が新聞に出ていた。wikepediaによると「日常的に介護を必要としないで自立した生活ができる生存期間」だそうで、2000年にWHO(世界保健機構)によって言い出された言葉だ。今年初めて厚労省が日本人の「健康寿命」を明らかにしたが、男性は70.42歳、女性は73.62歳だという。

傘寿を越えた僕は幸いにも「健康寿命」をこえ日本人男性の「平均寿命」である79.64歳(平成22年度)をもクリアー出来た。しかし、今考えてみると「健康寿命」の70歳前後は長寿を決める分岐点、言ってみれば現代版厄年であった気がする。当時の日記を調べてみると、僕は69.9歳の時、膀胱がんが発見され、その手術のため16日間入院している。さらに70.6歳時には血糖値が高くなり糖尿病と診断された。また70.11歳時には白内障を手術している。

70歳前後は健康への危険信号がともる年齢なのだろう。10年前の2002年には同じ齢だった親友二人が鬼籍入りしている。二人ともあまり健康には留意せず”若さ”に任して、大酒を飲み、ヘビースモーカーであった。”タバコは僕の身体の栄養源”などと言い、一方ではアルコール度の高い強い酒を好んで飲んでいた。

僕は高血圧の一病息災のお蔭で、彼らよりは健康に注意していたが、当時をふりかえると、あまり病気に対する知識はなかった。糖尿病と診断される前、どうして、こんなにノドが乾くのかと糖尿病を疑いもせず、ペットボトルの水を何本も買い込んで旅行をしたり、膀胱がんの手術前も医者から抗生物質貰って痛みをとめて海外旅行へ出かけたりしていた。

個人的な「健康寿命」は予測できないだろうが、70歳前後はどうも現代版厄年のような気がしてならない。70歳になったら健康診断を受け、自分の健康を過信してはいけない、