この1週間ほど朝のウォーキングをサボりがちだ。
今朝もマクドで宝島の読書。
確実に老化と体力低下が進んでいるに違いない。
明日から気を引き締めて行こう。
ここで、マクドのハンバーガーについてチョイと考察を。
私が初めてハンバーガーなるものを知ったのは、子供の頃のテレビで「ポパイ」のウインピーが食べていたのを見た時だ。
ウインピーがいつも旨そうに食べているハンバーガーは、当時の田舎町でお目にかかることはなかった。
中学生の頃やっと田舎町のパン屋でもハンバーガーと銘打ったサンドが売り出されたが、私がイメージしていたウインピーのハンバーガーとは形は同じでも味は全然違った。
要はニセモノ、マネモノの味しかしなかった。
本物のハンバーガーと対面したのは大学に入った京都で、新京極のマクドナルドで食べた時だ。
店内はアメリカナイズされた内装で、流れているBGMも当時のアメリカンポップスだった。
初めて食べたマクドのハンバーガーの味は、まさに私が思い描いていたとおりのウインピーのハンバーガーの味だった。
それ以降、河原町に出た時には必ずマクドでハンバーガーを食べていた。
私にとってマクドのハンバーガーは、王将の餃子と並ぶ、青春の味のカルチャーショックだった。
もし大学を手近な九州の大学にして、就職も近場にしていたら、マクドのハンバーガーとの出会いは30年以上遅くなっていたはずだ。
そんなマクドも、そして王将も人生の一時期、疎遠になっていた。
それは結婚して子供が生まれ、仕事が忙しくなった30代後半から40代後半の時期だ。
仕事や生活に疲弊して、そのほかのことが面倒になり、飲酒が心の癒しになっていた時期だ。
この時期は音楽や文学を初め、流行や趣味的なものに深く関わることがなくなっていた、いわば失われた時間だ。
それが50も目前になるとサラリーマン人生の先も確実になり、仕事に対する意欲も完全になくなってしまい、興味のあること、懐古的なことに心は傾いた。
その頃からマクドのハンバーガーにまた戻ってきたのだ。
美味しいから食べるのではなく、懐かしいから食べるのだ。
今朝もマクドで宝島の読書。
確実に老化と体力低下が進んでいるに違いない。
明日から気を引き締めて行こう。
ここで、マクドのハンバーガーについてチョイと考察を。
私が初めてハンバーガーなるものを知ったのは、子供の頃のテレビで「ポパイ」のウインピーが食べていたのを見た時だ。
ウインピーがいつも旨そうに食べているハンバーガーは、当時の田舎町でお目にかかることはなかった。
中学生の頃やっと田舎町のパン屋でもハンバーガーと銘打ったサンドが売り出されたが、私がイメージしていたウインピーのハンバーガーとは形は同じでも味は全然違った。
要はニセモノ、マネモノの味しかしなかった。
本物のハンバーガーと対面したのは大学に入った京都で、新京極のマクドナルドで食べた時だ。
店内はアメリカナイズされた内装で、流れているBGMも当時のアメリカンポップスだった。
初めて食べたマクドのハンバーガーの味は、まさに私が思い描いていたとおりのウインピーのハンバーガーの味だった。
それ以降、河原町に出た時には必ずマクドでハンバーガーを食べていた。
私にとってマクドのハンバーガーは、王将の餃子と並ぶ、青春の味のカルチャーショックだった。
もし大学を手近な九州の大学にして、就職も近場にしていたら、マクドのハンバーガーとの出会いは30年以上遅くなっていたはずだ。
そんなマクドも、そして王将も人生の一時期、疎遠になっていた。
それは結婚して子供が生まれ、仕事が忙しくなった30代後半から40代後半の時期だ。
仕事や生活に疲弊して、そのほかのことが面倒になり、飲酒が心の癒しになっていた時期だ。
この時期は音楽や文学を初め、流行や趣味的なものに深く関わることがなくなっていた、いわば失われた時間だ。
それが50も目前になるとサラリーマン人生の先も確実になり、仕事に対する意欲も完全になくなってしまい、興味のあること、懐古的なことに心は傾いた。
その頃からマクドのハンバーガーにまた戻ってきたのだ。
美味しいから食べるのではなく、懐かしいから食べるのだ。