「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

人口が1億をわり、ご隠居さんがいなくなる日本!?

2017-04-12 05:31:31 | 2012・1・1
24年後の2041年(平成51年)には日本の人口が1億人を割り込むという推計が厚労省から発表になった。少子高齢化がさらに進み、かって経験のない人口減少社会の出現である。僕ら老人は、もうこの世にはいないが、毎日新聞は”高齢者引退なき時代”という見出しをつけている。”1億総活躍プラン”といっても、赤子子供までいれて1億人に足りなければ、働き手不足から引退できないという極論である。

24年先といっても、そんなに先ではない。80歳を越えた老人にとっては24年前のことは、つい、昨日のように思われる。24年前の1993年、僕は62歳で現役で働いていた。足腰もしっかりしていて、年に数回海外旅行に出かけていた。認知症といった言葉もなく、将来の自分の介護などまったく心配していなかった。ただ漠然と”老後の生活”を考えていた。

”高齢者引退なき時代”とは、働き手人口の不足から、定年を過ぎても働かなくてはならない。年金支給年齢が今より引き上げられ、働かざるをえないといのである。ご隠居生活は許されない。余生を楽しみたくても楽しめないのだ。現在の老人に対する年金制度、医療福祉制度は、曲がりなりにも作用していると思う。しかし、この制度が今のままで持続されてゆく保障はない。

”高齢者引退なき時代”には定年年齢は何歳に引き上げられるのだろうか。まさか撤廃されるとは思わないが、平均寿命が飛躍的に伸びるとは思えない。”飼い殺し”というイヤな言葉があるが、まさか死ぬまで働く時代が来るのであろうか。人間である。人生には老後を楽しむ隠居生活があらまほしきものだ。


”戦前回帰 ”散兵戦の桜

2017-04-11 05:24:45 | 2012・1・1
今年の東京の桜はいつまでも長持ちしている。開花宣言が出たのが3月22日だから20日間も都民の目を楽しませてくれている。(写真は昨日、自宅近くの緑道で撮影)しかし、戦前の日本人の桜感覚からいうと、どうなのだろうか。子供だった僕でも桜はパッと咲き、パッと散る、その散り際が美しいのだと教えられた。旧制中学の教練の時間の軍歌演習では”大和男(やまとおのこ)と生まれなば散兵戦の花と散れ”(歩兵の本領)と大声で歌ったものだ。

”戦前回帰”という言葉を目にするようになった。よく解からないが、戦前のすべて日本は美しかった、正しかったとして、あの時代に回帰しようというもののようだ。確かに政治家の中には「道徳」教育の正課にからんで「教育勅語」を云々したり、武力衝突にもなりかねない法を拡大解釈しようとしている者がいる。

戦争が後1年、2年続いていたら、散兵戦の花と散った世代である。”戦前回帰”する前に、今の日本の平和の喜びをかみしめるべきである。満開の桜の下では、認証保育園の園児たちが保育士さんに連れれて遊んでいた。戦前はすべて好い時代ばかりではなかった。そういえば、戦争中、僕にはお花見をした記憶がない。

半世紀前も今と変わらない混乱 シリアは主権国家なのか

2017-04-10 05:36:12 | 2012・1・1
昨日の日曜日の早朝(日本時間)トランプ大統領から安倍総理に電話がかかってきて45分にわたって日米会談が行われた。会談後安倍総理は記者団に、米国が化学兵器拡散阻止のためとったシリアへのミサイル攻撃は、世界の平和安全のための強いコミットメントであり、全面的に支持すると語った。早速、シリアのアサド政権を支持するロシアや北朝鮮などから、米国の攻撃は主権の侵害だと強い批判が起きている。

シリアの内乱が起きてから6年以上になる。僕は1956年から70年まで、新聞社の外信部で中東を担当していたが、最近のシリア情勢はよく理解できない。ロシアが昔から支持するバシャ―ル.アサド政権があって、これに対して欧米が反政府勢力を支持して戦闘が続いている。そこへ割り込むようにしてISが勢力を伸ばしている。最近、後ろ盾のロシアと米国との合意でアサド政権と反政府勢力との間の戦闘が治まる兆しが見えたが、今回のミサイル攻撃で、また、元の黙阿弥だ。

シリアの混乱は今に始まった事ではない。僕が現役の記者だった頃も同じだった。クーデターは年中行事で1958年、アラブは一つという当時のエジプト大統領ナセルの掲げる旗のもとで、エジプト、シリアが合邦して「アラブ連合」(UAR)が結成されたが、僅か3年でシリアが離脱してしまった。そして63年には、今のアサド政権の基幹となるバアス党(アラブ復興社会党)がクーデターで政権を握り、現大統領の父親で、ソ連(ロシア)で訓練を受けた航空将校のハーフィ―ズ.アサドが国防相につき、その後大統領にに就任している。

バシャ―ル.アサド政権は父親のハーフィ―ズ政権から数えれば、二代半世紀近くにわたっているが、相変わらずの混乱である。果たして、この国には主権があるのだろうか。他国から攻撃を受けても”侵害”だと非難する資格がない。かっての西欧殖民地主義によって一方的に”線引き”された国家の悲劇であるが。


4月9日の”灌仏会”(花祭り)

2017-04-09 05:44:54 | 2012・1・1

4月8日はお釈迦様の誕生日、灌仏会(お花祭り)だと思い出し、昨日散歩の帰り、近所の日蓮宗の古刹にまで足を延ばしたら9日の日曜日に延期になったと看板が立っていた。最近、東京の神社仏閣では人出を見込んんで、お祭りを日曜にするところが多くなってきたが、キリストの誕生日、12月25日が26日に延期されたというのを聞いたことがない。古い頭の僕には今一つ抵抗がある。 

戦前昭和の僕が子供時代、4月8日の花祭りは学校は休みではなかったが、どこのお寺も甘茶がふるまわれ、稚児行列もあって賑やかであった。僕も遠い記憶の中に母親に連れられて行列に参加したのを今でも覚えている。花祭りに限らず、昔は子供にとって、お寺さんは身近な存在だったような気がする。葬儀だけでなく、年忌、周忌の法要にも参加する機会が多かった。80歳半ばを過ぎた僕の記憶の中にも、子供の時みた地獄絵や閻魔(えんま)像、大人から聞いた蜘蛛の糸」の説話が耳に残っている。

「道徳」が正式教科になり、戦前の「教育勅語」が云々されている、戦前「修身」教育を受けた僕らだが、振り返ってみると、”ウソをつくとエンマさんに舌を抜かれるぞ”といった類の、仏教の教えも、道徳教育に役だってきたのではないだろうか。(4月9日に延期された看板が出ている門前と桜満開の境内)

どうなったのか豊洲の”安全”と”安心” 小池知事の記者会見

2017-04-08 06:30:33 | 2012・1・1
”三日見ぬ間の桜”という諺がある。”たった三日見ない間に蕾であった桜が満開になってしまい、満開の桜が散ってしまう。物事の状態が、僅かの間にどんどん変化する”(三省堂慣用句ことわざ辞典)という意味だが、僕が3日間、北海道を旅している間に家の近くの桜並木は、昨日の風で一部散りはじめてきた。

長年、情報産業に携わってきたためか、三日間でもネット情報から離れ、新聞テレビから遠ざかると落ち着かない。世の中どうなっているのか不安なのだ。帰宅、早々、まず、メールに目を通し、溜まっていた新聞を読んだ。そして、明日のブログのテーマ探しを始めた。幸い、金曜日は小池百合子都知事の定例記者会見があり、話題には事欠かないと思い、生中継のある東京ローカルのMXテレビにチャンネルを合わせた。

都民の最大の関心事は豊洲市場への移転問題である。都議会での百条委員会での審議もあり、小池知事が現状をどう説明し、記者が質問するか注目していたが、テレビの中継は最初の知事のお座なりの発表の20分だけ、新しい都のアイコンやキャッチフレーズの発表や、NYタイムスに渋谷のスクランブル交差点写真を使用したPR広告を掲載したという報告、記事になるのは、災害に備えて多摩地区にドローン特区を設けたぐらいだ。

豊洲市場への移転問題はどうなっているのか。”安全”なのか”安心”なの。僕の理解では戦略会議で検討しているようだが、移転延期に伴う費用だけでも莫大である。これも都民の税金である。百条委員会は議会の問題だとしても、喚問証人が偽証かどうかといった派生した問題に終始している。知事は7月の都議会選挙で頭が一杯なのであろうか。

北海道3日間の旅日記(2)"JR北海道"的体質

2017-04-07 05:50:40 | 2012・1・1
僕ら老夫婦が東京から転勤で札幌に住んでていたのは昭和47年(1972年)から56年にかけての足かけ10年だった。そのあと僕も老妻も仕事や観光で札幌へはきているが、函館は老妻にとっては青函連絡船に乗って帰京した時以来36年ぶりだった。僕もこの10年は北海道は訪れていなかった。

僕らが札幌に転勤してきた47年は札幌冬季五輪のあった年で、札幌には新しく地下鉄が開業し、地下街が誕生、サッポロが新しい町に生まれ変わった(虹と雪のバラード)の時代であった。人口も100万も超え、僕ら道外からの転勤者は冗談に”昭和の屯田兵”などといって仕事をしたものだ。あれから30余り年、札幌は今や、人口だけで言えば195万人、倍近くになっている。確かに札幌の町は急速に発展している。中心街には超高層ビルも経ち、新しい地下鉄も出来た。しかし、3日間の旅行者の目だが、何か今一つ活気がないようにみえた。

函館の町は札幌よりもその感じがした。新幹線の開業で函館の町は活気が出てきたと聞いていたが、桜の開花前のオフ.シーズンのこともあってか、函館駅前には人がおらず(写真)名所の駅前の朝市は閑古鳥が鳴いていた(写真)。函館から札幌までJR北海道の特急北斗の4時間の旅をしたが、沿線には、まだ残雪があり、北海道らしい原野が残っていた。(写真)

北海道の人口は1995年の556万をピークに減少に転じ現在(2015年)は535万人、2040年には419万に減少するという予測がある。この中にあって数こそ少ないが、冬の観光地のニセコや倶知安を中心に外国人人口が増えており、中国人の原野や高級マンションの買い占めが問題になっているそうだ。そのせいなのだろうか、函館から札幌までの車中案内は英語に混じって中国語の案内を流していた。

それほまでに中国人旅行者の利用者が多いのであろうか。10年もお世話になった北海道に対して悪口になるが、3日間の旅で人情の暖かさにには感謝した。しかし、一方でJR北海道の中国語車内放送にみられるような、北海道方言で言う”いいふりこき”的なもてなしがホテルのサービスにまだまだ残っている印象を受けた。恰好良さだけ実が伴わないサービスである。これが大きなことを言えば北海道のさらなる発展を阻害している因子ではないだろうか。

”防空壕に牢獄”いまだにおかしな表示がある スマトラ”日本の穴”

2017-04-02 05:42:39 | 2012・1・1

20年ほど前まで、日本国内でもインドネシアの「南京事件」として戦争中、労務者3000人が虐殺された現場と喧伝されていた西スマトラのブキティンギの「日本の穴」の現場を視察して、最近帰国した日本の大学生から”いまだに防空壕内の掲示にはこんな間違いがあります”と写真を送ってきた。(3月25日更新小ブログ参照)

大学生によると、「日本の穴」は観光名所として賑わっているが、壕内の掲示板には依然間違いがある。例えば壕建設の際の残土の捨て口で、通気孔が「penjara} (牢獄)とされ、防空壕なのに、部屋の一つが「amunisi」(弾薬庫)に、壕内の発電用のモーターを置いたコンクリート製の台が「dapur」(台所)とされている。設計者の本庄弘直主計大尉(故人)によると、壕内の換気を第一に考え、壕内では煮炊は一切しなかった。壕の脇には銃剣を持った旧日本兵二人の像が立っているが、本庄大尉の残した本によると、防空壕造成に当たって関与した軍人は二人だけでしかも軍刀だけの装備だった。

2005年、僕らは”虐殺”の誤りをただしたパンフを関係者の協力で作成、現地の市役所、観光局、ホテルなどに数百部単位で配布した。そして、それに先立ちインドネシア政府も壕の脇に描かれていた”虐殺”の壁画は一切撤去したのだが、やはり、完全解決には至っていなかった。こういった掲示に誤りがあれば、観光客に誤解を与えるに違いない。戦後70余年たっても”戦争”はまだ終わっていない。


(3日 4日 所用によりブログ更新しません)

桜満開だった80年前の小学校入学式

2017-04-01 05:43:39 | 2012・1・1
早や4月である。戦前、東京の公立小学校の入学式は一斉に4月1日であった。80年前の昭和12年4月1日、僕も今は廃校になった東京の省線(JR)五反田駅に近い第二日野尋常高等小学校の桜満開の校門をくぐって入学した。今でも僕はその情景を憶えている。その日の亡父の日記にはこう記されている。

「静かに4月の朝が来た。今日こそ〇〇(僕の名前)が新生活の第一歩で、小学校へ入学するのだ。いつも寝坊なのだが、今日は嬉しく5時にはパッチり目を開けて起き、三島神社と雉の宮神社(いずれも近所の神社)に詣で、愛児の前途の幸せを祈願した」父は遅い子持地で、僕は父の48歳の時の子供、それだけに僕に対する愛情は一入だったのであろう。

小学校で始めて習った国定「国語読本」巻一は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」であった。この教科書は昭和8年(1933年)から15年まで使用されていた。満開の桜の花がきれいに色刷りしてあり、子供心にきれいな教科書で嬉しかった。この「サクラ」教科書の後の世代は「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」 「コマイヌサン ア コマイヌサン ウン」だが、この世代を含めて皆、いまや後期高齢者である。

母校は20年5月の空襲で全焼、戦後別の場所で名前だけ残っていたが、その名前も今はない。明治時代の初めに開校、亡母も卒業している歴史のある学校だけに寂しい限りだ。数年前まで、この桜のシーズンに一緒に卒業した仲間で同期会を開いていたが、僕を含めて3人だけになり自然解散になってしまった。80年の歳月の流れである。