宇山卓栄氏『イスラムは何故ウイグルに冷淡なのか』 深田萌絵女史
ウイグルのイスラムは「本家本元ではない」ということをきいたが・・・
どこが「ちょっと違うのか」をお聞きする。
ウイグル問題を「民族の視点」から解明、世俗イスラム(イスラムを本当の意味で信仰しているのとは少し違う、お祈りもしない)
中央アジアのウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタンらは同じ世俗イスラムだが、ウイグルとは同じ根源だがシンパシーが全然ない。
カザフスタンの経済は「中国のマネー」、中国のウイグル問題を彼らはデメリットでしかない。
TPPに相対する反米を強め、ウイグル人を見捨てるというケシカランことになっている。
ウイグル人のルーツは、もともとトルコ人で日本で「トルコ料理」を経営していて中国人ぽいのはほとんどウイグル人で、「突厥」と呼ばれていて、モンゴル高原の西の端に住んでいた。中国が千年たってもウイグルを許さないというのは「匈奴」としてモンゴル人が南下して勢力拡大、そこへトルコ人が来て「荻」といい、突厥としてモンゴル高原から西の中央アジアに行く、そこで突厥が名前をかえて「ウイグル」といい、さらに名前をかえて「キルギス」といい、今日のセルジュークトルコ、オスマントルコ、そしてトルコ人となる。
ウイグルはトルコ人的な風貌、イラン人と混血をし、徐々に風貌の変化をして現代のウイグル人となった。
本来文明も民族も違うのにかかわらず・・・18世紀の 新疆ウイグル(新しい土地の意)、これを中華民国の孫文が出て清王朝が崩壊、孫文は漢民族の統一国家を思ったが領土が半分以下になるので孫文が掌返しをした。そこで5族として宗教も民族も違うが中国人となる。
満州人もあり、中国にはいろんな民族がいる。習近平は「漢民族の偉大な復興」と言っている。
漢民族と言わず、中華民族というようになった。「中華」というのは漢民族が文明の華とし、周辺の民族は蛮族とする。
保守は「中国というな」というが、「シナ」というのは差別語なので「中国といいなさい」と外務省はいう。本来は「中国」が差別語。
「内モンゴル」は正しくはモンゴルからいうと「南モンゴル」である。「内モンゴル、外モンゴル」というのは中国を基準としたもの。
ウイグルは正しくは「東トルキスタン」という。清王朝の時代に南モンゴル人が積極的に儒教など取り入れ、中国に影響されて同化されていったが、北のモンゴルは中国化していない、今の「モンゴル」である。・・・最も大切なのは文化・言語であり、これを失うと「同化政策」の犠牲となる。・・・日本で中国語表記・韓国語表記など必要か?英語表記で十分ではないか?放送を待っていてもなかなか日本語にならない。
必要なのは教育であり、まともな日本人を育てることである。公教育全般で「日本文化とは何か?」をハッキリさせなければ、ウイグルのように同化させられる、日本人が同化されていなくなることもある。中国人女性が自覚して中国人男性が結婚しにくくなっている。
しかし経済的・思想的にものみこまれるようになる。(以上、走り書き)
★ 自民党のナガオ議員が「自民党の立候補者の中でただひとり公明党が支援していない議員」として落選するのではないか、どうか応援してほしい、という内容で主に自民党系の評論家からyoutubeやツイートで出回っているが、深田萌絵女史はこの件について下記のように書かれている。
私は賛同します。
★ 深田女史が述べておられることはよく理解できる。
公明党からの「推薦」はあの「高市早苗」議員も受けている、自民党の立候補者はナガオ議員以外、全員受けている。
すると高市早苗議員も「親中だから公明党から支援を受けているのか」ということになる。
ナガオ陣営はこのことは何も言っていない。何もよく知らない人たちが「ナガオ議員がひどいめにあっている」と思っているのだろう・・・ある人は「公明党から彼の人柄が嫌われている、政策ではない」という。
そういえば、目立つことばかり「日替わり定食」のように取りかえ、運動員が倒れても素知らぬ顔の冷たさ、というのもきいている。かつて民主党に所属していた時は、鳩山→小沢→前原・・・というように頼り、ある時は勢力があった「維新」に出馬を願ったがかなわず、やがて自民党で安倍晋三に声をかけられた、というよりも櫻井よしこ・金美齢らを自分の講演会に呼んで櫻井よしこの講演を主催したりしていた。こんな中で自民党内部でも彼を助けるような必死な声は見当たらないのが不思議だ。・・・以上は私が聞き及んだことである。悲しいことに動画の中で「篠原常一郎氏」もナガオ氏を支援したい、と言っている。「公明党が唯一推薦しない候補者」ということで、それはなぜかということでなく、「反中」だからだ、と評論家たちは思っている。ナガオ氏が民団のビアパーティーにも「呼ばれたら行く」と言って実際に出席したり、いろんな顔をみせていることは気になっていた。(ブログ主)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/f3/fa68578f8478fc5601abd004f588f2a5.jpg)
★ こういう意見もありました。・・・高市さんは公明党の推薦もらっている・・・するとナガオ議員は(笑)
>高市早苗ですら公明党の推薦もらっていますが、高市早苗は中共の息のかかった政治家なんですかね。
10月25日は西村(あの「赤坂自民亭」と称して関西の大水害の時に飲んでいた写真をUPした人)、26日は安倍晋三が八尾に応援に来るそうです。青山さんが来てもチョロっとしか聴衆は集まりませんでしたね。もうわかっているのですよ。そうそう、芸人の「ほんこん」というのもナガオ応援のyoutube出していましたね。
この「ほんこん」という人、最近態度でかい、本職は芸人でしょう?
政治評論家とでも思っているのかもしれません。このごろこの人の顔付きや態度が嫌で「正義のミカタ」という関西の番組、見ません。・・・あんた、ナニサマだ!!「ほんこん」だって?
かつての民団ニュースより
2011年7月30日、夏恒例の八尾支部「ビアパーティー」が行われ、長尾たかし・谷畑孝 衆院議員、田中誠太 八尾市長をはじめ、大阪府議会議員 柴谷マサヤ議員(代理)が来賓として駆けつけたほか、民団大阪本部からは劉茂宣(ユ・ムソン)監察委員長や支部顧問、府内6支部の支団長及び役員が激励に訪れた。
http://www.mindan-osaka.org/kccbbs/news_viewbody.php?number=130
★ 昨日は疲労困憊でブログがなかなかまとまらず、帰宅後すぐに眠ってしまいました。
本日は午前中は所用で出かけ、午後に帰宅、やっとブログが書けました。
畏友、奥山篤信氏の映画評が「月刊日本」に連載されていますが、最新の評論が出ました。
ただ今、発売中です。
『アイダよ、何処へ?』予告編
ボスニア映画
『アイダよ、何処へ?』 奥山篤信
原題『Quo Vadis. Aida?』2020
「ユーゴスラビアはひとつであり、民族主義的な思想は許さない」「差別や貧富の差の無い世界」を目指し、多民族・多宗教地域を四半世紀以上もまとめた。〜故チトー大統領の功績〜
『サラエボの花』(2006年、ベルリン国際映画祭・金熊賞受賞作)は、これまで僕が観た映画の中で最高傑作の一つだと言える。ボスニア人女性のヤスミラ・ジュバニッチ監督の作品だ。僕の著作『超・映画評』(扶桑社・08年2月)でも取り上げた。簡単に紹介する。
母から父親がボスニア紛争の英雄であると聞かされていた娘は、あることをきっかけに、母から父親に関する震撼すべき事実を告げられ、絶望に陥るのだった。自身の出生の秘密を知った娘は、母に対して激しく反発する。やがて娘は母の決断を理解し乗り越えようと努力する。そこには憎しみから希望へと到る灯火が見える。まさに映画の社会的使命だとの思い出がある。
今回取り上げるジュバニッチ監督の新作『アイダよ、何処へ?』は、第77回国際映画祭のコンペティション部門選出、第93回アカデミー賞では、国際長編映画賞ノミネートされている。
本作は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の最中、1995年7月にスレブレニツァで起きた大量虐殺事件を描いている。
セルビア人のラトコ・ムラディッチ(2021年、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷での終身刑が確定し、服役中)に率いられたスルプスカ共和国軍(Vojska Republike Srpske; VRS)によって推計8000人のボシュニャク人(イスラム教徒)が殺害された事件だ。今からわずか26年前に起きた残酷で見るに堪えない、文字通り地獄絵の世界であった。第一次・第二次大戦を遥かに凌ぐ生々しい残虐さには呆然とする。
国連平和維持軍の通訳として働く女性を主人公に、家族を守るために奔走する彼女の姿を通して、事件当時に何が起こっていたのか、虐殺事件の真相を描き出している。1995年の夏、ボスニア・ヘルツェゴビナの町スレブレニツァがセルビア人勢力によって占拠され、住人たちが保護を求めて国連基地に集まってくる。家族を守ろうとするアイダだったが、物資の不足した少数のオランダ軍・国際連合平和維持活動隊は無力であり、すべては虚しく家族は虐殺されてしまう。
ジュバニッチ監督の描く世界の素晴らしさは、アイダが事件の後、現地に戻ってくるシーンに表れている。紛争の犠牲になった多くの民族とその何の罪もない子供達の笑顔などをコミカルに映写することにより、復讐ではなく新たな融合の必要性と希望を説く最後のシーンには、まさに『サラエボの花』と同じくジュバニッチ監督の平和を希求する思いが存分に描かれている。感動的なのだ!
ユーゴスラビア紛争は当初、過激な民族主義(大セルビア主義)を唱えるセルビア人に対して、スロベニア人やクロアチア人が民族自決を要求し、その後は(セルビア人主体の)旧ユーゴスラビア政府に抵抗するボスニアやコソボのムスリムが「民族浄化」の犠牲になったという説がある。ジュバニッチ監督もこの視点に立っている。
だが、これに懐疑的だったのが、講談社ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞をダブル受賞した高木徹氏の『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』 (講談社文庫)である。本書で高木氏は、セルビア人を加害者、ボスニア人を被害者とする内戦の構図が生まれた背景には、アメリカの凄腕PRマンの情報操作があったことを説得力をもって示したのだ。是非一読願いたい。
戦争を善玉・悪玉の二元論として簡単に図式化することは難しいことも事実なのだ!
★ 奥山篤信氏の映画評は毎月読んでいますが、きれいごとではなく事実を目の前に突きつけられていることを感じます。歴史は古代から現代に至るまで決して「綺麗ごと」では片付かないこと、しかし人々はそれを何としても克服しようとする、そして苦難の現実、奥山氏のお考えの中に、それが縦横にタブーなしで語られるのを感じます。
戦争から復興へ・・・ボスニアヘルツェゴビナ