木工芸・漆・道具        

 木肌の美しさに惹かれ、指物の伝統技術と道具に魅せられて・・・・・ 木工芸 市川 (宇治市炭山)

砥石について

2008-10-05 22:23:34 | 道具
しばらく話題が木工から離れていたのでこの辺で本題に戻して・・・今日は砥石について

毎日の仕事の中で、刃物を研ぐことは大変大きな位置を占めている。
そのため、専用の研ぎ場を工房内に作り、刃物が切れやんだらすぐ研げるようにしている。



れんが色したキングの#1000の中砥石と巣板の仕上げ砥石で始まった研ぎであるが、20数年の間にいろんな砥石を使ってきた。

そして今は、

これが鉋を研ぐ場合の標準的に使う砥石。

右から、ニューケント#1000セラミック中砥石:#1000の中砥石もいろいろ使ってきたが、研磨力と減りのバランスが比較的とれているように思う。(もう少し堅いと申し分ないが・・・)

その左がキングのハイパー#1000、おなじ#1000ではあるがきめが細かく、ニューケントでできた深い傷をきれいにとってくれる。但し砥石がやわらかいので軽く当てる程度にとどめておく。

次が,刃の黒幕#2000:やや荒さ(#2000としての)も残すが次の青砥とのつなぎにはよい。

真ん中の黒い石が丹波の青砥:#2000の砥石がない頃#1000の中砥石でできた深い傷をとるにはこの青砥が不可欠だった。だから青砥にはこだわり続けてきた。20年ほど前になると思うが、京都市内にある森砥石屋さんの店に足繁く通い、よい青砥があれば確保しておいてもらった。よく締まっている真っ黒な青砥である。

そして仕上げ砥は中山の石。仕上げ砥もいろいろ使っているが、刃物によりあたりが微妙に異なる。しかしこの砥石だけは刃物を選ばない。刃物の鋼の種類がわかるような艶に仕上がる。木っ端であることが惜しまれる。

一番左も中山の戸前:これは20年ほど前、浅草の「といしや」で買ってきた物。やはり刃物を選ばないが小さいので裏研ぎに専用に使っている。

一つの鉋を研ぐのに6つの砥石をとっかえひっかえするのはめんどうなようであるが、こうすることにより、#1000の中砥石の研ぎ跡を簡単に細かくすることができ、研ぎに要する時間は短くてすむ。従って砥石の減りも少ないので研ぎ面の平面を維持しやすい。

だから、

こんなことも簡単にできるのである。

もちろん常に砥石の面を平らに保つことは大前提である。
これもいろいろな方法を試みたが、完全な平面を保ち続けることができるものは何もない。ならば平面を自分で作ればよい、そう気がつき、今は荒砥(その名も「あらと君」)3枚をすりあわせて平面を保ち、これで砥石の面直しをする。
但し仕上げ砥石はダイヤモンドの砥石で面を直している。
ちなみに仕上げ砥石に名倉をかけることはしない。

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「秋の夕べ」煎茶会

2008-10-04 23:01:52 | その他
黄檗山萬福寺で開かれた「秋の夕べ」煎茶会に行ってきた。
茶会は初めて。
妻の従姉妹の紹介で、黄檗売茶流家元から茶道具のお話をいただいた縁で招かれた。
もちろん作法など何も知らないが、気楽な気持ちで参加した。

境内には煎茶道の7つの流派が茶席を設けていた。


黄檗売茶流は、境内の一番奥の法塔の前に茶席が設けられていた。


ススキが飾られ、秋の風情のお点前席

お点前を拝見し、おいしいお茶とお菓子をいただきながら、ゆったりと時間が流れていく。実に気持ちがいい。

これに味をしめ、他の流派のお茶席にも。
いろいろなもてなしに触れ、楽しいひとときを過ごすことができた。
お茶席では元の職場のHさんや次女の小学校時代の担任の先生とばったり。


夕闇迫る頃、かがり火に照らされた本堂の前では献茶祭が行われた。


もともとこの茶会は、「月見の夕べ」煎茶会としてひらかれていた。


月明かりならぬ電灯の光に照らされてのお点前もなかなか風情がある。


回廊を照らす中国風の灯ろう、そして中国風の明るい読経と鳴り物。
お茶の世界とミスマッチのようで統一感がある。
それがまた独特の雰囲気を醸しだし風情がある。


山門をくぐると、西の空に上弦の月が輝いていた。
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信州へ その4

2008-10-03 21:43:22 | 故郷信州にて
長野へ

信州への旅(?)もいよいよ最終日
本当は 「秋の気配漂う高原の散策」 と行きたかったが、雨も予想されていたので長野へ


長野と言えば やはり善光寺さん



遠足か総合学習で訪れている小学生を見て、「今日は平日だ」と妻と顔を見合わせ「にたり!」



山門にも登ってみた。
善光寺さんに参ったのは実に33年ぶり。幼い頃より高校時代までは何度か来ているがその後は長野までは来ても善光寺に参ることはなかった。



本堂は昔のまま(あたりまえ)。でも境内の雰囲気はだいぶ変わってしまったような。
山門も昔は登れなかった。鳩の巣になっていたらしい。
来年は7年に1度の前立本尊の御開帳。さぞにぎわうことだろう。


そして、長野に来た一番の目的はこれ。



善光寺の横の信濃美術館でひらかれている。
会場には、1860年から現在までの名作といわれる木の椅子が130数点並べられていた。おなじ椅子でありながらよくもこれだけのデザインが考えられるものだと思う。中でも1860年にミヒャエル・トーネットによってデザインされたロッキングチェア(展覧会案内板の左最上段に描かれている物)の優雅さは印象に残った。どの椅子も座ることができなかったのが残念であったが・・・。

美術館では、第6回暮らしの中の木の椅子展 も開かれていた。こちらは隔年に開催されている公募展で、入賞・入選作品が自由に座ることができるように展示されていた。そこで、靴を脱ぎ、端から椅子に座ってみたが・・・。
中には座っても大丈夫だろうか、と思われるような椅子もあり、それにはやはり「腰掛け禁止」の札がかけられていた。

この四月から椅子を6脚ほど作ってきた。いろいろ考えて図面を引き、作ってはまた図面を引き直し・・・かなりの時間を椅子作りに費やしてきた。座り心地とデザイン、強度・・・それらをどう考えたらよいか、何かヒントがこの展覧会で得られば、と思ったが、ますますわからなくなってきた。
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信州へ その3 

2008-10-02 21:36:18 | 故郷信州にて
龍岡城五稜郭

五稜郭 といえば函館の五稜郭が有名。 
あまり知られていないが、実は日本にはもう一つ五稜郭が存在するのである。
それが私の故郷の隣町(今は佐久市)にある龍岡城五稜郭。




幕末の1864年から1867年にかけ、大給松平氏最後の藩主松平乗謨(のりかた)によって築城された。



訪れると、城址北側には「五稜郭 であいの館」があり、資料が並べられている。
館には年配のボランティアのガイドさんが常駐していて、いろいろお話をうかがうことができた。


大手橋と城址碑
この大手橋、普段は小学校の正門として使われている。


城の堀や石垣は築城当時のものがほぼ完全な形で残され実に美しい佇まいを見せている。
この堀は、明治新政府の元で完全に埋められたのであるが、昭和8年村人によって復元工事が行われ元の姿に戻された。



当時の建物はほとんど移築されたり壊されたりしたが、この御台所だけは学校として使用するために残された  
目を横に移すと・・・


小学校! 城址は小学校として使われている
御台所は昭和34年ころまでは理科室や家庭科室として使われていたということである。



堀と武者走りの土手
掘りは小学校の校庭を取り巻いているが柵やフェンスなど全く無い。それがまた良い。




城址碑の横に建てられている大給恒記念碑

龍岡城を築城した松平乗謨はフランス語もしゃべれたほど海外の知識を吸収し学問に秀でた時代の先駆者であった。
徳川幕府の老中や陸軍総裁を務めたあと(陸軍総裁の後任は勝海舟)、版籍奉還後は大給恒(おぎゅうゆずる)と名を改め、佐野常民らと博愛社(後の日本赤十字社)創立に力を尽くした。
 
私の実家はこの龍岡城と少なからず縁がある
私の高祖父(祖父の祖父)は龍岡城の役人で、家に残されていた当時の書簡から博愛社の創設にも何らかの形で関わっていたことがうかがえる。
そのためか実家には大給恒直筆の額が残されている。


最近制作している五角形の箸に「五稜箸」という名をつけた所以は実はここにあるのである。



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信州へ その2

2008-10-01 21:49:32 | 故郷信州にて
信州への旅のもう一つの目的は、祖母と父の33回忌の法事

法事といっても、妹夫婦にだけ来てもらい、お寺でお経をあげてもらっただけなのであるが・・・。

お寺は、佐久市前山の曹洞宗の洞源山貞祥寺


貞祥寺本堂

その昔、浪人時代には涼しい僧堂を借りて毎日勉強した身近なお寺であるが、久しぶりに表参道から登ってみるとなかなかの名刹である。


表参道入口 欅の大木が迎えてくれる


表参道の石段 


惣門の周りは苔が美しい


山門の前には樹齢数百年の大銀杏樹や杉の老木がうっそうと茂っている


本堂の裏の山には三重塔

そして、表参道の脇には、島崎藤村が小諸時代に過ごした旧宅が移築され、ひっそりと佇んでいる 



「千曲川のスケッチ」や「破戒」などの名作はこの旧宅で生まれたのである。


法事、お墓参り等をすませた後、グループホームにお世話になっている母の面会に。
認知症がすすみ、息子の私を自分の弟と混乱している母であるが、骨粗鬆症による腰痛を抱えながらも元気な様子に少し安心。
年に数回しか会えないが、元気で長生きして欲しい。
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