漂泊の旅人様の本日のエントリーを転載させていただきました。どうぞご覧下さい。
北方領土を調べているうちに一人の日本人に出会うことができた。
樋口季一郎である。
彼は大東亜戦争終戦時、北方軍・第5方面軍の司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮していた。
8月15日、大日本帝国陸海軍が連合軍に対して全面降伏を受け入れた後、8月18日、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連軍が千島列島に進軍して占守島に迫ってきた。これに対し、樋口は徹底抗戦を指令した。
この戦いは最後の大日本帝国軍の戦いとなった。
勇猛果敢な我が帝国軍戦士はソ連軍に対し、3000人の死者という打撃を与えた。
しかし、やんなるかな・・・武装解除を命じられソ連の軍門に下ることとなる。多くの戦士はその後、シベリアに抑留され極寒の重労働を課せられ多くはシベリアの露となった。
一方、ゼネラル樋口は終戦後、占守島の戦闘で煮え湯を飲まされた、ソ連によって戦犯としての処断を画策される。
戦犯となれば、絞首刑となるのは必定…しかし、そんな樋口に手を差し伸べる人たちがいた。
世界ユダヤ教会である。
ユダヤと日本人と言えば思い浮かべるのは杉原千畝であるが、ここにもユダヤ人にして命の恩人と感謝される人物がいたのである。
以下ウィキペディアより(漂泊の旅人様のエントリー内)
オトポール事件
1937年12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下、3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。日独防共協定を推進したヨアヒム・フォン・リッベントロップ駐英大使は、このことを知ると、ヘルベルト・フォン・ディルクセン駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長・東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかった為、事無きを得た。本来・親独派である東條が樋口を不問にした背景には、ユダヤ人人脈を通じた対米関係の修復の模索との見方もある。
1938年3月、ユダヤ人がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連〜満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅まで避難していた。しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めを食らっていたのである。樋口はこの惨状に見かねて、ユダヤ人に対し、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界への移動の斡旋等を行った(オトポール事件)。樋口は「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトボールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記しているが、芙蓉書房は彼の手記にある数字を勝手に2万人に改竄している。樋口がナチスの人種差別政策に激しい憤りを抱いていた背景には、かつてポーランドやドイツに駐在武官として赴任していた頃寄宿しようと一般家庭に尋ねて行くと、東洋人であると言う理由でことごとく拒否され続けていた。しかしあるユダヤ人の一家庭だけが樋口を温かく迎えてくれたという、彼自身の体験が根底にあったためである。
戦後イスラエル建国功労者として安江とともにユダヤ人にしか与えられない「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」に「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」と名前が刻印され、その功績が永く顕彰されることになった。また、樋口が終戦前後まで指揮をとっていた部隊内では、捕虜の虐待や戦争犯罪とみなされる事件はただの一件も起きていない。
日本人の誇りは地球規模でのものである。慈愛は人種を越えてこそ意味をなす。
白豪主義者で差別主義者のオーストラリア人!!お前ら日本人の爪の垢でも煎じて飲め!!(以上)
≪ベッラあとがき≫
私はこの一週間、ワーグナー漬けであった。
今のバイロイトでのワーグナーではなく、「あの時代」、ナチスの時代のワーグナーの演奏であった。
あのころの演奏家、指揮のフルトヴェングラー、そしてヘルデン・テノールのローレンツ、ソプラノのフラグスタート、フリーダーライダーなど・・・彼らの戦いは、泥にまみれ、戦後の糾弾にも何の弁明もせず、ただ音楽のみでのコメントだったと思う。
特にローレンツなどユダヤ人の妻をもったことで「同性愛者がカクレミノとしてユダヤ人の妻を持った」と言われたり、人権なんてどこにもない、一つ間違えれば命はなかったはず。
ワーグナーを堂々と演奏する中で、いつのまにかナチスの「高揚感」に利用されていたことは否めない。
しかし、どれだけの人を救ってきたことか・・・そのことは明らかにされていない。
戦後、ナチスとの関連を問われ、世界中から演奏する場を失ったバイロイトの名演奏家に演奏依頼したのは、あのミラノスカラだったこと、指揮者のフルトヴェングラー、ソプラノのフラグスタート、テノールのローレンツを「全部ひっくるめて」面倒をみたという話・・・これ、信じられないほど・・・ファシストのムッソリーニ関連の演奏家は追い出したのに・・・。
それは、聴衆がフルトヴェングラーらの「音楽性」を信じたことだたっと思う。
これで彼らは救われたのだった・・・。
ところで漂泊の旅人様の本日のエントリーをご覧下さっていかがでしょうか。
「あの時代」の日本人とユダヤ人のことを書いて下さっていました。
漂泊の旅人様の文章で、ほとんど政治家の容姿などをネタにして責めることがなかったこと、すべてその政策にあったことなど、見事なものだと感嘆していたのです。
政治記事によくある「マニュアル文」もなく、前原の口が曲がっているなどということもなく、ただその「政策」だけで批判なさいました。大変ノーブルな見地と思っています。